Anniversary Date

2月27日 冬の恋人の日
【八木沢雪広×小日向かなで】

Anniversary Date

 小日向かなでは悩んでいた。
 とはいえ人生の何をも左右することがない、とてもささやかな悩みだ。
 むしろこんな小さなことでいつまでも悩んでいられる分、自分は平和で幸せなのだとも思う。
 ここ最近、かなでのお悩み相談所と化している親友の支倉仁亜が失笑しつつ「それは世間一般的には『悩み』と呼ぶものではなく、『惚気』に分類されるものだと思うぞ。まあ、聞いている分には面白くもあるから、私は根気よく付き合うがな?」と小さく溜息を吐く程度には、贅沢な悩みなのだ。
「恋人同士のイベント事にリアルタイムで参加できないなんて、遠距離恋愛となれば避けて通れない道だろう? 分かってて至誠館元部長と恋を始めたのであれば、そこは諦めるしかないんじゃないか?」
「そうなんだけど……」
 今の自分がかなり面倒くさい人間になっていることをかなでも自覚していた。仁亜に愚痴ってみても、どうしようもないということも。
 それでも面白がりながらも根気よく取り留めのない愚痴に付き合ってくれる親友に、つい甘えてしまう自分を止められずにいる。
「せっかく彼氏が出来て初めてのバレンタインとホワイトデーなのに、直接会えないのは、やっぱり寂しい……」
 抱えたクッションに顔を埋めつつ、かなでが溜息を付く。
 仙台で暮らすかなでの恋人、八木沢雪広。
 彼とのやり取りは、基本は携帯電話とメール。
 時節の折には今時の高校生男子としては珍しく、挨拶と近況とを綺麗な筆跡で記したハガキが届く。
 そして頻繁とは言えないまでも、直接会いに来てくれることもある。
 八木沢は神奈川の大学への進学を希望していたため、受験の関係で横浜に来ることも多く、その機会も通常の遠距離恋愛カップルと比較して多かった方だと思う。
 そして推薦枠で早々と第一志望校への合格を決めた八木沢には、4月からはこれまでよりは会いやすくなるはずだった。
 だが、肝心な恋人同士の鉄板のイベント事であるバレンタインデーとホワイトデーの時期には、八木沢に逢えないことが確実なのだ。
 しかも、それは全てかなで側の都合による。
「あの真面目で融通の利かなそうな八木沢のことだ。期末試験の準備を放棄させてまで君に逢うという選択肢はないだろうな。定期演奏会の練習もしかり」
「ううううう」
 そう、バレンタインデーの頃にはかなでには実技も含む期末試験が待ち受けており、ホワイトデーのすぐ後には星奏学院オーケストラ部の定期演奏会が控えているため、練習追い込みの真っ最中なのだ。
 卒業式を終えたら新生活の準備を兼ねて早めに引っ越しをする予定の八木沢も、その演奏会を聴きに来てくれると言っていた。ならば不甲斐ない演奏は聴かせられないと思うし、八木沢を優先して練習を怠ったとなればきっと八木沢に怒られてしまう。
「……うん。ちゃんと、仕方ないってことは分かってるの。分かってるけど、愚痴は言いたいって言うか……毎回付き合わせるニアには悪いって思ってるんだけど」
「私なら構わないさ。君の可愛らしい愚痴を聞き流すだけで、美味しいお茶とお菓子とを御馳走してもらえるのだから」
「……聞き流す……」
 平然と答える仁亜に、かなでが眉を八の字にしてがっくりと項垂れる。
 そんな彼女に笑いながら、仁亜は紅茶のカップを口元に運ぶ。
「だが、親友がいつまでも悶々と思い悩んでいるのを見ているのも忍びない。……一つ、変わった記念日を教えてやろう。バレンタインデーとホワイトデーを兼ねる便利な記念日だ。日程的にも君の予定にはあまり大きくは影響しないはずだよ。相手側の都合までは知らないが」
「え?」
 予想外の提案に、かなでが目を丸くする。
 そんなかなでに笑いながら仁亜が教えてくれた記念日は。
 2月27日、冬の恋人の日。
 
