呼び出しは突然に。

with you 第1話

 ふと耳に入った喧騒に意識が反応して、香穂子は中空を見上げた。
 談笑していた友人たちも、突然不可解な動作をする香穂子を何事かと見つめ、そうしているうちに自分を取り囲む雑音が、はっきりとした形を持って香穂子の耳に届く。
『普通科2年2組の日野香穂子さん、至急理事長室まで来てください』
 ごくん、と香穂子が口に含んでいたいちご牛乳を飲み下す。声の発信源は、つい数秒前まで昼休み放送でクラシックの音楽を流していた教室に備え付けられたスピーカーだ。顔をしかめてスピーカーを見つめた友人が、その表情のまま香穂子に視線を向けた。
「正直に言いな、香穂。……何やらかした?」
「別に何も……っていうか、直分かってるじゃん! 学校ではほぼ一緒に行動してるんだからさ!」
 片手で机の上をばんばん叩き、香穂子が抗議する。直と呼ばれた友人は、にやにやと笑いながら頬杖をついた。
「いやいや、さすがに放課後帰宅してからのアンタの行動までは知らないからね~。実は夜な夜な繁華街を徘徊していたり……」
「でも、それだったら理事長室じゃなくて職員室に呼ばれるものじゃないの~?」
 もう一人の友人が、のんびりとした口調で呟く。香穂子がそういう問題じゃない、と裏手でツッコミを入れた。
「じゃなくて、しないから!徘徊とか!」
「まあ、冗談はさておき」
 切り替えの早い直が、食べつくしたチョコレート菓子の包み紙をくしゃりと丸めつつ、話を本題へ戻す。
「早いところ、行ってきたら? 理事長室。呼び出しは素行の悪さだけが理由とは限らないし」
「あ、そうだよね! 香穂ちゃん、最近人命救助とかしなかった?」
「いや、全く身に覚えはないんだけど……」
 職員室に呼び出されるのなら、まだ話が分かる。
 香穂子は取り立てて素行が悪いわけではないが、かといって何の落ち度もないような清廉潔白な人間でもない。授業がつまらなければ居眠りもするし、校則では禁止されている下校時間の寄り道や、ちょっとだけ垢抜けて見えるよう、制服の改造も目立たない程度には施していたりする。
 だが、どれもこれも教師が黙認している些末事だ。実行しているのは香穂子だけではないし、そもそもそれが、わざわざ昼休みに理事長室に呼び出される理由になるとは思えない。直が言ったように、呼び出しを受ける理由は悪行だけではないのだろうが、かといって呼び出されるような善行をした覚えもない。
「考えるだけ、無駄でしょ」
 さばさばとした性格の直は、そう言ってひらりと片手を振る。「行って来い」というジェスチャーだ。
「『案ずるがより産むがやすし』ってね。行ってみれば分かることだよ」
「あ、香穂ちゃん。後で理事長室がどんなとこだったか教えてね。きっと、校長室よりも豪華なんだろうなあ~」
 友人二人に見送られ、香穂子はあまり気が進まないながらも、重い足取りで教室を後にする。呼び出された以上、今行かなかったとしても後で結局行く羽目になるのだろうし、成程、直の言うとおり、教室で悶々としているよりも、行ってみればはっきりと理由が分かるのだから。


