Anniversary Date

4月23日 サンジョルディの日
【水嶋悠人×小日向かなで】

Anniversary Date

「よう、ハル! お前、堅物そうに見えて、やることちゃんとやってんじゃん?」
 背後から抱き付き、親しげに声をかけて来たクラスメイトを、水嶋悠人はこれ以上にないくらいの仏頂面で乱暴に剥ぎ落した。「何だよう、邪険にすんなよ」と級友は拗ねたように唇を尖らせるが、はた迷惑な従兄弟といい、何故自分の周りにはこういう人物しか集まらないのだろうと深い溜息を付く。
「邪険に扱われたくなかったら、主語をはっきりさせて、要点をまとめてから話してくれ。それと……無暗矢鱈とじゃれついてくるな!」
 頬にかかる癖のない髪を指先でかき上げ、悠人は相手を鋭く睨み付ける。
 せいぜい教科書の類しか抱えていない今だから悪ふざけだと許せるが、これがチェロを持っている時ならば、友人関係解消の域だ。「ごめんごめん」と悪びれる様子もなくへらへらと笑う級友の話に呆れはすれど、なんだかんだと言いながら水を向けるのが悠人の長所だった。
「……それで? 僕が何をちゃんとしてるって?」
「ああ、そうだった」
 本題を思い出した級友がぽんと両手を打ち、先程悠人から乱暴に剥がされたのをもう忘れたのか、片腕を伸ばして悠人の首回りに絡め、ぐいと引き寄せる。
「お前、小日向先輩と旅行すんだろ?」
「………………は?」
 ぼそっと耳元で低く囁かれ、悠人はその乱暴な扱いと囁かれた内容の両方に訝しげな顔をして、長い長い沈黙の後間抜けた声で尋ね返す。「隠さなくてもいいって!」って何故か満面の笑みの級友がばんっと容赦ない平手で悠人の背中を叩いた。
「先輩と付き合い始めてどんくらいだっけ?……半年?もうちょい? まあ、幾らハルが堅物って言っても、ぼちぼちそういうのも考える頃だよな~」
 分かる分かる、と級友は一人こくこくと頷いている。全く話の流れが読めない悠人は、眉間にこれでもかというくらい深い皺を刻み、級友を見つめた。
「……ちょっと待て。何を早合点してるかしらないけど、僕がか……小日向先輩と旅行するなんて、全くこれっぽっちも予定にない。……お前、思い込みで間違った情報を拡散するなよ。変な噂にでもなったりしたら、小日向先輩にも失礼だろ」
「えええ~、そうなの~?」
 無駄にオーバーリアクションの級友の反応が、これまた迷惑な従兄弟のことを思い出させて、悠人は苛立つのを止められない。だが、それでもいざとなれば鉄拳制裁をお見舞いして強制的に反省させればいい血縁者とは違い、彼はただの級友であるので、反射的にはたいてしまわないよう、悠人はぎゅっと片手を拳に握り締めて、懸命に感情を抑え込んだ。
「……いったい、なんでそんな誤解をする事態になったんだ?」
「ああ。俺、昨日の帰りに駅前の本屋で小日向先輩見かけてさ~」
 級友の話によると、駅前の本屋で、悠人の恋人で一学年上のオーケストラ部の副部長である小日向かなでを見かけ、オケ部員でもある彼は挨拶しておこうと声をかけかけたところで、彼女が眺めている本に気が付いたのだという。
「それが参考書とか音楽関係の資料とか、はたまた女の子向けのファッション雑誌とかなら全然気にならなかったんだけどさ~」
 かなでが見ていたのは旅行誌のように見えたという。平積みされた冊子の上に大きく広げていたので、表紙よりも逆に内容の方が目に入ったそうだが、明らかに海の綺麗なリゾート地の写真だったらしい。
「小日向先輩、旅行にでも行くのかなーって考えたら、誰と行くんだろー?って思うだろ? そしたら、付き合ってるハルといよいよ婚前旅行か?って思うじゃん?」
「女友達や家族とって可能性が一番高いし、一人旅の可能性もあるな? そもそも、何の本だったかをしっかり見ていない以上、ただの風景の写真集で、旅行なんて全く関係ない可能性が大だな?」
 いっそ優しげに微笑み、悠人が最も可能性の高い選択肢を並べ立てていく。悠人と旅行に行くという選択肢よりも余程現実的なそれらに、級友の視線が空を泳いだ。
「あー……、まあ、そう言われてみれば? そういうことも考えられはするよなーって……」
「く・れ・ぐ・れ・も! 憶測のみで、安易に下世話な情報を余所にたれ流すなよ!」
 彼の胸元に指先を突き付け、悠人は釘を刺す。「……はい」と声をかけて来た時とは打って変わった神妙な面持ちで、級友は素直に頷いた。