 
「……という記念日があるらしくて」
『そうなんですか。支倉さんはさすがによくご存知ですね』
 電話越しの八木沢の声は、直接会って話す時よりも幾分低く、落ち着いている。
「報道部の記事を書く時に、記念日とかの話って、ちょっと空いた紙面を埋めるのに便利なんだそうです。当たり障りがなくて、ちょっとした豆知識で。そんなに文章の量も多くないし」
『埋め草というものですね。至誠館の学内新聞にもよく載っていますよ。小さなスペースに記者の独り言が書いてあったり、それこそ生活にちょっと役立ちそうな雑学が書かれていたり』
「そうなんですね……」
 感心したようにかなでが呟き、それからふと我に返る。
「あの……それで、八木沢さん。本題なんですけど」
『ああ、2月27日の都合でしたね。……僕の方は、構いません』
 せっかくの仁亜のアドバイスだ。有効に使わせてもらおうとかなでは早速八木沢に連絡を取ってみた。バレンタインもホワイトデーも、かなでの都合で一緒に過ごすことが難しそうだということを伝え、27日の『冬の恋人の日』という記念日に便乗して、バレンタインとホワイトデーをまとめてやらないかと提案したのだ。
『僕は受験も無事終わっていますし、自由登校の身ですから、あなたよりは余程時間の融通が効きます。ちょうど、卒業式の前に新居の準備を整えておきたいと思っていたので、2月下旬には一度そちらの方へ行こうと思ってはいたんです』
「ホントですか?」
『ええ。細かい日程までは決めていなかったんですが、27日は幸い土曜ですし、せっかくですからそちらに一泊してかなでさんとゆっくり過ごせれば嬉しいです。……その代わり、新居用の買い物などには付き合っていただかないといけなくなりますが』
 申し訳なさそうな八木沢の声に、かなでは彼に見えてもいないのにぶんぶんと首を横に振る。
「全然!大丈夫です! じゃあ、バレンタインの準備して待ってます。ちょっと遅くなっちゃうけど」
『では僕も前倒しですけれど、ホワイトデーのプレゼントをご用意していきますね。……でも、日付は関係ないと思いますよ。要は、僕たちの気持ちですから』
「はい!」
 いい返事をして、それから待ち合わせの時間と場所とをざっと決めておいて、会話を畳む。
 通話の終わったスマホを片手に仁亜の部屋のドアをノックして中を覗くと、ベッドに背中を預けた格好の仁亜は、読みふけっている雑誌から視線を上げることなく、何もかもを見通したように言った。
「無事に約束を取り付けたみたいだな」
「うん!ニアのおかげで、ちゃんと初めてのバレンタインとホワイトデー満喫できそう!それに八木沢さん、ちょうどこっちに新居の準備しに来る予定があって、その新しいお部屋で一泊して帰るんだって。だからいつもみたいに慌てずに、ゆっくり過ごせそうだよ」
 八木沢がこちらに来るときはほとんど日帰りのため、仙台に戻る新幹線の時刻を気にしなければならない。
 どこかに遊びに行っても、新幹線のホームに戻るための移動時間を考慮しなければならないので、自然と二人で過ごす時間は短縮されてしまう。だが、少なくとも次に逢うときは、その気忙しさを感じる必要はない。
 かなでの言葉を聞いた仁亜が、ふと顔を上げる。無邪気に喜ぶかなでに視線を向け、何やら含んだように笑みを浮かべた。
「……ふうん、成程。確かに恋人同士の一日を『満喫』できる状況だな」
「でしょう? そうと決まったら、バレンタインのチョコ、何作るか決めなきゃ。送るしかないなら日持ちのするものって思ってたけど、八木沢さんのお部屋に行けるなら、その場で食べれるものでも大丈夫だし」
 私の分も作って一緒に食べようかなあと思案するかなでに、仁亜は「そうじゃなくて」と呆れたように溜息を付く。
「……何だ、一念発起で覚悟を決めたのかと思ったのに、まるでそこまで考えが到ってないじゃないか」
「どういうこと?」
 首を傾げるかなでに、仁亜はまた視線を手元の雑誌に落としながら、まるで歌うようにつらつらと告げる。
「恋人同士の記念日で、一人暮らしの相手の家で、お泊り可能とくれば……まさに一線を越えるチャンスじゃないか」
「……はい?」
 脳が深く考えることを拒絶する。首を傾げるかなでをちらりと横目で見、更に仁亜は告げる。
「聖人君子に見える人格者であろうとも、所詮はただの男だよ。君にその気がないのなら、充分に気を付けた方がいい」
「や、八木沢さんはそんなこと」
「考えてない、と思うのなら、逆にあちらにむごい。まあ君の認識がその程度なら、そういう感情を上手く誤魔化す男だとは思っているが」
「……」
 真っ赤になったかなでは、何も言えない。
 仁亜はとどめとばかりにかなでを見上げ、にっこりと笑った。
「もしお泊りコースになる時には、ちゃんと連絡してくれ。アリバイ作りの協力は、君の手作りバレンタインチョコのおすそ分けで手を打とう」
「……私で遊ぶの止めてええ!」
 それは今まで愚痴という名の惚気を垂れ流してきた報いと言えるのかもしれない。
  
