ぐるぐる『アヴェ・マリア』

with you 第2話

 よろよろ、と香穂子が教室に戻ってくると、昼休みはもう終わる時刻だった。教室に入ってきた香穂子に気付いた直と、もう一人の友人・美緒が笑顔で香穂子を迎えてくれる。
「お帰り、香穂」
「香穂ちゃん、どうだった? 何の表彰されたの?」
「……人命救助から離れようよ、美緒。全然違う話だから……」
 幾分疲れた口調で言い、香穂子はどさりと自分の席に腰を下ろし、そのまま机の上に両腕を投げ出して突っ伏してしまう。直と美緒は顔を見合わせた。
「何、そんなに疲弊する話題だったの?」
 つん、と香穂子の頭を指先でつつき、直が尋ねる。しばらくの沈黙の後、香穂子が小さく頷いた。
「……疲れた。少なくとも、私にとってはめっちゃ疲れる話だった」
「それってどうゆう……」
 無邪気に尋ねかけた美緒の言葉を遮るように、始業のチャイムが鳴り始めた。周りがバタバタと着席する気配の中、美緒と直も慌てて少し離れた自分の席へ戻っていく。教師が現れるまでのわずかな時間、香穂子ものろのろと身を起こし、次の授業のための教材一式を机の中から取り出す。
 机の上に重ねた教科書の上に片手をついて、はあああ、と盛大な溜息を付いた。

 普段、昼食後の古文の授業と言うと、睡魔との激闘なのだが、今日はさすがに眠気が香穂子の意識を襲うことはない。だからと言って授業に集中できるわけもなく、ただ理事長と金澤という教師の言葉とが、ぐるぐると脳内を巡っている。

『楠原千早というヴァイオリニストを知っているかね』
『別にお前さんに拒否権がないって訳じゃあない。どうしてもやりたくないってことなら、断るって選択肢もある』
『学院からの要請で、ある意味公的に演奏が……ヴァイオリンが弾ける機会だ。それが君にとって不利益なものだとは私は思わないが』

 ……分かっている。
 この申し出を受け入れることは、香穂子にとってどんなに面倒な事態をもたらすのか。
 学院の代表として演奏するということは、当然音楽科からの風当たりは強いだろう。日常的に音楽に携わっていない普通科の香穂子が選出されることを、快く歓迎するような輩はいないに違いない。しかも、今から卒業の時期に向けて準備を整えていくというのは、相当に大掛かりなイベント事だ。香穂子が持ちえる時間を随分とそちらに割かねばならなくなるだろう。
 ……何よりも、香穂子の誰にも明かすことのない私的な部分で、この申し出を受けることがどれだけ厄介な事態を引き起こすのかを、香穂子自身が一番よく理解している。
(面倒……だけど)
 それが分かりきっているのに、その場で即座に断ることが出来なかったのは、あの理事長の言うとおり、香穂子が心の奥底で、この申し出を魅力的に感じているからだ。
(大変だって分かってるけど)

