ちーちゃんと回り道

with you 第4話

(あいっ……た!)
 がつっと自分の体の中に鈍い音が響いた気がする。反射的に側頭部を押さえ、香穂子はぱち、と目を開いた。
 かたん、かたん、と規則正しいリズムに体は揺られていた。帰宅ラッシュより少し早い時間の電車内。車内にいる人たちはそれぞれに手元の携帯やスマホの液晶画面を眺めていたり、本の頁をめくっていたりと様々で、誰もうたた寝をしていた香穂子には注目していない。ゆらりと大きく舟をこいで手すりに頭をぶつけてしまったが、幸いにも悲鳴は声として外界には表れなかったようだ。
(眠れなかったからなあ……)
 いろんなことを考えすぎて、昨夜は明け方に少しだけうとうととしただけだった。昼休みまではその緊張感をずっと引きずっていて授業中に睡眠不足を解消するという技も使えなかった。午後は午後で、放課後の段取りを決めるのに頭がいっぱいで、居眠りするどころの話ではなかったし。
(ようやく気が抜けたのかな)
 ふう、と大きく溜息を付き、香穂子は電車のシートに深く背を預ける。乗客も少ない夕方の電車内は空調の温度もちょうどよかったし、規則正しい柔らかな揺れがようやく香穂子の中に燻っていた睡魔を呼び起こしてくれたようだ。
 何よりも、目的の駅を通り過ぎる前に目が覚めて良かった。うっかり乗り過ごしてしまうようならば、ただでさえ急な寄り道で門限をオーバーしてしまうのに、更に余分な時間を消費してしまうところだった。
(……ホント、直と美緒にはお礼しないと)
 門限を超えることになる香穂子のアリバイ作りに協力してくれたのは、二人の友人だった。……もっとも、アリバイを作らなければいけない理由を知っているのは直だけで、美緒は理由が分からないながらも、直に合わせて協力してくれているだけなのだが。
 面倒だけど、仕方がない。
 それもこれも、香穂子が全部自分で決めたことだ。


 普段は利用することがない、だが決して見知らぬわけでもない小さな駅で、香穂子は電車を降りた。改札を抜け、数か月前の記憶を頼りに路地を歩いていくと、徒歩10分くらいで目的の建物にたどり着く。シンプルだが洗練された外装のマンション。本人は「荷物が置けて眠れるならいい」くらいの基準で自分の住む場所を選んでいたが、周囲がイメージの問題もある、と本人の意向を無視して選んだ場所だ。
 あまり煩雑ではなく、移動が苦にならない街。それが香穂子が彼が住む場所に抱く印象だった。
 マンションの入り口で部屋番号を入力し、部屋の主を呼び出す。
 カメラに向かってひらひらと片手を振ってみると、相手は何も言わずに玄関のドアのカギを開錠してくれた。
 重たげなガラス戸を押し開き、香穂子は何気なく脇の壁に備え付けられたマンションの住民たちへの連絡用掲示板に目をやる。手書きのご町内案内や、無機質な印字文字が並ぶ連絡事項を知らせる掲示物の中で、一際異彩を放つ、明らかにプロの手を介し創り上げた大判のポスター。
 色の配色を抑えた上品なイメージのポスターには、「楠原千早ヴァイオリンリサイタル」の文字が並んでいた。

 部屋の傍に設置された呼び鈴を押すと、少しの間の後に、眠たげな表情の部屋の主が、ドアを押し開き、香穂子を迎えた。ぼさぼさの髪に着古したTシャツとジーンズ。これが「あの」著名なヴァイオリニストだとは、彼を知る一部の人間しか分かるまい。
「ごめんね、寝てた?」
 苦笑しながら香穂子が尋ねると、「お前の電話の後に一眠りして、ついさっき起きた」とぼそぼそとした低い声で彼は答えた。数日前までコンサートツアーで全国を巡っていたはずだから、疲労が溜まっているのかもしれない。
「疲れてるのに、突然ごめんね」
 繰り返し香穂子が謝ると、ふるふる、と彼は首を横に振る。ドアを押さえながら香穂子を部屋の中へ誘うと、先に立って部屋の奥へと歩き出した。
「急にどうしたんだ。言われた通り、『あれ』は準備しておいたが……」
 指先で彼がテーブルの上を示す。そこに置かれていた見覚えのあるケースに、香穂子の顔がぱああっと明るくなる。
「『ちーちゃん』!」
 駆け寄って、香穂子は慣れた手つきでケースのカギを開錠し、音を立てて開く。中にはチョコレート色の盤面を持つヴァイオリンが納まっていた。
「うわあ、ちゃんと手入れしてある!さっすがちーちゃん!」
「……どっちのことを言ってるのか分かりにくい。いい加減その呼び方を改めないか?」
 ちーちゃん、と言われた部屋の主が露骨に顔をしかめる。身近な人間にしか見せない表情の変化が、彼を実年齢よりも随分と幼く見せている。
「ちーちゃんはちーちゃんだもん。そして、この子もちーちゃん。だって、綺麗なチョコレート色でしょ?」
 ネックを持ってケースからヴァイオリンを取り出すと、香穂子は彼に向かってそれを掲げて得意げに笑う。そんな香穂子の様子に、ちーちゃんと呼ばれた楠原千早は呆れたように小さく笑った。