  
  
(もう、ニアがあんなこと言うから)
 そして、2月27日当日。
 朝一の新幹線で横浜にやってくる八木沢を出迎えるため、かなでは駅の待合室にいた。
 元々オケ部やクラスの友人、先輩後輩、幼馴染み、遠方の知人に到るまで、友チョコ・義理チョコを律儀に配るつもりだったかなでは、期末考査終了後にやや徹夜に近い形で膨大な量のチョコレート菓子を作り上げた。
 当然のことながら隣人の仁亜をわざわざ除外することもなかったので、ちょっと数を多めに渡したトリュフに舌鼓を打った仁亜は、朝から「こちらのことは気にせずに楽しんでおいで。消灯時間になっても部屋に君の気配がない時には、気付かない振りをしてやろう」と笑って告げた。
 そのため、あれ以降課題(チョコ作りも含む)に忙殺されて、あの時の会話を忘れていたかなでは、改めて仁亜の言葉を思い返す羽目になった。
 おかげで、どんな顔をして八木沢に逢ったらいいのか分からない。
 実際のところ、八木沢がそういう欲求を全く持っていないとは、かなでも思っていない。
 何故なら、緩やかにではあるが八木沢とかなでは、ちゃんと異性のお付き合いとして段階を踏んでいたからだ。
 逢える回数は限られているけれど、逢えばきちんと手を繋いで、帰り際には抱擁をして、可愛らしい触れるだけのキスをして……それ以上に発展しようがなかったのは、確かに発展するほどの機会と時間がなかったことが大きい。
 だが、そもそもそれ以上の行為については、かなではあまり考えられなかった。それはかなでの方に全く経験値がないせいでもあり、また八木沢という青年の人間性でもあるのだろう。
 今まであまり考えずにいられたことなのに、改めて目の前に突き付けられるとやはり考えずにはいられない。そういう意味では、確かに仁亜の言うとおり、今日は絶好の機会と言えなくもなかった。
「……駄目だ、やめよう」
 ふるふると首を振り、かなでは小さく溜息を付く。想像上にしかないことを幾ら思い悩んでみても結局は堂々巡りにしかならないし、そんな状態で八木沢に逢い、一人勝手に悶々とするのも逢う機会が少ないだけに勿体ない。
 せっかく久しぶりに逢えるのだし、一緒にいる時間を大切に過ごせばいい。それでどう状況が流れるのかは、その時になってみないと分からない。
「何をやめるんですか?」
 そう結論付けたところで、不意に背後から声がかかる。「きゃあっ!」という悲鳴と共に文字通り飛び上がったかなでが、恐る恐る視線だけで振り返ると、驚いたように目を丸くする八木沢が立っていた。
「……すみません、そんなに驚かせてしまうとは思わなくて」
「い、いえ。私こそごめんなさい。ちょっとぼんやりしてたから」
 慌てて八木沢の方に向き直り、それからかなでは「おはようございます」と頭を下げる。
 それを微笑んで見つめる八木沢が、同じように「はい、おはようございます。いい天気でよかったですね」と礼を返した。
 