 この申し出を受ければ。
……ヴァイオリンが弾ける。

「かーほ」
 呑気な声とともに、香穂子の視界一杯に直の顔が広がる。反射的に後ろに飛びのいた香穂子は、そのまま椅子ごとひっくり返りそうになった。
「ななななな、直!」
「見事なくらいにぼーっとしてるね。もう古文終わったよ」
 香穂子のリアクションを意に介さず、直は周囲に視線を巡らす。ざわざわと短い休み時間の喧騒に包まれている教室内は、既に次の授業への準備に取り掛かっている。そんな中、香穂子の机の上だけは、まだ古文のテキストとノートが広げられたままだった。
「うーん、ノートも見事なくらいに真っ白」
「うわわわ、……直、後でノート貸してぇ……」
 黒板は既に綺麗に拭き清められていた。情けない声で香穂子が懇願すると、心得たように直が頷いた。
「まあ、理事長室から帰って来た時の様子から、こういうことになるんじゃないかと思ってたからね。でも私のノートは高いよ?」
「……ううう」
 渋い顔で唸りつつ、香穂子が「駅前のカフェの季節限定フルーツタルトでどうだ!」と提案すると、直は「毎度あり!」と笑顔で両手を叩いた。
「そう言えば、美緒は?」
「うん?お手洗いに行ったけど」
 姿の見えない美緒のことを尋ねると、直はそう答える。先ほどの様子から、時間があれば根掘り葉掘り聞かれそうだと思っていた香穂子は、ほっと息をついた。
 卒業演奏会のこと、その演奏者に選出されたこと……香穂子自身、結論を出していない今、美緒には全てを打ち明ける段階ではないように思うからだ。
「それで、香穂。結局、理事長室の話は何だったの?」
 アンタの様子、尋常じゃないでしょ、と直が眉根を寄せて尋ねてくる。ちらりと直の顔を上目遣いに見つめ、香穂子は小さな声で告げた。
「直は……星奏で卒業演奏会っていうのがあるの、聞いたことある?」
「……ああ、そう言えば。先月辺りに美緒が騒いでたね。1年がかりで、選抜された代表者のみで曲目から曲順、演奏メンバーまで企画して、演奏するとかなんとか……」
 昨年度の選抜者が美緒の憧れの音楽科の先輩だったとかで、放課後延々と美緒の話に付き合わされたことを直は思い出す。……直はそこまで興味がないために、相槌を打ちつつ聞き流していたのだが、随分と長い時間付き合わされたためにあまりいい印象が残っていない。つい、渋い顔になった。
「……ん?ちょっと待って」
 話の流れで結論にたどり着いて、まさか、と直は香穂子に向き直る。
「……選ばれたの?……アンタ」
 両手で顔を覆った香穂子が、小さくうんと頷く。直は眉根を寄せ、増々渋い顔になる。
「何でって言いたいところだけど……。知られてたってこと?もしかして」
「はっきりとは言われなかった。だけど……多分そうだと思う。でなきゃ、私が選ばれるってことはありえないから」
 小中と香穂子と同じ学校だった直は、少しだけ香穂子の過去を知っている。
 だが、美緒とは高校に入ってから知り合ったため、香穂子は美緒には理事長室に呼び出された理由を言いづらいだろう。
「で、どうする?」
「え?」
 直の問いの意図が分からずに、香穂子が顔を上げる。心得たように微笑む直が、指先で机の表面を叩いた。
「一人でじっくりと悩みたい?それとも全部忘れて、思い切り憂さ晴らしたい?どちらでも、香穂の好きなようにしてくれていいけど」
 帰宅部である香穂子たち三人は、余程予定が合わない事情でもない限りは三人で帰宅する。今これほどに香穂子が上の空になっているということは、香穂子はまだ結論を出していないのであろうし、そうなれば三人で行動していても香穂子の意識はそちらへ引っ張られてしまう。かといって香穂子には家でこのことについて熟考できない『事情』がある。香穂子が結論を出すために悩みたいと言うのなら、直は美緒を引き連れて先に帰宅するつもりだった。
 しばらく思い悩んだ末に、美緒が教室に戻り、6時限の始まりのチャイムが鳴り始めるころ、香穂子は「……もう少し悩む」と結論を出す。
 頷いて笑った直は、「駅前カフェのフルーツタルトは、ケーキセットに格上げね」と宣告して、自分の席へと戻って行った。


(まあ、ただぐるぐる悩んでても結論なんて出ないわけだけど……)
 放課後、香穂子は屋上のベンチに腰かけてぼうっと空を眺めていた。
 入学以来、屋上に上がってくるのは初めてだ。放課後にのんびりと校舎内に残っていることそのものが少ないので、屋上に上がれることすら香穂子は知らなかったのだ。思い悩むには屋上がいいよ、と直の助言を受けてここに来たのだが、確かに自分の思考に沈むには邪魔が入らずいい場所だ。……結論が導き出されるかどうかは別の話として。
 本当は、香穂子にも分かっている。
 あの理事長の言うとおりだ。香穂子が選び出す選択肢は、無限にあるわけじゃない。卒業演奏会の演奏者としてステージに立つか、それとも断るか、その二択だ。
 そして、現時点の香穂子の立場としては、断る方が都合がいいのだということもはっきり分かっている。演奏者として選抜されることは、香穂子には苦行しか与えない。少なくとも、現在のぬるま湯につかっているような安穏な日々は望めはしないだろう。
 それでも、香穂子が結論を迷うのは、あの理事長の申し出に抗いがたい魅力的な要素があるためなのだ。
 それを選び取った後に待ち受けるのが、苦難の日々だと分かっていても。
 どうしてもすんなりと諦めることが出来ない、甘い毒のようなもの。
(駄目だ……結論出ない)
 思わず肩を落とし、俯いた香穂子の鼓膜を。
 その時ふと、一つの旋律が震わせた。

 それは、本能的な動きだったと思う。
 暗闇の中に射した一筋の光を追うように。
 溺れる者が、視界に入った細い藁を掴むように。
 香穂子は、その旋律が生まれる場所に、導かれるように視線を向けた。