(全く、勘違いするにも程がある……)
 せめて彼が直接悠人をからかいに来てくれたことに感謝するべきか。あの調子で悠人の知らないところで勝手な憶測を吹聴し、手の出しようのないところで噂話が広まらなくて本当に良かったと、悠人は心の底から安堵した。
(……それにしても、本当にかなで先輩は、何の本を読んでいたんだろう)
 落ち着いたところで、ふと彼の話の内容の方が気にかかった。かなでは活字に拒否反応を示す方ではないが、だからと言って足しげく本屋に通うような読書好きでもない。授業に必要な資料であるならば、一般教養でない限り、学院の図書館の方が遥かに蔵書数は多いはずで、しかも専門書の類になるから価格も高校生が気軽に手を出せるようなものではない。
「……ああ、でも、風景の写真を見ていたんだっけな……」
 級友の言葉を信じるのであれば、かなでが見ていたのは海の綺麗なリゾート地の写真だったらしい。かなでにマリンスポーツの趣味はなかったはずだし、日頃の会話でも、特別海に思い入れがあるような話は出てこない。級友の思い付きは否定したものの、やはり旅行の目的地候補と考えるのが、一番しっくりくる。
 旅行がしたいと思うのは別におかしなことではないし、悠人の周りでも長期休暇が近づけばキャンプだのスキー旅行だのと言う話が聞こえてくるから、学生が旅行計画を立ててみたって問題はないと分かってはいる。だが。
(……問題は、誰と……)
 級友には一人旅もあり得ると言ってはみたものの、あまり一人きりになることを好まないかなでが、旅行に行きたいからと言って一人旅を選択することは考えにくかった。彼女の人懐っこく、他人に対して壁を作らない性格から考えても、一緒に旅行をするくらいの友人はいるだろう。悠人が思いつくのは、寮で彼女の隣室に暮らす普通科の支倉仁亜や、オケ部の友人や後輩。かなでは二年からの編入生であるから、故郷に戻ればそんなことを計画する仲のいい友達が何人もいるのかもしれない。……少なくとも、同行する人間の選択肢の中に万が一悠人が入っていたとしたって、彼女がそれを選ぶ可能性はひどく低いと悠人は思う。
「……って、いったい僕は、何を考えているんだか……」
 一人ごちて、悠人は両の平手でぱんっと頬を叩いて気合を入れ直す。こんなふうに悶々と憶測を並べ立てるのは、先程の級友の下世話な好奇心と何ら変わりがない。幾らかなでが悠人の恋人であっても、自分ではない誰かと旅行する自由くらい、彼女には当然許されている。
(それが、異性が相手となれば話は変わるけれど……)
 それはないか、と悠人は首を横に振る。良くも悪くも素直さが取り柄のかなでは、そういう疾しいことを悠人に気付かれずに実行できるタイプではなかった。
 そして進級したばかりの日々の慌ただしさに追われているうちに、悠人はその話題についてはすっかり忘れてしまっていたのである。
 
 
 
「悠人、今度の23日、悪いけど一晩留守番頼んでいいかしら」
 夕飯の際、申し訳なさそうに両手を合わせて切り出したのは母だった。壁に掛けられたカレンダーを見ると、23日は土曜日で休日だった。いつもだったら土曜日にはオケ部の活動が入っているのだが、近付くゴールデンウィークに集中して練習日を設けることが決まっているので、珍しくオケ部の活動も休みになっている日だ。
「構わないけど、他のみんなは?」
 悠人自身は一人っ子だが、父方母方、両方の祖父母、両親、更に叔母まで暮らしていて、家の中は人がいないという時間がない。悠人が留守番を頼まれずとも誰かが存在しているはずで、改めて留守番を頼まれるのはかなり珍しかった。
「それが、皆それぞれ旅行だったり寄合だったり、予定を入れちゃっててね。ゴールデンウィークの混雑を避けようと思ってたら、何だかその日に集中しちゃったみたいなの」
「ああ、……なるほど」
 長年同居しているだけあって、仲はいい家族たちだが、互いの予定を完全に把握するほど過干渉はしない。それぞれがそれぞれの都合に合わせて計画を立てた結果、今回はそれが全て同じ日に重なってしまったということなのだろう。
「うん、大丈夫。僕は剣道の稽古とチェロの練習くらいで、部活も休みだし、特に予定はないから。一晩くらいは何とかなるよ」
「ありがとう。……あ、そうだ。連休なんだし、寂しいなら仙台の新くんに泊まりに来てもらっても」
「絶対嫌だ!」
 名案とばかりに顔を輝かせた母のアイデアを、悠人は即断する。
 賑やかなのが嫌いなわけではないが、この年代になれば、いつも家のどこかしこから誰かの気配がする状況が、時折煩わしく感じることもある。チェロの練習にしても勉学にしても、一人でじっくり集中できそうなチャンスなのに、あの賑やかが服を着て歩いているような従兄弟の新が来てしまえば、全てが台無しになってしまう。悠人にとってはうざったいばかりの新も、両親や祖父母達からしてみれば甘え上手の可愛い親戚という存在でしかなく、「ええ~~」と残念そうに眉を下げた母は、すぐに気を取り直したように話題を変えた。
「まあ、悠人が一人でいいって言うんならそれはそれでいいけど。……それより、ちょっとこっちに来て、これ、見てちょうだい」
 今度は悠人が「ええ……?」と嘆きたくなる番だった。だが、基本マイペースな母親は悠人の反応を気にしない。渋々ながら八畳ほどの和室に入っていくと、大きめの和机の上に、たくさんの手芸品が並べられていた。
「……何、これ」
 半ば呆然と悠人が呟くと、「すごいでしょ?」と少し興奮気味の母が顔を覗き込んできた。
「今度、ご近所に住んでらっしゃる方が、文化サークルの講師をされるらしくてね。生徒さん募集を呼びかける意味合いも兼ねて、今度神社であるバザーに出してみても構わないかって相談にこられたのよ。サンプルとして幾つかもらっていいそうだから、悠人も欲しいならあげるわよ」
「でも、こんなのを僕が貰っても……」
 言いながら、悠人の視線が一番手前にあった作品の上でふと止まる。しばしじっとそれを眺めた後、片手でそれを持ち上げてみた。
「……じゃあ、これ。貰ってもいい?」
「あら。……いいわよ。ついでに生徒募集の声かけてくれると助かるわ」
 少し意外そうに母は目を見開いたが、すぐに気を取り直したように笑って手作りのチラシを渡す。悠人は頷きながらそれを受け取った。
 教室か、部室か。……募集の対象としては年代が低めだろうが、本人たちではなくともその家族が興味を示す可能性はあるので、チラシを貼らせてもらえれば、貰ったものの代償としては充分だろう。
 正直、悠人自身にとっては特別必要なものでも欲しいと思うものでもなかったのだが、華やかな色合いと華美過ぎない装飾とが、何となく好ましいあの彼女のことを思い出させて、自然と手が伸びてしまったのだった。
 