 落ち合ってから二人は電車を乗り継ぎ、大きな駅で一度改札を出た。近辺の雑貨屋で、八木沢の言っていた通り新居用の買い物をするためだ。
 それなりにいろいろなものを買い込むのかとかなでは思っていたのだが、八木沢の新居は必要最小限の家電と家具は既に揃えており、後は細かな食器類や書籍類、愛用品を持ち込むくらいだと言う。
「準備、早いんですね」
 感心したようにかなでが言うと、八木沢が苦笑した。
「推薦で早めに合格が決まったというのもありますが、結局は性分なんでしょうね。ぎりぎりになって慌てて揃えるというのがどうにも落ち着かなくて。それに、『これで大丈夫』と思っていてもやはり『あれが足りない』『これも足りない』と思うことがままありますので、時間がある時にはこちらの方に来て一泊してみて、それで足りないものを確認して……そうして、入学式を迎える頃には万全の状態にしておこうかと思っているんです」
 そんな『石橋を叩いて渡る』感覚は、確かに八木沢らしいように思えた。それに、と八木沢は肩を竦める。
「こちらは路線も複雑ですし、スムーズな乗り換え方法なども覚えないと、迷子になってしまいますので」
「あはは」
 かなではつい笑ってしまう。
 しっかり者の八木沢であるが、たまにどこか抜けているのが彼の可愛いところだからだ。
「こっち、通勤ラッシュもありますもんね。八木沢さん大丈夫なんですか?」
「まだ経験していないので何とも言えませんが、慣れるまでは少し早目に行動するようにしようとは思っています。地理に明るくなれば、自転車を使うという手もあるので、どうにかなるでしょう」
 八木沢の新居は大学の最寄駅から5駅程度離れた場所にあると言う。推薦で合格を決めた八木沢なら新しい住まいも大学の近辺で選べたはずなのに、わざわざ少し離れた場所を選んだのは何故なのだろう。
 そんな素朴な疑問がふと浮かんだのでそのままぶつけてみると、八木沢は微かに目を見開いて、それから目尻をほんのりと染めて視線を反らした。
「……貴方がそれを聞きますか?」
 まるでかなでに原因があるような言い方をする。首を傾げて、八木沢の新居の最寄駅を思い浮かべて……それから、かなでは八木沢と同じように頬を染めて、俯いた。
 その駅は、八木沢が通う予定の大学とかなでが普段使っている最寄駅の、ちょうど中間地点に位置していた。
 
 
 
「小皿とティーカップ、ですか?」
「ええ」
 駅ビルのテナントで、それなりに名の知れた雑貨屋の中に足を踏み入れ、八木沢はかなでに今日買う予定のものを告げた。茶碗や湯飲みなどの食器は一応揃えてはあるが、小皿を数枚とティーカップが欲しいと言う。
「特に食事をするのに困るわけじゃないんですが……デザートを作った時にそれを使うわけにはいかなくて」
「あ、なるほど。了解です」
 かなでも普段から料理をするのでピンときた。
 食事の際は大きめの皿におかずを盛って、更にご飯用の茶碗、汁物用のお椀があれば充分だと思えるが、デザート類を乗せるには確かに食事用の皿は大き過ぎるだろう。八木沢は自分で和菓子を作るから尚更だ。
 小皿、小皿、と呟きながら陳列棚を眺め、かなではふと目についたものを手に取る。
 和菓子専用というわけではない普通の小皿だが、和風の花模様があしらわれたカラフルなセットだった。お値段も手ごろで、和菓子ではなく洋菓子を乗せても映えそうだった。
「こんなの、どうですか?」
 そっと両手で抱えて八木沢を振り返ると、一目見て八木沢が破顔する。
「ああ、いいですね。可愛らしいですし、何を乗せても合いそうだ」
「ええと、だったらティーカップも……」
 きょろきょろと辺りを見渡して、かなでは同じような色合いのティーカップを見つける。外観はシンプルだが内側に小花模様が施されている。だが淡いピンクと若草色のペアになっており、どうやらバラ売りはしていないようだった。
「残念、可愛いんだけどな……」
 眉根を寄せてかなでが別のものを探そうと視線を巡らせると、背後からかなでの手元を覗き込んだ八木沢が、最初に目を付けたティーカップのセットの箱を、ひょいと取り上げた。
「あ、それ、ペアのセットで。バラ売りしてないみたいなんですけど……」
「構いませんよ。……貴方の分も必要ですから」
「え」
 かなでが目を丸くすると、八木沢ははにかむようにして笑う。
「せっかく近くに暮らすんですからいつでも遊びに来てください。その時に、貴方にお茶とお茶菓子を出すのに、貴方用の食器がないと困るでしょう?……元々、そういうつもりの買い物なんです。その……ホワイトデーのプレゼントの意味合いも込めて」
「あ……ハイ」
 ありがとうございます、とかなでは小さな声で呟く。
 八木沢の新居に置く、かなでのためのものを買う、なんて。
(ちょっと、何か……)
 そして改めて周囲を見渡すと、やたらとカップルが楽しげに食器を選んでいる光景が目につく。更にその二人の左手の薬指に光るものがあったりすると。
(何か、新婚のカップルの買い物っぽい)
 自覚するとやたらと恥ずかしくなって、心持ち八木沢との距離が離れてしまう。八木沢もそれを特に咎めはしなかったので、彼にもかなでが自覚したことが、伝わってしまったのかもしれない。
 それでも何とか買い物を済ませ、二人はどこかぎくしゃくしたまま八木沢の新居へと向かった。
 