「……演奏するのか?」
 自分用にコーヒーを、香穂子用に紅茶を入れて、千早は専用のカップをテーブルの上に置いた。カップを自分の手元に引き寄せ、香穂子が少しだけ困ったように眉根を寄せた。
「う……ん、まあ成り行きで。ちょっとした学校行事に出ることになって。しばらく弾けてないから、勘を取り戻すのが大変そうなんだけど」
「どうしても練習に行き詰ったら、見てやるからここに来るといい。……それはいいが、香穂」
 神妙な表情で、千早が香穂子を見つめる。
「……窓花は知っているのか?」
 香穂子の動きがぴたりと止まり、表情が硬くなる。その反応で答えは充分に予測が出来た。
「……ううん。内緒でやるの。言ったら、絶対に反対されちゃう」
「そうか。……窓花も相変わらずなんだな。……すまない」
「ちーちゃんが謝ることじゃないよ」
 苦笑する香穂子が口を噤むと、しばしの間沈黙が横たわる。
 それは決して不快なものじゃない。千早が口数が少ないのは承知の上だし、お互いに話題が尽きて沈黙が訪れるわけではない。この雰囲気が、香穂子と千早の日常だった。
「……どうして、突然ヴァイオリンを弾く気になった?」
 しばらくの静寂の後、千早が口火を切る。うーんと香穂子が天井を睨み付けた。
「多分、元々弾きたいって気持ちはあったんだけど……決心がついたのは、魅力的なヴァイオリンに出会ったから、かな」
「魅力的」
 おうむ返しに呟いた千早に、香穂子は大きく頷く。
「すっごい綺麗で繊細なの!でもどこか頑なで、気難しくて……弾いてる本人もそんな感じだから、ちょっと先が思いやられるけど」
 月森の人物像を思い返して、香穂子は肩をすくめる。それから、そうだ、と両手をぱん、と打ち鳴らす。
「あのね、その子の音、何となくちーちゃんの音に似てるんだよ」