 
 
 そして、4月23日土曜日。早朝から水嶋家は慌ただしく、父方の祖父母、叔母、母方の祖父母、そして両親とが相次いで、それぞれの目的のために出かけて行った。残された悠人は、いつも通り道場に朝練に出かけ、帰ってきてからは、悠人と同様に広い神社の敷地内に置いてきぼりの愛猫と庭の小屋に暮らす鶏の世話をしつつ、授業の予習復習を行い、チェロの練習のために楽譜を眺めたりする。
 邪魔が全く入らないため物事はとても順調に進んでいくのだが、それと同時になかなか時計の針が進んでくれない。一人きりはそれはそれで厄介なものなんだなと嘆息したところで、不意に携帯がけたたましく鳴り始めた。
 居間のテーブルに置きっ放しのそれを、縁側から懸命に腕を伸ばして取り上げて画面を見れば、「小日向かなで」と表示されている。先輩か、と反射的に緩んだ頬に気付くこともなく、悠人は通話ボタンを押した。
「はい、水嶋です」
『あ、ハルくん? こんにちは、小日向です』
 画面を見れば自分からの通話だと悠人が分かるのは百も承知だろうに、かなでは律儀に名乗った。「こんにちは」とこちらも律儀に応じて、悠人は足元に擦り寄ってくる愛猫の頭を撫でた。
「どうかしたんですか? こんな時間にかけてこられるの、珍しいですよね」
 壁の時計を見れば、時間は11時を少し回ったくらいだった。彼氏彼女の間柄なのだし、電話やメールのやり取りはもちろん頻繁なのだが、どちらかと言えばそれは夜に来ることが多い。日中は部活で顔を合わせるため電話やメールが必要がないからなのだが、休日の電話もかなでは午後にかけてくることの方が多かった。元々朝に強くないので、休日の午前中はだらだらと過ごしているのだろう。
『あ、うん。えっと……あのね。もし……もし、ハルくんの都合が良かったら、今日これから逢えないかなって思って……』
 それは、思いがけないデートのお誘いだった。ちょうど暇を持て余していたところであるし、他でもないかなでからの誘いだ。「喜んで」と即答しかけて、悠人はふと自分の状況を思い出した。
『ハルくん?』
 と訝しげに尋ねてくるかなでに、悠人は少し沈んだ声で応じた。
「あの、かなで先輩。……逢うのは構いませんし、嬉しいんですが。今日、うちに誰もいなくて、夕方には家に戻らなければならないんです」
 留守番を命じられている以上、家屋の管理はもちろんだが、何よりもやらなければならないのは、今足元でじゃれ付いている猫と庭でのんびり地面をつついている鶏の世話だ。一日放っておいてどうなるものではないと分かってはいるが、引き受けた以上、自分の役目をおろそかにするのは悠人の主義に反する。陽の高いうちは家を空けて出歩いても問題はないが、夕方にはさすがに家に戻らなければならないだろう。
 そして、せっかく彼女とゆっくり過ごせる休日を、自分の都合で中途半端に過ごすのも、何だか申し訳ない気がした。
『誰もいないって……ハルくん、おうちに一人? 夜も?』
「ええ、皆旅行や泊りがけの寄合に出かけていて。明日の夕方までは一人でいるはずです」
『ご飯とかは?』
「それも、何とか。冷蔵庫の中に何か残り物でもあるでしょうし、いざとなれば一食くらいコンビニで調達しても」
 本当は何か作り置きをしておこうかと母が言ってくれたのだが、食材がある程度冷蔵庫の中に入っていることは分かっていたし、今はスーパーの惣菜でもコンビニの弁当でも、そこそこ立派なものを出してくる。自分も含めた家族の一泊の準備に忙しい母に甘えるのも気が引けて、自分で何とかする、と断ったのだ。
『じゃあ私、ご飯作りに行こうか?』
「……は?」
 脳天気な声であっさりとそう提案してきたかなでに、悠人は思わず声を上げる。
『うん、そうしよう。ハルくん、使っていい食材何があるか教えてくれる?足りない物調達していくから』
「かなで先輩!」
 一人納得して話を進めようとするかなでを、悠人が鋭い声で制する。
 幾らつきあっている男の家でも、他に誰もいないのに一人で来ようなんて、無防備にもほどがある。……はっきりそう言ってやらなければ、鈍いかなでが理解しないことは分かっているが、事細かに説明するとなれば、わずかなりとも自分にそういう疾しさがあることがかなでに露呈してしまう。それは、悠人にしても不本意なことだった。
『でも、出来合いのものってあんまり体によくないと思うし……あのね、実は私、ハルくんに渡したい物があるの。それを渡して、ご飯作ったら、すぐに帰るから。ハルくんの邪魔にならないようにするから……ね?』
 かなでの返答は、やはり悠人が意図したことの中心からはほんの少しズレていた。だがここまで必死に言われて、それで絆されないほど、悠人もかなでの来訪が嫌なわけではない。
「……用件が終わったら、すぐに菩提樹寮まで送ります。それでも構いませんか?」
『うん!』
 嬉しそうに弾んだ声に、悠人は深い溜息と共に頭を抱えた。