 
 
「まだあまり物が揃ってませんけど、どうぞ」
 そう前置きした八木沢に通された彼の新居は、確かにあまり物がなくてすっきりしていたが、生活するにはもう充分なように思える。落ち合った時に言っていたように食器棚には空白が目立ち、書棚には何も入っていない。だが冷蔵庫や洗濯機などの家電は設置してあるし、何よりも食器以外の台所用品が充実していた。
「ここに来るときは何か作るんですか?」
「そうしたいんですが、食材を溜め込めないので、その時に食べ切れる程度の簡単なものくらいですね。ああそうだ、僕は和菓子以外のレシピはあまりよく知らないので、かなでさんにいろいろお聞きしたいと思っていたんです」
「あ、じゃあ今度作り置きできる料理のレシピ、幾つか持ってきます」
「お願いします」
 言って、八木沢はリビングに鎮座しているこたつに入るようかなでに勧め、自身はその台所に立った。ホワイトデー用の和菓子を作ってきているので、準備してくれると言う。なので、かなでも電子レンジを借りてバレンタインデー用のチョコレート菓子を準備させてもらうことにする。八木沢のためには昨晩の間にフォンダンショコラを焼いておいた。八木沢の部屋でレンジが使えると聞いていたので、どうせなら温かい状態で食べてもらおうと思って決めたメニューだった。
 準備が終わり、布をかけたお皿を持ってかなでのいる部屋に戻ってきた八木沢と入れ替わりに、かなでが台所に立つ。レンジでフォンダンショコラを温めている間に、二人分のお茶を淹れる。バレンタインプレゼントの一つとして何種類かの茶葉を持ってきていたが、紅茶ではなくほうじ茶を選んでみた。これなら和菓子にも合うはずだ。
 先程雑貨屋で購入したペアカップにほうじ茶を注ぎつつ、同様に既に八木沢が開封して一洗いしていた先程の小皿に温まったフォンダンショコラを乗せる。最後の仕上げに、小さなタッパーに入れて持ってきていたドライフルーツを飾り付けて完成だ。……ここまで道具がそろっていることを知っていれば、ホイップクリームやチョコレートソースでもうちょっと凝った仕上げが出来たのかもしれないが、今日のところはこれで充分だろう。
「お待たせしました」
 ティーカップとフォンダンショコラを次々と運び八木沢の目の前に座ると、差し出されたフォンダンショコラに八木沢が目を輝かせた。
「とても美味しそうですね。飾りのドライフルーツも色合いが綺麗です」
「えへへ、喜んでもらえてよかった。八木沢さんのも見てみていいですか?」
 布をかけられたままの小皿が気になる。どうぞ、と促され、かなではそうっと布を持ち上げ、そして感嘆の声を上げた。
「すごい、可愛いです……っ!」
 花柄の小皿の上に桜の花とハートの形をした練り切りが乗せられていて、更に周囲には練り切りの小花が散りばめられている。
「写真、写真撮らなきゃ!」
 あわあわとかなでが荷物の中からスマホを取り出して、撮影を始める。僕も撮ろうかな、と、同じように八木沢がかなでのフォンダンショコラにスマホを向けた。
 