 香穂子の通う星奏学院というのは、普通科とそして音楽科という特別な学科が隣接する私立高校だ。敷地は同じ場所であっても、校舎は離れていて、二つの科は制服すらも異なる。同じ敷地内に異なる制服が一緒くたに収められている光景に、入学当初は戸惑っていたが、1年も過ごせばその景色の奇妙さにも慣れ、自分とは異なる制服と校舎内ですれ違うこともあまり気にならなくなってしまった。それでもカリキュラムから異なる二つの科は、あまり頻繁に交流することがないから、香穂子にとっては音楽科は他の学校の生徒たちという印象なのだが。
 そんなことを考えながら、普通科の生徒と音楽科の生徒が共有で使用するエントランスや生徒会室が入っている建物の中に足を踏み入れ、香穂子は入学当初に一度、校内案内で通りがかったことしかない理事長室の場所を、懸命に思い出しながら校舎の中を歩く。
 それらしい一室の前に、一人の音楽科の制服を着た男子生徒がいた。もちろん香穂子はその男子生徒を知らないが、胸元のアスコットタイの色は同じ真紅だったから、どうやら同学年だ。理事長室のドアを離れ、こちらへ歩いてくる際に、その長身だが随分と細身の男子生徒は、少しだけ驚いたように香穂子を見つめ、それから気を取り直したように軽く会釈をする。会釈の仕方に不思議と気品があって、綺麗な顔立ちよりもその洗練された仕草の方が香穂子の印象に残った。
 真っ直ぐに伸びたその男子生徒の綺麗な後ろ姿を見送り、それから香穂子はふと我に返る。のんびり男の子に見とれている場合ではないのだ。
「2年2組の日野ですが」
 入学して以来、初めて訪れる理事長室の豪奢なドアの前で、香穂子はノックと共にそう告げる。
 そう言えば、さすがに校長は知っているが、理事長という人物を香穂子は入学以来見かけたことがない。入学式等には出席していたのだろうが、来賓の顔までいちいち覚えてはいなかった。
「入りたまえ」
 ドアの向こう側から聞こえた声は、想像よりも若い気がする。
 好奇心半分、不安半分で、香穂子は見た目よりも軽いドアを押し開いた。
「……失礼します……」
 こわごわ細く開けたドアの隙間から身を滑らせて中に入ると、正面の広い机の所に座っていたのは、おそらくはまだ二十代後半か、せいぜい三十代初めに見える、端正な顔立ちの男性だった。そしてその机の傍らに背の高い、無精ひげの白衣を着た男性教師が佇んでいる。
 男性教師の方には見覚えがあった。確か普通科でも音楽の担当をしている教師で、金澤という名前だっただろうと思う。とはいえ、香穂子は芸術科目は美術専攻であるので、実際に授業を受けたことはないのだが。
「日野、香穂子くん」
 腰かけている男性の方が、一字一字を区切るようにはっきりと、香穂子の名前を呼ぶ。 
 理事長室にいて、もう一人の金澤は理事長ではありえないのだから、この男性が理事長なのだろうか。……声の印象通り、随分と若い。
 理事長と思しき男性は、所在なさげにそこに立つ香穂子を上から下まで遠慮なく眺め倒し、何やら面白そうに「……成程」と呟き、小さく笑う。
 ……やっぱり理事長なのだろうと、香穂子は勝手に推測する。些細な行動一つ一つの、威圧感が半端ではない。
「日野くんは、この学院が3月に卒業生を送り出すために行う演奏会のことを知っているかね?」
 前触れもなく、理事長(仮)は香穂子にそう尋ねる。何やら目の前の男性が醸し出す雰囲気に圧倒されていた香穂子は、「は? え、演奏会?」としどろもどろに尋ね返した。
「学院内の選抜された演奏者が、曲目からメンバーの構成から、全てを取り仕切る形で開催されるものだ。その卒業演奏会には卒業生の名高い演奏家や著名人も臨席する。もちろん、中途半端な演奏や学芸会気取りのレベルの低い演奏を聴かせるわけにはいかない。ある意味この演奏会は、現在の星奏学院のレベルを各界に披露するためのものでもあるわけだからね」
「……はあ」
 そうなんですか、としか、香穂子には言いようがない。全く自分とは縁遠い世界の話だなと他人事のように聞いている香穂子に、理事長(仮)は次の瞬間、信じがたい一言を告げた。
「今年度のその卒業演奏会の演奏者に、君を選抜したい」
「はあ、そうなんですかあ……」
 流れでついついそう答え、香穂子はしばらくの間口を噤む。
 そして、徐々に理事長(仮)の告げた言葉の意味を理解し、香穂子は見る見るうちに青ざめる。「演奏者あ!?」と絶叫すると、失礼なことに傍らに立っている金澤が肩を震わせて笑っていた。
「もちろん、君ひとりではなく、もう一人音楽科の方から月森くんというヴァイオリン専攻の生徒を選出している。今後は二人で協力し合いながら、卒業演奏会までの約1年間、演奏会をどういうものにしていくかの構成を」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
 立て板に水、とばかりに話を進めていく理事長(仮)の言葉を、香穂子は大声で遮った。先ほどまでの緊張は消え去って、思わず香穂子は歩を進めて、理事長(仮)に詰め寄る。