 冷蔵庫の中の残量の多い食材をかなでに伝えると、野菜を少し使わせてもらって、メインは悠人の好きなメニューの材料を買っていくとかなでは言った。迎えに行きましょうかと尋ねると、夕飯に合わせてゆっくり買い物を済ませてから向かうので、構わないと断られる。簡単なメニューならともかく、かなでレベルの料理となれば悠人が一緒にいても買物で役に立つことはできないし、荷物の量もそんなにないと言われてしまっては荷物持ちを引き受けることも出来ず、かなでの提案を丸呑みするとなると、夕飯に合わせた時刻にかなでがここに来るということはそれなりに日が暮れてからになると気が付いたのは、午後四時を過ぎた辺りだった。何時、とはっきり指定されてはいないが、準備の時間を含めて考えても、かなでが水嶋邸を訪れるのはどんなに早くても午後五時以降だろう。夕飯を作るだけ作ってもらって追い返すような非常識な真似もしたくないので、二人で食事をして後片付けをして、それからかなでが悠人に渡したいものとやらを受け取って……どんなに早く見積もってもかなでを送って行くのは午後八時くらいになるだろうか。案外、こちらの事情は伝えずにかなでの誘いに応じて外に出かけた方が、早くかなでを帰せたのかもしれないと気付いたが、今更予定を変えるわけにもいかなかった。
 そして悠人の予測通り、かなでは午後5時を少々過ぎた頃に水嶋邸の玄関に現れた。スーパーのロゴが入ったビニール袋と、ショルダーバッグを抱えてにこやかに玄関に立つかなでを見て、何だかんだと言いつつも嬉しくなるのだから、自分も現金なものだと悠人は自嘲する。
 そんな悠人の葛藤を知る由もなく、かなでは何度か水嶋邸を訪れるうちに顔見知りになった愛猫を見つけると、「こんにちはー」と語尾にハートマークがつきそうな甘ったるい声で呼びかけ、近寄ってきた猫をこれでもかと撫でまくっている。ついつい悠人が背後で咳払いをすると、「あ、ご、ごめん。ご飯作るね!」と恥ずかしげに頬を染め、勝手知ったる水嶋邸のキッチンへ駆け込んで行った。
 残された猫が物言いたげに悠人を見上げ、ぱたんと長い尻尾を振るので、悠人は「……お前に妬くのは、心狭いよな」と猫に詫びて、かなでの代わりにその頭を撫でてやった。
 