「何か、ちょっと負けた感じです」
 それぞれにそれぞれがプレゼントしたお菓子を食べながら、かなでがぽつんと呟いた。
 想像以上に可愛らしい練り切りにテンションが上がったが、落ち着いてみればそれだけ八木沢が丁寧にかなでのためのお菓子を準備してくれたということだ。もちろん愛情はこれ以上にないくらいに込めているが、どう見ても八木沢の方が手間暇をかけている。
「それは仕方がありませんよ。僕は自由登校中の呑気な身分ですので。かなでさんは期末考査と定期演奏会の準備でお忙しい中、ここまで準備して下さったんですから、もうそれで充分です」
 そう話す八木沢の幸せそうな笑顔に嘘はない。だったらいいか、とかなでも笑う。
「さて……お菓子を食べ終わったら、少し歩いて腹ごなしをして、それから夕飯を食べに行きましょうか。その後菩提樹寮までお送りしますよ」
 互いの皿に一口、二口のお菓子が残っているタイミングで、八木沢がそう切り出した。反射的にかなでは顔を上げる。
 もう少し、ここでゆっくりできると思っていたからだ。
「あ、あの。……もうちょっと、ゆっくりしませんか? 今日は新幹線の時間気にしなくていいし、まだ話したいこと一杯あるし……。夕飯は何だったら私が作っても……あ、せっかくだから夕飯用のレシピ、幾つか試しに作ってみたり」
「……かなでさん」
 咎めるように、八木沢が名前を呼ぶ。
 かなでがスイッチが切れるように押し黙った。
「その……あまり、ここに貴方と二人で長居をしたくないんです。それは、僕の方の勝手な理由ですので、貴方が気にする必要はないんですが」
 ああ、これは。
 さすがにかなでも察する。おそらく仁亜の言った通りだ。
「……私がここにいるの、困りますか?」
 どう聞くべきか迷って、それからかなでは率直に聞いてみる。八木沢は少し躊躇いがちに、だがはっきりと頷いた。
「……困ります」
 
 貴方がここにいることが、とても心地よくて。
 貴方がここにいることが、ひどく幸せで。
 自分が、どうしたらいいのかが、分からなくて。
  
 かなでが無言で立ち上がる。
 どうしたのかと、行動を見守る八木沢の隣までやってくると、糸が切れたようにその場に座り込む。息を呑む八木沢を上目遣いに見上げ、かなでが言った。
「……ニアが、言ってたんです。聖人君子に見える人格者でも、ただの男だって。八木沢さんが何も考えてないって思うのは、八木沢さんに対してむごいって。……この解釈で、合ってます?」
 あの人は、と久しく会っていない支倉仁亜に対し、若干の苛立ちが湧く。だが、そこまで正確に八木沢の心情を理解してくれているのなら、話が早い。
「そうですね、おそらくは。……僕は、この状況で夜まで貴方がここにいて、それで何も考えられないほど貴方に興味がないわけではない」
 見つめる視線の先で、かなでの視線が怖気づいたように下に落ちる。怖がってくれるならその方がいいと、八木沢は畳み掛けた。
「今まで、何度かそういう機会がありました。……初めて貴方を抱き締めた時も、キスをした時も。これ以上は駄目だと思いながらも、僕は自分を律することが出来なかった。……そういうことです」
 遠い場所で暮らしていて、逢える回数は少なかった。だが、少ないながらも確かに互いの心の距離は縮まって、そして深まった。
 今度目の前にその機会が来れば、多分また八木沢はその深まった自分の想いに負けてしまう。
 それが、かなでの不本意な事であろうとも。
 だからこそ、今日は最初からその機会を作るつもりはなかった。……作る要素があると分かっているからこそ、尚更。
「お菓子はゆっくり食べてもらいたいと思ったのでここで、とは思いましたが、食べ終わったらすぐに出るつもりでした。……貴方もまだ忙しい時期ですし、もう少しお互い落ち着いたら……」
 言いながら、落ち着いたらどうするつもりなんだろうと八木沢は自問自答する。……とりあえず、軽く頭を振ってそれ以上突き詰めるのを止めた。続きを言い淀んでいると、かなでの方が先に口を開いた。
「……でも、それって」
 矛盾していませんか、とかなでが指摘する。
「だってそれだったら、泊まりとかにしなきゃいいじゃないですか。お菓子食べて帰るだけだったら、別にいつもとそんなに変わらないのに、わざわざこっちに泊まるって」
「……それは」
 確かに、そこを指摘されれば返す言葉がない。
 かなでを帰さなければと思っていた。いつも通りに、……それでもいつもよりはあまり焦ったりせずに、落ち着いた気持ちで。そのために、せっかく泊まる環境があるのだから、利用すればいい。ただ、それだけのつもりだった。
 そこに、本当に自分の下心はなかったのだろうか。
「ニアに言われて、ずっと考えてた。ホントに八木沢さんがそういうこと考えてるなら、私はどうしたらいいんだろうって。その時は分からなかった。何か、自分がそういうことするって想像つかなくて。八木沢さんがそういうこと考えてるってことも分からなくて。でも」
 顔を上げたかなでが、八木沢の腰にぎゅうっと縋り付く。凍りつく八木沢の胸に額を押し当てて、かなでが涙交じりの声で繰り返した。
「分からないけど、一緒にいたい。もっとずっと八木沢さんと一緒にいたいです。それは、そういう気持ちとは違うものなの?」
「……かなで、さん」
 恐る恐る、八木沢がかなでの震える肩に触れる。引き離そうと試みるが、ぶんぶんと首を横に振るかなではどうにも離れてくれそうにない。
 ……いや、本気で八木沢が振り払おうと思えば、それは容易く叶うのだ。どんなに強く縋り付かれても、彼女の力に敵わない八木沢ではない。
 ただ、きっと。
 八木沢の方も、かなでを離したくない。……それだけのことで。
「……かなでさん」
 引き離すことは諦めて、八木沢は縋り付く彼女を抱きしめ返す。相変わらず脳のどこかで冷静な自分が警鐘を鳴らしている気がするのだが、それが建前だと言うことは自分自身が一番よく分かっている。
「僕も、貴方と一緒にいたい。……それを、許してもらえるでしょうか?」
 素直に、本音を告げてみる。涙に濡れた瞳を上げたかなでが、嬉しそうに微笑んで、頷いた。
 許されて、小さく安堵の息を付いて。
 そして八木沢はゆっくりとかなでの緩やかな曲線を描く頬を指先で撫でてみる。くすぐったそうに身を竦めた彼女が、それでもゆっくりと瞼を閉じるので、誘われるようにその唇を自分のそれで塞いだ。
 何度も何度も啄むように触れ、目を開いたら同じように目を開いた彼女と視線が合う。
 照れくさそうに笑い合い、それから初めて。
 深く、融けるようなキスをする。
 先程まで味わっていたフォンダンショコラと練り切りのせいなのか、絡め合う舌はこれ以上にないくらいに甘かった。
  