(さーて、これを一体どうするべきか……)
 千早のマンションを後にし、真逆の道程を辿って、香穂子は慣れ親しんだ自分の生活領域へと戻ってきた。往路と違うのは、香穂子が抱えている荷物が一つ増えていることだ。
 千早に預けていた香穂子のヴァイオリンケース。これが手元になければ香穂子は自分の音を取り戻せない。だが、現実問題としてこれをこのまま自宅に持ち帰るわけにはいかない。
「面倒だけど、一旦学校か……駅前のロッカーにでも預けに行こうかな……」
 一旦学校に持って行けば、どうやらこちらの事情は察知しているらしい理事長が、香穂子のヴァイオリンを置く場所くらいは確保してくれるだろうが、今日はさすがにもう彼も学院内にはいないだろう。更に寄り道を重ねることは、完全に門限をオーバーすることになり、非常に気が重い。だが、事情が事情だけに背に腹は代えられない。
 仕方なく、学校に向かおうと顔を上げた香穂子の足が、ぴたりと止まる。
 前方からやってきた人物も、驚いたように歩みを止めた。
 それは、月森だった。
「な、なんで月森くんがこんなところに……」
 呆然と香穂子が呟くと、不愉快そうに表情を歪めた月森が、視線で脇の壁を見やった。
「ここは俺の家だ。帰宅するために、自宅近辺を歩いていて、何か問題があるのか?」
「嘘ぉ!?」
 思わず香穂子は素っ頓狂な叫び声を上げる。
 普段香穂子が通る通学路とは違う道だが、千早の家から戻るときの最寄駅がこちらの道の方が近いために、今日はこちらの道を通ってきた。
 方角は違えど香穂子の自宅の近辺ではあるため、香穂子はこの家を見知っていた。豪華で広大な敷地の中にそびえ立つ洋館。密かに幼い頃から香穂子の憧れの家だったのだ。
「ああでも、言われてみれば何か納得というか……」
 派手ではないが、上品な雰囲気と繊細さ、そして常人にはなかなかありえないスケール。
 月森の自宅と言われれば、確かにイメージが合う。……正直、月森の雰囲気に集合住宅だの、こじんまりした一軒家だとかいうものは、合いそうにない。
「何をぶつぶつ言っているんだ」
 呆れたように言う月森が、香穂子の脇を通り過ぎようとする。その瞬間に、香穂子の脳裏に一つの名案が浮かんだ。
「待って!」
 思わず、月森のジャケットの裾を掴み、香穂子が月森を呼び止める。呆気にとられたように、目を丸くした月森が斜めに香穂子を見下ろした。
「日野さん……?」
「ずうずうしいお願いとは百も承知の上なんだけど、私を助けると思ってここはひとつ力を貸してもらえないかな!」
 香穂子は体を半分に折り曲げる勢いで頭を下げ、持っていたヴァイオリンケースを月森に向かって差し出した。
「これ、明日まで預かっててもらえませんか!?」
 突然の申し出に、月森は増々困惑する。香穂子が顔を上げ、すがりつくように月森を見上げた。
「あの、ホントに一日預かってもらうだけでいいの。月森くんが家を出る時間教えてもらえれば、朝にちゃんとここに取りに来るし、明日以降は理事長に相談して置き場所確保してもらうから迷惑かけないと思うし……」
 その必死の眼差しに、月森はあることを思い出す。今日理事長室で、彼女が卒業演奏会の代表を引き受けるために出した条件。
(絶対に家に知られることがないよう、協力してください)
 ……学院の代表として選出され、ヴァイオリンを弾くという名誉を、何故家に内緒にしなければならないのか、月森にはわからない。
 だが、人には人の事情がある。……月森に、決して人には理解されることのない、家族に対しての複雑な心情があるように。
「……君の自宅はどこだ」
「え?……えっとね……」
 突然の月森の問いに、慌てながら香穂子が自宅の住所を告げる。ちょうど月森の自宅と学校までの間に位置する場所だ。
「……学校の坂の下の交差点を、7時半頃に通過する。その時に渡せばいいだろうか」
 ため息混じりに月森が呟き、香穂子の手からヴァイオリンケースを取り上げた。
「え、あの。でも」
「わざわざこちらまで戻ってくることはない。どうせ同じ方向へ行くのだから、途中で渡せばいいことだ。上手くそこで落ち合えなければ、俺が学校まで持って行く。昼休みにでも君が俺の教室に取りに来てくれるといい。さすがに俺がわざわざ君の教室までこれを運ぶ義理はないのだから」
 正直、月森は普通科の校舎は苦手だった。
 たまに、何かのっぴきならない用事で足を踏み込むと、珍獣を見るかのように物珍しげに頭のてっぺんからつま先まで、遠慮なく眺められるからだ。
「うん、……うん! ありがとう。本当に、ありがとう、月森くん!」
 香穂子は顔を輝かせ、安堵の笑みを浮かべて月森に何度も感謝の言葉を告げる。「いや……」と曖昧に月森は言葉を濁す。何か月森の知らない事情が彼女にはあるとはいえ、たったこれだけのことで、こんなに真っ直ぐに感謝の意を向けられるとは思わなかった。

「明日、ちょっと早めに交差点に行って、待ってるね」
 そう言って、香穂子は笑顔で手を振って小さな街灯が照らす薄暗い夜の路地を、自宅に向けて歩いていく。


 その背中が闇に溶け、足音が聞こえなくなるまで見送って。
 そして月森の脳裏にふと、もしかしたらきちんと送って行った方がよかったのだろうかという考えが浮かんできた。




あとがきという名の言い訳 【執筆日:2013.6.23】

連載のため、連載終了後に!

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