 悠人が危惧していた通り、かなではやはり自分も悠人と一緒に夕飯を取るつもりでいたらしく、自分の分も食器を借りていいかどうかを聞いてきた。ちょうど菩提樹寮の寮母の休暇日で、そもそも今日は自分の夕飯を準備しなければならなかったらしい。悠人の予定を聞いてすぐに夕飯を作りに行くという選択肢が出てきたのも、そんな理由があってのことだったのだろう。
 かなでは手伝いを申し出た悠人にほとんど手を出させずに、手際よく夕飯の調理を終えた。悠人が好きな白身魚のあんかけをメインに、みそ汁ときんぴらやおひたしの副菜など、複数のメニューが食卓に並べられる。そもそも午前中は自炊をしない寮生の支倉や幼馴染みの如月響也のために、作り置きの料理を何品か作っていたらしく、「響也もニアも、お漬物類あんまり食べないんだよね……」と嘆きつつ、瓶詰にした大根やセロリのピクルスまで持参していた。和風の味付けは祖父母たちが好みそうだったので、残りを貰ってもいいか問うと、むしろかなでは嬉しそうに冷蔵庫の中にそれらを丁寧に並べてくれた。
「味付け大丈夫?」
「ええ、とても美味しいです」
 と、対面で食事をしていると、まるで新婚夫婦のようだなと思い至って、悠人は重い溜息を深く、長く吐く。「あ、あれ? 何か駄目だった?」と困惑するかなでに、何でもないですと答えておいて、悠人は赤くなる頬を隠すように掌で覆う。
 ああ、本当に。
 どうしようもなく、今自分は、浮かれている。
 逢う予定のなかったかなでがデートに誘ってくれて、それが叶わなくてもわざわざ家まで来てくれて、夕飯を作ってくれて、目の前でご飯を食べながら笑っている。
 嬉しくて、幸せで。あんなに警戒心のないかなでに苛立っていたのに、結局誰よりも自分自身がこの時間を喜んでいる。
 それが実感できるからこそ、悠人はここまでにしなければと心の中で自分を戒める。
(……僕は、多分かなで先輩が信じていてくれるほど、淡白な男じゃない……)
 常日頃、理性的であるべきだと悠人は自分を律している。だが、相手がかなでだと、時折その理性が脆く崩れてしまう。それは初めてのキスの時、顕著に表れた。
 昨年の夏、新がアンサンブルコンクールのためにこちらに滞在していた頃、海外育ちの新はすぐにかなでに懐き、悠人から見れば過剰すぎるほどのスキンシップを持ってかなでを構い倒した。最初の頃は戸惑っていたかなでも、下心のない(……ように無邪気さを装っているだけで、実際のところは下心満載だったのだろうと悠人は踏んでいるが)新の言動に、いつしか新のされるがままに任せていたが、いざ彼女と付き合い出した時に、悠人は内心誓っていたのだ。新のような不埒な振る舞いはよそう。理性と節度を持ち、健全な男女交際を心がけよう、と。
 だが、何度目かのデートの時、雨宿りのために駆け込んだ今ではあまり目にすることのない公衆電話ボックスという切り取られた空間の中で、その誓いは脆くも崩れ去った。かなでの存在が傍に在って、その香りを、体温や鼓動を感じた瞬間、悠人の理性はあっさりと吹っ飛んでしまった。
 雨に冷えた柔らかな唇も、壊れそうなくらい細いのにしなやかで暖かな身体も、理性を失った一人の男として見れば、ただ劣情を誘うだけのものでしかなくて。
 あれ以来悠人は、出来るだけかなでに近付くのを避けている。もちろん二人きりでデートをしたり、練習をしたり。時折、触れるだけの可愛らしいキスをする……そんなふうに時間を過ごすことはあるけれど、ある程度距離が保てる空間で、その場に他人の目がなくとも、一歩出ればすぐ誰かを呼べるような……かなでが助けを求めることが出来、自分も理性を取り戻すことが出来るような、そんな場所を選んで二人で過ごすようにしていた。
 かなでを怖がらせたり、嫌な思いをさせたくはない。万が一、それで自分が彼女の信頼を失ってしまうようなことがあれば、本末転倒だ。それは重々わかってはいるのだが、『きちんと段階を踏まない限り何もしない』と硬く心に留めていた自分の誓いが、一瞬にしてどうでもよくなってしまったあの時の衝撃は、どうしようもない自己嫌悪と後悔と共に、まだ生々しく悠人の記憶に焼き付いているのだ。
 だから、今も早くかなでから離れてしまいたい。
 一緒にいると嬉しくて、幸せで。これ以上にないくらいに心地いいからこそ、うっかりかなでのことを傷つけてしまわないように。
 そう思っているのに、やはりかなでを追い返してしまうことはどうしても出来なくて、後片付けや食後のお茶などを理由にして、結局ずるずると悠人はかなでとの時間を無意味に過ごしてしまう。かなでの方は、そんな悠人の葛藤など気付いてもいないのだろう。他愛ない話題を見つけ出しては、朗らかに悠人に語りかけ、時折足元に寄ってくる猫と戯れ、以前突かれそうで怖いと言っていた(が、興味はあるらしい)鶏に、特攻をかけようかどうかに迷っている。
(……僕がかなで先輩を帰せなくなる前に、ちゃんと菩提樹寮へ送って行かないと)
 後片付けも終わったし、湯呑みの中のお茶もあとわずかだ。ここで思い切って彼女を帰しておかないと、悠人の方が彼女を無為に引き止めてしまう。そう思い、「ぼちぼちお送りしましょうか」と声をかけると、かなではふと思い出したように顔を上げた。