「私、普通科なんですけど!」
「別に普通科の生徒が演奏者に選抜されてはいけないという規定はないよ。要は演奏者としての実力が伴えばいい」
「だって、演奏って! 私何も……」
「何も、演奏は出来ない、と?」
 ちらりと、視線だけで理事長(仮)は香穂子を見据える。その有無を言わさぬ視線にひるんだ香穂子は、無意識に後ずさった。
「……こういう学院の関係者をやっているとね、好む好まざるに関わらず、普段から人の演奏を聴く機会が多い。それこそ、プロのコンサートから、子どもの発表会まで、大小問わず、様々な種類の人間の演奏を、ね」
 香穂子は目を見開き、唇を噛みしめる。
 ……もしかして、この人は知っているのだろうか。
 不安げな香穂子の視線の先で、理事長(仮)は唇の端に意味ありげな笑みを浮かべた。
「ところで君は、楠原千早というヴァイオリニストを知っているかね?」
 ああ、と香穂子は思わず目を閉じて、天を仰ぐ。
 間違いない、この人には知られている。……本当の香穂子のことを。
「……おいおい、吉羅。あまり生徒をいじめるなよ」
 大人げない奴だなーと、金澤が溜息を付く。……先程、人の反応で爆笑していたアナタも相当大人げなかったと思います……と香穂子は思ったが、そこまで空気の読めない人間ではないので、黙っていた。
「まあ、演奏会ってのは現理事長であるコイツが、ある意味独断と偏見で代表を決めちまうもんだから、コイツがお前さんと決めちまったからには、お前さんが代表ってことになる。……だが、別にお前さんに拒否権がないって訳じゃあない。どうしてもやりたくないってことなら、断るって選択肢もあるぜ」
 金澤が、やんわりと話の内容を補足してくれる。逃げる手立てはあるのか、と香穂子が安堵の息をついた。
「しかし、君は本当に辞退しても構わないのかな?」
 先ほどの金澤の言葉で、はっきりと理事長と確定した目の前の人物が、香穂子を試すようにそう尋ねてくる。香穂子は弾かれたように顔を上げた。
「学院からの要請で、ある意味公的に演奏が……ヴァイオリンが弾ける機会だ。それが君にとって不利益なものだとは私は思わないが」
「私、は……」
 香穂子は俯き、ぎゅっと握りしめた両手を見つめる。しばらくの間理事長室を沈黙が包み、やがて理事長がふ、と息をついた。
「それでは、君に考える猶予を与えるとしよう。……そうだな、一晩」
「短っ!」
 ボールが跳ね返るように素早く反応した香穂子に、またもや傍らの金澤が噴き出した。椅子にもたれた理事長は、不敵な笑みを浮かべて香穂子を見つめる。
「一晩で充分だろう。選択肢は無数にあるわけではない。……私の申し出を受けるか否か、その二つきりだ」
 言って、理事長は立ち上がり、窓辺に寄って香穂子に背を向ける。
「明日の同じ時間、ここに答えを告げに来たまえ。もちろん、この申し出を断ったからと言って君の内申書に何か不都合が生じるわけではない。やるかやらないかは、君の心ひとつだ」
 では、授業に戻りたまえと、理事長が香穂子に退室を命じる。
 何かを言いかけた香穂子が結局口を閉じ、失礼しました、と告げて理事長室を後にした。
「……なかなかの鬼畜だな、お前さん」
「失礼な」
 香穂子の出て行ったドアをしばらく見つめていた金澤が、ぽつりと呟き、それに反応した理事長……吉羅暁彦は、小さく肩をすくめた。
「彼女にも言った通り、私は彼女にこれ以上にないチャンスを与えているだけですよ」
「しっかし、本当にお前さんの言うとおり、アレが神童と呼ばれた子なのかねえ。……もう7、8年表舞台には出てきていないんだろう?」
「名簿を確認しただけでは……今日、実際に本人と会話をするまでは、私も半信半疑でしたけれどね」
 間違いありません、と自信ありげに吉羅は言う。
「本当に全くの別人ならば、おそらくこの話は即答で断って来たでしょうし、楠原千早の名にも反応を示した。……素直な子ですね。分かり易い」
「だがなあ、……表舞台から消えたのは本人の意志なんだろうし……引き戻すのは老婆心が過ぎやしないか?」
 がりがり、と頭を掻きながら金澤が言うと、吉羅は腕を組んで窓枠に寄り掛かる。
「老婆心、大いに結構。金澤さんなら、目の前にダイヤの原石があって、磨けば相当に光るだろうと分かっているのに、手を出さずにただ眺めていられますか?」
「……それに、YESと言い切れないから、俺は今お前に付き合ってこんなところにいるんだろうなあ……」
「ならば、貴方も同罪ですよ」
 楽しそうに笑う吉羅に、金澤は盛大な溜息を付き。
 そうして、また先ほどの女生徒が消えたドアを、彼女の代わりとばかりに見つめる。
「どういう結論を出すかねえ。日野は」
「それは、明日までのお楽しみです」




あとがきという名の言い訳 【執筆日:2013.1.21】

連載のため、連載終了後に!

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