(『アヴェ・マリア』だ)
 耳の……心の中に不意に入り込んだ音の集合体を読み解いていくと、それは香穂子がよく知っている音楽の形になった。決して複雑とは言えない音の並びなのに、綺麗で……本当に、とても綺麗で。うっかり触れてしまったら容易く粉々になってしまうガラス細工のような音色だと思った。
 とても、繊細なヴァイオリンの音色。
 ……いったいどんな人が弾いているんだろう。
 興味を引かれ、香穂子はそっとその音が生まれる場所に近づいていく。屋上の、更に一段高くなった場所。足音を立てないようにそっと階段を昇り、その狭い空間に視線を向けると、一人の音楽科の制服を着た男子生徒が、香穂子に背を向けるようにしてヴァイオリンを弾いていた。
(……あの時の子、だ)
 そのすらりと伸びた背中に、香穂子は見覚えがあった。
 昼休み、理事長室の前ですれ違った男子生徒。あの時感じた洗練された仕草、気品のある雰囲気そのままの、繊細で綺麗な……澄んだヴァイオリンの音色。
 香穂子は生まれてからこれまで、こんなに綺麗なヴァイオリンの音を聴いたことがない。
 息をひそめて、彼が弾き終わるまで聞き入って、そしてその演奏が終わった途端、香穂子は思わず拍手をした。血相を変えた男子生徒が香穂子を振り返る。その勢いに、香穂子はぴたりと拍手を止めた。
「あっ、あの、ごめんなさい。演奏の邪魔するつもりはなくて」
「……ああ、いや」
 香穂子の怯えたような様子に、ほうっと息をついた男子生徒は、ゆっくりと肩からヴァイオリンを下ろした。
「人が聴いているとは思わなかったから、驚いただけだ」
 淡々と男子生徒は告げ、傍にあったヴァイオリンケースに持っていたヴァイオリンを片付け出した。まだ最終下校までは時間があるはずだ。勝手に聴いていて不快に思ったのだろうかと香穂子は不安になる。
「練習の邪魔しちゃったなら、私が出てくよ。まだ止めなくても……」
 慌ててそう言うと、ちらりと香穂子を見たその男子生徒は、パタンと音を立ててヴァイオリンケースを閉じ、鍵をかけてそれを持ち上げた。
「いや、もう今日は帰るつもりだった。中途半端に時間があったから、少し弾いていただけだ」
 ヴァイオリンケースと、近くにあった鞄を持ち、男子生徒は香穂子の脇をすり抜けて、屋上を後にしようとする。何となく名残惜しくて香穂子がその背中を見送っていると、ふと何かに気付いたようにその男子生徒は香穂子を振り返った。
「……もしかして、昼休みに理事長室の前にいただろうか」
「え?……あ、うん……」
 まさか、あの一瞬の邂逅を覚えているとは思わなかった。戸惑いながら香穂子が頷くと、その男子生徒は……。
 あからさまに、不機嫌な表情をした。
「ならば君がもう一人の、普通科から選抜されると言う代表者か」
「……あ!」
 そこで香穂子はようやく昼休みの理事長の言葉を思い出す。
 そう、確かにあの理事長は言っていた。
 香穂子の他に、もう一人選抜者がいるのだと。
「俺は、月森蓮。音楽科2年、ヴァイオリン専攻だ。……君は?」
「え、えと。日野、香穂子……」
 普通科です、と付け足すと、月森という男子生徒は、またあからさまに盛大な溜息を付いた。
「……卒業演奏会と言えど、学院の代表としてステージに立つ演奏者に、普通科の生徒が選ばれることは納得がいかない。君がどれほどの実力者なのかは知らないが、軽い気持ちで受けてもらっては、行動を共にする俺が迷惑を被る」
「あの、私は!」
「生半可な気持ちでは困る。やる気がないのなら早々に辞退してくれ。それじゃ」
 香穂子の反論を聞くこともなく、言いたいことだけを言って月森は香穂子を残して屋上を去っていく。
 重い鉄のドアが閉まるのを、なすすべもなく見守った香穂子は、思わず空に向けて絶叫した。

「だから、私の話を聞いてってばー!!」

 そんな香穂子の叫びは、誰にも受け取られることがなく、春の青く澄んだ空に、静かに溶け込んでいった。




あとがきという名の言い訳 【執筆日:2013.1.27】

連載のため、連載終了後に!

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