「そうだった。帰る前に、私の用事をちゃんと片付けないと」
 言われて、悠人も思い出した。そう言えば、かなでは彼女の用事があってここを訪れたのだった。あまり長くならなければいいと悠人が小さく溜息を付くと、かなでが怖々と悠人の顔を覗き込む。
「あの、時間取らせて、ごめんねハルくん。そんなに長くかかる用事じゃないから」
「ああ、いえ……時間は、大丈夫です。……何ですか?」
 苛立つのは悠人の都合だ。かなでの申し訳なさそうな顔を見てそれに気付き、悠人は大きく息を付く。出来るだけかなでに気を使わせないよう、軽く微笑んで用件を尋ねた。
「これ。私から、ハルくんへのプレゼント」
 持参した大きめのショルダーバッグの中から、かなでは綺麗にラッピングされたものを取り出し、悠人へと差し出す。
 ……自分が彼女からプレゼントを貰う謂れはない。クリスマスやバレンタインデーなどの恋人同士のイベント事とは的外れな時期だし、強いて言えば、ゴールデンウィークにやって来るの自分の誕生日が思い当たるところだが、連休中とはいえ、元々オーケストラ部の練習で逢う予定なので、練習帰りにどこかのカフェに寄って、ささやかなバースディパーティをやろうと先日相談していたところだったのに。
 困惑の表情を浮かべる悠人に、かなではすぐに気が付き、慌てたように「これが誕生日プレゼントってわけじゃないから!」と弁明してくる。戸惑いながらも頷き、悠人は受け取ったものを検分する。大きさ、重さ、形……どこをどうとってみても、受け取ったものが、本だということが分かった。
「理由はちゃんと後で説明するから。とにかく開けてみて」
 楽しげに笑ってかなでが促すので、悠人はとにかく、ラッピングを解いてみる。畳の床に広げてみると、それはどこか外国の風景の写真集だった。
「写真集……?」
「あのね、ハルくん。今日、何の日か知ってる?」
 かなでの問いにしばし考え込み、悠人は小さく首を横に振る。4月23日……この日付が表すものに、悠人はまるで心当たりがない。かなでは悠人のそんな反応を予測していたのだろう。一つ小さく頷いて、軽く咳払いをした。
「実はね、今日は『サンジョルディの日』っていって、バレンタインデーみたいに恋人同士でプレゼントを贈り合う日なの。男の子には、本を贈るんだって」
 正確にはスペインの地方での風習で、親しい人に本を贈る『本の日』であるらしい。
「ニアが学内新聞の穴埋め記事を探してて、一緒に調べものしている時に見つけたの。……私、いっつもハルくんにいろいろ面倒かけてるし、お礼がしたいなって思ってたんだけど、特別理由もないのにプレゼントとか、ハルくん絶対に受け取ってくれないだろうなって思ってたんだよね。その時に、偶然この記念日を見つけて」
 プレゼントするものが本ならば、悠人に迷惑にはならないだろうと考えた。読書に抵抗はないことを知っていたし、本から知識を得ることは悪いことではないからだ。
「初めはちゃんと小説とかエッセイとか考えたんだけど、そういうのはホントに好みがあるし。特に私の好きなものとかだと、全然趣味違っちゃうの分かってたから、写真集にしてみたの。海とか風景とかだったら、練習の合間の息抜きに眺めるのもいいかなって」
「……ありがとうございます」
 お礼を言いながら、悠人は妙な既視感に襲われる。風景の写真集……最近、どこかでかなでと関連付けて、海や外国の風景について考えたことが……
「……あ」
 ふと悠人は思い出した。そう言えば数日前に級友が話しかけてきた。本屋で旅行雑誌を読んでいるかなでを見かけたと。だから、悠人と旅行に行く計画でもあるのではないかと問い詰められたのだ。
「かなで先輩、もしかしてこの本、駅前の書店で購入されましたか?」
「え? うん。私の生活圏内で、あそこが一番大きい本屋だから」
 何で知ってるの? とかなでが首を傾げる。
「級友が本屋で旅行誌を読んでいるかなで先輩を見かけたと言っていたので」
「旅行? ……あ、言われてみれば見えなくもないかな。綺麗な風景写真って、リゾート地とか観光地とかが多くて」
 最終的に海の写真が多いものを選んだが、ウィーンやパリなど、音楽の地として名高いところの街並みの写真も捨てがたく、あまり客や店員が寄ってこない一角だったのをいいことに、かなでは幾つか本を広げ、購入する本を吟味していた。しかも海外旅行用の冊子が並ぶ棚からも近い場所だったので、遠目に見れば旅行用の本を探しているように見えなくもなかっただろう。
「……いろいろ、疑問が解けました……」
 深い溜息と共に悠人が呟く。かなでの行動を発端とする悠人と級友とのやり取りも、悠人の心の葛藤もかなでは知りようがないので、「よ、よかった……ね?」と語尾にハテナマークを付けて、かなでは小さく首を傾げた。
 謎が解けてみれば、どれもこれも大した問題ではない。安堵と自嘲が混じった複雑な色の溜息を再度吐き、悠人は改めてかなでがくれた本に向き直る。
 落ち着いて紙面を眺めてみれば確かにそれは心休まる風景の数々だった。碧い海や濃い色の空の風景の他にも、日本では見ることのない色鮮やかで個性的な建物が並ぶ街並み、石畳の上でくつろぐ猫……悠人の日常とは異なる風景がその一冊の本の中に詰まっている。