「……一度、外に出ましょうか」
 どれくらいそうしていたのか分からない。だが、急に焦ったように身を起こした八木沢が、不意にそう言った。
「え、はい。あの。……どうしてか、聞いてもいいですか?」
 まだ少しとろんと緩んだ目で見上げてかなでが聞くと、真っ赤になって困ったように口元を抑える八木沢が、「その……いろいろと準備もあるもので」と言った。
 あ、ハイ。と納得したかなでも同じように真っ赤になる。先程までの甘ったるい空気が嘘のようだった。
「結局、夕食はどうしましょうか?」
「そうですね。……出かけるのなら、食べてきてもいいのかも。あの……作ったり片付けたりする時間があったら、二人でゆっくりしてたいっていうか」
 玄関の三和土で靴を履きながら、そんな会話を交わす。言った側のかなでが盛大に照れて俯くので、つられて赤くなる八木沢が「そ、そうですね」とぎこちなく答えた。
 それでも八木沢はある意味覚悟を決めてくれたのだと、かなでには分かった。
 「じゃあ、行きましょうか」と、微笑んで差し出された手に片手を委ねると、指と指との間を絡めるようにして繋がれる。
 
 暖かな八木沢の指先が、かなでを逃がすまいとするように。
 強く、強く握り締められた。


あとがきという名の言い訳

甘いもの食べたい(笑)
ネタだけが先に出来上がっているもので、話の中に出て来る諸々はネットで検索していたりします。
食器類とかバレンタイン用のお菓子とか。可愛いですね。画像見るだけで癒される(笑)

記念創作は裏頁に続くように作成していますが、それを読まないと話が完結しないということもありません。続きのみを配布することはありませんので、希望される方は基本の裏頁アドレス申請の規定を遵守してください。
よろしければ拍手 web拍手 by FC2 アンケートにご協力ください。
執筆日:2018.01.07

Page Top