01.このカーブを曲がれば

加地×日野

 かたん、かたたん、と、一定のリズムが心地よく身体を揺らしている。
 若干混雑した電車内で、並んで座っている香穂子と加地は、落ち着きなくそわそわと窓の外を伺う。
 「この長いカーブを曲がり切れば海が見えるよ」と、喧噪にかき消されそうな小さな声で、加地が香穂子の耳に囁いた。




「ねえ、香穂さん。夏休みは海に行かない?」
 夏休みに入って数日。まだ課外授業の期間は続いていたけれど、気持ちはすっかり補習後の本格的な夏休みへと向いていた。初めて彼女と迎える夏を、どんなことをして過ごそうかと、ここ最近の加地の思考を占めるのは、そんな楽しい想像ばかりだ。
「うん、いいね」
 と朗らかに笑った香穂子は、あ、でも。とほんの少し表情を陰らせた。
「……それって、泳ぎに行くってことだよね?」
「うん。夏の海でやることって言えば、そうでしょう?」
「うわ」
 香穂子が顔をしかめる。何か問題がある? と加地が首を傾げた。
「問題って言うか、泳ぐなら当然水着、ってことだよね」
「うん。……きっと可愛いだろうなあ、香穂さんの水着姿」
 半ばうっとりとして呟く加地に、香穂子は「ははは」と乾いた笑いを零す。……ちょっと、ダイエットしなくっちゃと心の中で呟いた。
「……何か、余計なこと考えてるでしょ」
 香穂子の思考なんてお見通しの加地が、苦笑して指摘した。ぐ、と言葉を詰まらせる香穂子の頭を加地の大きな掌が優しく撫でる。
「香穂さんは、ホントに自分の魅力をさっぱり分かっていないんだから。無駄なダイエットなんてしなくても、充分可愛いのにさ。でも、どうしても気になるならTシャツとかパーカー羽織っていればいいんじゃない? 日焼け防止にもなるし」
「う、うん。そうしようかな……」
 女友達と海に行くのと訳が違う。加地と一緒に、ということで増々ハードルが上がっちゃうだけなのに、と内心ぼやきつつも、香穂子は加地の提案に素直に頷く。ふと何かを考えた加地が、顎の辺りに指先を当てた。
「……案外、その方が僕にとっても好都合なのかな。他の男の目に晒すのも問題だし……」
「え、何?」
 小声で呟いた加地の言葉が聞き取れなくて、香穂子は焦って顔を上げる。ふふっと笑った加地が曇りのない笑顔で「何でもないよ」と答えた。

 お互いに受験を控えた身の上としては、本当はあまり遊びにばかり気を向けるのは、誉められたことではないのだろうと思う。
 だが、高校三年生の夏は、もう二度と来ない。
 自分がこれから生きていく道を決めるために、受験という難関に向けての準備も大切だけれど、思春期を生きる17歳にとっては、ひと夏の想い出作りだって同じくらいに大事なことなのだ。

 前日から、馬鹿みたいに浮かれているなと自覚していた。
 早々と海に出かける準備を整えて、地図や時刻表とにらめっこしつつ、その日一日の過ごし方を想像する。
 忘れ物がないか、何度も何度も荷物をひっくり返して確かめて、そんな香穂子を見つめる姉が、「……本気で馬鹿じゃないの」と呆れたように呟いた。
「でも、いいわねえ。海。仕事に就くと、お財布にはそれなりに余裕が出来るけど、今度は時間の余裕がなくなっちゃうのよねえ」
 しみじみと零される姉の愚痴に、香穂子は苦笑いをする。
「何と言っても、こういうイベントは準備してる段階が一番楽しいのよね。本番が始まっちゃえば、後は終わるだけなんだもん」
 はあ、と小さく溜息を付く姉に、香穂子は一つ瞬きをして。
 うん、それ分かる。と真面目に頷いた。

 かたん、かたたん、と一定のリズムで進む電車が、香穂子と加地の身体を目的地に運ぶ。
 少しだけ無理な体勢で身体をひねって車窓の外側の景色を眺めつつ、加地が言った通りこの電車が緩く長いカーブを曲がり終えて、そして車窓の向こうに広がるはずの景色を、二人は浮き足立つような心持ちで待っている。

 きっと楽しい海辺でのひと時は、あっという間に終わりを告げて。
 少し陽に焼けた、遊びに疲れた身体で帰りの電車に揺られる時には、一つ終わってしまった楽しみを振り返る自分たちの心が、少し寂しいような気持ちに埋め尽くされているのだろうけれど。
 それでもまだ、今はお楽しみが始まる直前だから、心の中は、ただ期待だけで満たしておいて。


 緩いカーブを曲がり切った車窓一面に、太陽の光を反射して煌めく海面が見えて来る。
 加地と香穂子は周りの目も気にすることなく、同時に大きな歓声を上げた。


 そうして、緩いカーブを曲がり切れば。
 本格的に二人の楽しい夏休みの想い出作りが始まるのだ。




あとがきという名の言い訳 【執筆日:09.7.11/加筆修正:2010.7】

渡瀬が書く地日創作にしては、ちょっと珍しい話かなと思います。あんまりほのぼのする話って書かないもので(笑)
加地は受験だろうがなんだろうが、やりたいことは我慢しないだろうと思います。夏のイベントなんて、しっかり網羅しそうですよね(笑)

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