「何だか、不思議な気がしますね。……全く馴染みのない風景ですが、今もこの写真の街で、僕たちと同じように日々を暮らす人々が存在する訳ですから」
「そうだね。……いつか、ハルくんとこういうところ、見に行けたらいいなあ」
 ……おそらく、それはかなでにとって、特に深い意味を持たずに発した言葉だっただろう。綺麗な風景の街があって、海や空があって。そんな非日常の世界の中に行ってみたいと思うことは、不思議な事じゃない。「ハルくんと」と悠人の名前を出すのも、単にこの写真を一緒に見ているからだ。それは、ちゃんと分かっている。
 それでも、そのかなでの言葉は悠人の心のどこかに、何かの引っ掛かりを残してしまう。それが初めてのキスの日からの数か月間、悠人が自分勝手に葛藤を続けていた部分に、容赦なく爪痕を残す。その痛みをこっそりと呑み込んで、ないものにしてしまえないのは、やはり悠人が彼女よりも一つ年下だからなのかもしれなかった。
「……かなで先輩。ご自分で今仰ったことの意味を、ちゃんと理解していらっしゃいますか?」
 冷静に告げようと思った言葉は、悠人にとっても意外なほど、低く、冷たく響いた。
 かなでは驚いた顔で悠人を見る。何か、怒られている気配は感じ取ったのだろう。困惑の表情を浮かべながらも、恐る恐る口を開く。
「分かってる……つもりだけど」
「……ここは、外国ですよね。日帰りできる距離じゃない。つまり、この場所に行くと言うことは、必然的に泊りがけ、ということになります」
「う、ん」
 こわごわとかなでが頷く。脳の片隅で、冷静な自分が「これはそんなにムキになるところじゃないでしょう」と警鐘を鳴らしているのに、一度溢れ出した言葉はブレーキが効かなかった。
「僕と二人きりで、泊りがけの旅行をする。……そのことがどういうことなのか、かなで先輩はきちんと理解されていますか?」
 ……ああ、と心の中で悠人は嘆息する。
 結局、自分はこれを彼女に告げたかったのだと思い至った。
 自分の見た目が一般的な男子と比べて、若干女性寄りであることを悠人は自覚している。幼い頃から女顔だとからかわれていたし、体躯も思うように立派には成長しなかった。しかしそれは生まれ持ったものだ。自分ではどうしようもないことについて色々言われることは不愉快ではあったが、それでも悠人は自分が自分であることに誇りを持っていた。
 それが、やはり密かにコンプレックスだったのだと思い知ったのは、かなでと付き合い始めてからのような気がする。
 かなでが特別な何かを言うわけではない。容姿で自分が選ばれたわけではないと知っているし、悠人が悠人だから、かなでは好きになってくれたのだろうと思う。
 だけど時折ぽつりと暗い考えが脳裏に浮かんで、消える。白い布に落ちた黒ずんだ染みのように。地面に色濃く残った雨粒のように。
 もしかしたら、この自分の容姿のどこかが、彼女に必要以上の安心感を与えているのではないだろうかと。
 かなでは元々他人に対して壁を作らない。昨年編入してきた時も、アンサンブルコンクールに参加することで出会った他校の生徒たちとも物怖じせずに話し、相手が誰であろうとすぐに馴染んだ。その人懐っこさこそが、彼女の特性なのだと言うことも理解している。……だから、かなでは悪くない。
(僕を男として警戒してはくれない……そんなふうに勝手に僕が考えているだけだ)
 悠人しかいない家に簡単に上がり込んで、無防備に振舞うかなでに苛立ちを覚えてしまうのは、悠人が男として認識されていないのではないかと、そんな焦燥感に苛まれるからだ。心を許してくれている。悠人を信じてくれている。……そのことを、むしろ喜ぶべきであるのに。
「……ハルくん」
 悠人の言葉に、かなでもようやく悠人が言わんとすることを察したらしい。妙に低い声でかなでは悠人の名を呼ぶ。そして、次に彼女が悠人に告げたことは、悠人にとって意外としか言いようがなかった。
「ハルくんって、何ていうか……。私を馬鹿にしてるよね」
「えっ……」
 思いがけないかなでの言葉に、悠人は目を見張る。確かに数分前まで、悠人がかなでを怒るシチュエーションだったはずなのに、上目遣いに悠人を睨むかなでの眼差しには怒りの色が滲んでいる。
「というか、子ども扱いというか、世間知らず? みたいな? 私、見た目がこんなだし、何も考えてないように見えるのかもしれないけど、多分ハルくんが思うよりも私、普通に17歳だと思うよ」
 童顔と小柄な体躯、そして無鉄砲とも言える思い切りの良さで、かなではしばしば実年齢より下に見られがちだ。その無謀な行動のフォローも何度もさせているので、悠人が危なっかしい存在としてかなでを見ることも、仕方がないのかもしれないが。
「何にも考えないで適当にいつかハルくんと旅行したいって言ってるわけじゃないよ。ハルくんしかいないおうちに一人で来るのも、軽い気持ちじゃない。ハルくんが心配してるような何かが起きたって、ハルくんが相手ならって、私はちゃんと覚悟してるんだよ。私にそういう覚悟が出来てないってハルくんが思うのはハルくんの勝手だけど、それって結局、私が何も知らないって、ハルくんが一番私のこと馬鹿にしてると思う!」
