狂気の淵を覗き込む

with you 第5話

「ただいま……」
声を潜め、玄関の鍵を回す音もなるべく出さないようにして、香穂子はそうっと家の中に入り込む。後ろ手にゆっくりとドアを閉めたが、微かにぱたんと音がして、思わず肩を揺らした。
息を呑んで家の中を伺うと、すぐにキッチンの方から……おそらく食器か何かだろう……かちゃんと何かを放り出すような気配がして、ぱたぱたと軽いスリッパの音が玄関先までやってきた。
「かほちゃん! いつまで、どこをほっつき歩いてたの? 今、何時だと思ってるの?」
「……ただいま、おか……ママ」
家の外での母の呼称を、内側のものに切り替えるのに間が生じた。いつもは学校から家に帰るまでのうちに整理がつくのだが、今日はいつものルーティンと違う行動を取っているせいか、『外』から『内』への切り替えが上手くいっていない。
案の定、母は不満げに表情を歪ませる。
「今、かほちゃん『お母さん』って言おうとした? ママがその呼ばれ方嫌いなの、知ってるよね?」
「うん、わかってる。ごめんなさい。……今まで友達と話してたから、その子たちに合わせてて」
「ママって呼び方、別に恥ずかしくはないでしょう? 何でわざわざ、外での呼び方変えてるの?」
(たかが呼び方にそこまで制限つけられたくないんだけど!?)
反射的に叫び出しそうになる衝動を、香穂子はゆっくりと呼吸をして落ち着ける。ここで反発すると、余計に面倒なことになる。それは、これまでの経験から十分に学んでいた。
「恥ずかしいことじゃないけど、「いまだにママって呼んでるの?」ってからかわれるの嫌だし。いちいち相手にしなきゃいけないのも、どうかと思うから」
ローファーを脱いで玄関を上がると、頼みもしていないのに母は勝手に香穂子の荷物を取るので、香穂子は内心ひやりとする。
 ヴァイオリンを学校に置きに行くかどうかを考える前、こっそり家に持ち込めないかということも実は考えていた。
だが、この昭和の専業主婦のようないつもの母の行動を思い出し、改めて、絶対に家には持ち帰らないと決めたのだ。
香穂子のヴァイオリンの存在に気づかれたら、また『ちーちゃん』が危険な目にあわされてしまう……。
「ねえ、かほちゃん。どうして今日はこんなに遅くなったの?」
「電話で言ったでしょ。新学期始まって、新しい友達もできたから、親睦を深めるための女子会だって」
「それ、門限破ってまでやることなの? そういう悪いことをかほちゃんに教えようとするのはね、いいお友達とは言えないとママは思うのよ。おうちでの決まり事をちゃんと守ってくれるお友達を別に見つけたら? 言いづらいんだったら、ママが直接言ってあげるから」
「……ねえ、ママ」
うざい、うるさい、イライラする。
一気に浮かんできたその感情を、香穂子は必死に押し殺す。
声は荒げちゃダメ、苛ついた態度も見せちゃダメ。
『ママ』の言うことは正しい。でも、それじゃ平和な高校生活は送れない。『ママ』が望む『平穏』な生活が送れるように、時々は『悪いお友達』の言うことにも耳を傾けないと。
……そんなふうに、母を怒らせないように、そして母が納得できるように、上手に説得しなければ。
そうしないと、香穂子が雁字搦めになってしまう。
「ママの言うとおりだよ。でもね、学校にはいろんな人がいて、あんまり付き合いが悪いと、それを理由に虐めたりしてくる人がいるんだよ」
直、美緒、ごめんね。
どんなに私の付き合いが悪くても、二人が私を責めたりしないの、ちゃんと分かってるから。
香穂子は心の中に浮かんできた友人二人に謝罪をする。
今日だって、香穂子が千早のところに行くための時間を捻出するために、女子会をやっているという口実を作ってくれたのに。
「誘われて、毎回寄り道したりはしないよ。でも、あんまり断り続けてると、余計に面倒なことになっちゃうんだ。だから、5回に1回くらい誘いに乗っておくの。そうすると、あんまり言われないし、虐められない。円滑に学校生活が送れるの」
そう説明しても、母はまだ納得のいかない顔をしている。とにかく香穂子が自分の言うことを聞かないのが不満だと、その表情が如実に物語っていた。
「5回に1回は多いでしょう? 10回に1回くらいでいいと思うわ」
「……分かった」
香穂子が素直に頷いたところで、ようやく母は笑みを浮かべた。一つでも香穂子が母の言い分を呑んだことで、溜飲が下がったのだろう。
「おなかがすいたでしょう? 早く着替えて降りてらっしゃい。夕食にしましょう」
いつの間にか、二階の香穂子の自室まで香穂子の通学鞄を運び、それを机の上に置いた母が機嫌よく言って部屋を出ていく。
母が階段を降りて、キッチンにたどり着くまで。この部屋から母の存在が消えるまで、その足音に耳を澄ませて、ようやく香穂子は深く息を吐く。
静かに、息をひそめるように。
悪態をつく代わりに勢いよく吐き出したい溜息ですら、そんなふうに壊れ物を扱うかのように細く、ゆっくりしか吐き出せないのは、思うがまま振る舞ってしまった後に起こった過去の出来事が、いまだに香穂子の心に影を落とすから。


(アンタたちはいいよねえ! 好きなことを好きなようにやって! 私から搾取して、いらなくなったら放り出せばいいんだから!)
(かほちゃんは違うよねかほちゃんはママのこと必要だよねかほちゃんはママがいないと何もできないよねかほちゃんは)
(かほちゃんは、ママのこと捨てたりなんかしないよね)


壊れたスピーカーみたいに途切れなく叫ぶ、悲鳴のような声が、ずっと脳裏に焼き付いている。その音が不快で、耳障りで、……どうしようもなく悲しく、痛くて。

あの日、壊れかけてしまった母に、香穂子は手を差し伸べた。
かろうじて母の正気を繋いだ代わりに、香穂子はその時何よりも一番大切だったものを手放さなければならなかった。

そして、今も。
あの時母が踏み込もうとした狂気が恐ろしくて、香穂子は母に伸ばした手を、引っ込めることができないままでいる。
この選択は、母も自分も決して救いはしないのだと、もう理解はしているのだけれど。

自分がヴァイオリンを手にしたから生まれてしまった悲劇を、直視するのが嫌で。
結局、香穂子は目を閉じて、両手で耳を塞いでしまうのだ。




あとがきという名の言い訳 【執筆日:2023.8.12】

連載のため、連載終了後に!
だけど、前回の執筆から10年が経っている現状には慄きます……!!

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