Anniversary Date

12月21日 遠距離恋愛の日
【土岐蓬生×小日向かなで】

Anniversary Date

 見るからに豪奢なホテルのロビー内に、小日向かなでは恐る恐る足を踏み入れた。
 かなでが知る『ホテル』の雰囲気とは違い、静寂とは程遠く行き交う人々が発する喧騒に満ちていたが、高級感のあるスーツやワンピースに身を包む大人たちがほとんどで、カジュアルなざっくり編みのセーターとプリーツスカートにダッフルコートという自分の出で立ちは明らかに場違いと分かる。ホテルの格調を下げかねないのでさっさと退出すべきなのは分かっているが、待ち合わせの相手が指定してきたのは間違いなくこのホテルであるはずだ。メールに記されたホテル名も住所も何度も確認したし、ホテルの玄関口に立つドアマンにも決死の突撃を試みて、メールの文面が指定する場所はここで間違いないのか尋ねてみた。
 ドアマンは笑顔で「当ホテルで間違いございません」と答え、恐縮仕切りのかなでを入口のドアに案内し、「左手の方に指定のカフェがございます」と丁寧に説明してくれた。
 そう、待ち合わせ場所がここで間違いないのであれば、かなでは先へ進まねばならない。何せ相手は遠い神戸で暮らしている滅多に逢うことの出来ない恋人なのだ。数少ない逢瀬の機会を逃すわけにも、大事な恋人に待ちぼうけを食らわすわけにもいかない。
 かなでは意を決して歩を進め、そうっとロビーを横切り、併設されたカフェの中を覗いた。
 昨日の夜、かなでが暮らす菩提樹寮で隣室の支倉仁亜とこのホテルについての話をしたが、カフェも本体のホテルに劣らず、コーヒー1杯で千円を下らないような高級カフェだ。一か八かで入店するには些かハードルが高い。待ち人が先に来ていないかと様子を伺ったかなでの判断は正解で、広い空間に点在するテーブル類の、窓際の席に目当ての人物が座っていた。かなでとは1学年……年齢では2つしか違いはないのに、優雅に一人掛けのソファに深く身を埋めるその人物は、決して周りの大人たちの雰囲気に負けてはいなかった。安堵しながらかなではカフェの中に一歩踏み入れる。すぐに現れて席に案内しようとする店員を「待ち合わせです」と退けて、かなでは窓際の席のその人物へと近づいて行った。
「……土岐さん」
 声をかけると、ちらりと眼鏡の奥からかなでの顔を見上げ、小さく微笑んだ土岐蓬生が身を起こした。
「久しぶりやね、小日向ちゃん。……待ち合わせ時間より随分と早いんやない?」
 そんなに早う俺に逢いたかったん?と軽口を叩く土岐の対面のソファの背に、かなではよろよろと両手を付く。ようやく顔見知りに出会えたことで、緊張感から解き放たれて力が抜けた。
「初めて来る場所だから、迷ったらいけないと思って……」
「早めに出てきたっちゅうわけやね。せやから、駅まで迎えに行くゆうたのに」
「……人混みはウィルスもらいそうで怖いって言ってたじゃないですか」
 土岐が幼い頃から体が弱かったことは聞かされているし、成長してそれなりに体力が安定した今でもあまり丈夫ではないことをかなでは知っている。夏の全国アンサンブルコンクールの開催期間中、菩提樹寮で皆で共同生活をしている時に、かなでも何度か土岐が体調を崩す場面に遭遇したのだから。
 インフルエンザが蔓延するこの時期にあまり外を出歩いてウィルスを引き受けたくない土岐の事情は分からなくはない。……夏の体調不良の8割程度は、練習が億劫だったことによる虚言であったにしてもだ。
「小日向ちゃんに逢うためなら、ちょっとくらい無理したってええんよ。……実際、神戸から関東までわざわざあんたに逢いに来とるんやから」
「……それは、素直に嬉しいです」
 土岐からメールが送られてきたのは、12月初めだった。『12月21日、あんたに逢いに行こうと思うとるんやけど』と、綴られた文面に、かなでは首を傾げた。指定された日があまりにも中途半端だったからだ。