 一息で言い切って口を噤むと、途端にかなでの両目からぼろぼろと涙が溢れてくる。悠人はあわあわとかなでの顔を覗き込んだ。
「す、すみません、かなで先輩。僕はそんなつもりは……」
「なかったよね! 知ってる! ハルくんは私のこと大事にしようとしてくれてたんだって分かってる! でもいい機会だから、そういう気遣いが逆に女の子のこと傷つけることもあるんだって、ちゃんと理解して!」
 どこかやけくそ気味にかなでが叫び、ごしごしと乱暴に手の甲で自分の涙を拭う。
 かなでが目尻を擦るのが、傷になってしまいそうで怖くて、悠人はそっとかなでの手を取る。それでも堰を切ったように涙が流れるので、反射的に唇でその涙に触れる。かなでが驚いたように目を見開き、息を呑んだ。
「……本当に、色々とすみません。確かに僕は、思慮が足りなかった。……想いは対等にお互いに向いていることを、もっと理解するべきでした」
 思い返せば、あのキスの日も、かなでは怒りも嫌がりもしなかった。
 ちょっとびっくりしたように大きな目を見開いて、それから柔らかな曲線を描く頬を桜色に染め、「ハルくんが、私にキスしたくないんじゃなくてよかった」と、安堵したように笑ったのだ。
 もしかしたら、かなでは分かっていたのかもしれない。一つ山を越えれば、次の山がやってくる。そうして少しずつ進んで山を越えることを繰り返していくうちに、以前の山は物足りなくなってしまう。それは音楽もそうであるし、また恋愛も同じだ。
 想いを交わすことから始まって、隣を歩いて、手を繋ぎ、抱きしめ合って、キスをして。いつしか、それでは足りなくなるのだ。
 そして、それは悠人の方だけではない。同じように悠人を想ってくれている、かなでもそうなのだ。……分かっていて当たり前のことに、ようやく悠人は気付く。そしてかなではきっと、悠人が気付く前からそれを知っていた。
「かなで先輩。いつか、僕と一緒にこの風景を見に行きませんか?」
 贈られた本に掌を添え、悠人はそう尋ねてみる。かなでの答えを疑いはしなかったけれど、小さく鼻をすすり、かなでは少し拗ねたような声で答えた。
「いいよ」
「当然のことながら、泊りがけになりますが」
「……いいよ」
 かなでが頷く。ようやく嬉しそうに笑ってくれた。
 悠人は安堵して微笑み返し、それからかなでの手をそっと握る。さすがに驚いたように、かなでが繋がれた手と悠人の顔を交互に見つめた。
「……それと。もし嫌だと思われたら、遠慮なく断ってくださいね。僕は貴方に嫌な思いや怖い思いをさせたくないんです。……でも、それを言い訳にして、自分の醜い部分を貴方の目から隠すのも、違うんだと分かりました」
 無駄なくらいに丁寧な前置きをして、悠人はかなでの手を握る指先に力を込める。
「……もう、今日は菩提樹寮まで送らなくても構いませんか? 僕は出来る限り、貴方と一緒にいたいんです」
 言葉に、いろんな想いを込めた。直接的でない言葉は、かなでにどこまで通じるのかは分からない。だが、その言葉の奥に秘めた悠人の想いを汲み取れないとかなでを疑うのは、彼女の言うとおり彼女の想いを侮っているのと同意だ。
「……うん」
 かなでは、悠人の希望通りに大きく頷く。幸せそうに頬を染めて微笑み、悠人の指の間に指を絡めて、ぎゅっと強く握り返す。
 悠人の胸元に額を押し当てたかなでは、「やっと言ってくれた……」と感慨を込めて呟いた。
 ああ、自分は待たれていたのか、と悠人は気付く。
 結局、全ては自分自身の中の問題だった。悠人が案ずるより早く、かなでは悠人の葛藤にも気づいてくれていたのだ。だが、それを急かすような真似はしなかった。
 それはもしかしたら、彼女が悠人よりもほんの少しだけ大人だからなのかもしれない。何も考えていないようでいて、かなでは悠人よりも悠人のことが見えていたのかもしれない。
 彼女を欲しいと願い続けていた、悠人の本心が。

 どちらからともなく頬を寄せ、唇を重ねる。
 至近距離で見つめ合い、何となく笑い合って、それからまた……今度は今までよりも深く、長いキスをする。

 そんなふうに、また一つ。
 小さな山を、二人で越える。

 唇と、掌、指の間にかなでの体温を感じながら。
 ああ、僕もかなで先輩にお返しをしなくちゃと、悠人はまるで関係のないことを、ふと考える。

 同じように、本を贈るべきであるならば。
 いつか、かなでと二人きりで行ってみたいと願う。
 遠い、一度も行ったことがない場所の、綺麗な風景を探そうと思った。


あとがきという名の言い訳

が、がんばったー!(笑)
年下組はどの程度こういう感情を書いて大丈夫なのかに迷います。いいんだよね、男の子の心情で。分かってはいるんだけどね!(笑)
ハルらしくないかもなあと思いつつ、生真面目に一人で悩んでるのはらしいかなあとも思ったり。
ホントはハルのお返しの話も予定してたんですが、葛藤が長すぎました(笑)そちらはまた後編で!

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執筆日:2019.01.06

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