 地元の大学に指定校推薦で早々に合格を決めた土岐にはあまり関係ないのかもしれないが、冬休みに入るのは25日からで、しかもその日はクリスマスだ。定番と言える恋人同士のイベント事が間近に控えているのに、いくら21日が土曜日だからと言って、わざわざその日を指定してくる意味が分からない。単純に25日にはクリスマスに因んだ何か別の用事があるのだろうかと、折り返し電話をかけて尋ねてみると、土岐の答えは是だった。
『逢えないわけやないんやけどなぁ。……クリスマスはそっちでライブすることになっとるんよ』
 なるほど、とかなでも納得する。土岐は神南高校管弦楽部元部長で幼馴染みの東金千秋と、現部長の芹沢睦と3人で、セルフプロデュースの音楽活動を行っている。夏のコンクールの合間にも路上ライブなどを行い、しっかり関東にもファンを増やして活動域を広げていた。
「ライブ、体力消耗しますもんね」
『せやな。まあ、多少無理すればあんたと遊べなくはないんやけど、無理してインフルさんでももらってしもたら、本末転倒やしね』
 残念と言えば残念なのだが、こうして土岐は自分の限界をきちんと申告するようになったことは良い傾向であると思うし、以前東金に会った際にお礼を言われたこともある。
(素直に自分の状態を話すわけじゃねえし、気遣うと余計に意固地になりやがるからな。調子が悪い時の言動が冗談かマジかの見極めが難しかったが、お前のおかげでちったあ分かりやすくなった。……ありがとな)
 土岐は確かに何もかもを積極的に行う性格ではないし、傍目には音楽活動にも熱心であるとは言えないのだが、彼なりの情熱を持っていることは間違いがない。更に人に弱味を見せることを極端に嫌うため、見えないところで無理をすることが多かったが、かなでと付き合うようになってからは、無理をして体調を崩せばかなでに心配をかけることが分かっているためか、事前にきちんと限界を報告するようになったのである。
『で、代わりと言っては何やけど。進路も落ち着いて学校行事に準ずる必要もなくなったし、千秋たちより先にそっち行って体調整えとこ思うとるんよ』
「いや、準じてください。推薦取り消されちゃいますよ?」
 慌ててかなでが諭すが、土岐本人はどこ吹く風だ。曰く、出席日数は足りているので問題はないと言う。
 そう言えば以前、芹沢が『副部長は学校にはきちんといらっしゃるのですが、部の用事で教室を訪ねると姿が見えないことが多いんです。そういう場合、ほとんど部室のソファの上で寝ているのは一体どういうことなんでしょうね……』と遠くを見つめていた。
『まあ、そんなクリスマスに逢えない俺たちのような恋人同士にはぴったりの記念日やしね、12月21日。小日向ちゃん、知っとう?』
「え……?」
 土岐の意外な言葉にかなでは目を丸くする。12月21日が何かの記念日だなんて、聞いたことがない。
『数字並べてみ、12月21日。……何か、気付かへん?』
 言われてみて、かなでは慌てて机の上のメモ用紙を引き寄せ、ペン立てに立っている蛍光マーカーを引っ張り出して数字を記してみる。12月21日。
「……右から読んでも左から読んでも同じ?」
『まあ、そういうことやね。1で2を挟んどるやろ。1がそれぞれ離れ離れの恋人同士、2が近付いた二人。……これが遠距離恋愛の恋人同士を表してるらしくてな。この日は遠距離恋愛の日なんやて』
 へえ、とかなでは素直に感心する。クリスマスやバレンタイン以外にも恋人同士が楽しむ記念日として近年はいろいろなものがあると親友の支倉仁亜に聞いたことはあったが、そもそもこれまでかなでには彼氏というものが存在しなかったので、あまり気にしたことがなかったのだ。
『そんなわけで21日から前乗りして、俺は小日向ちゃんとゆっくり過ごしたいなあと思うてるんやけど。あんたの都合を聞かんと決めてしもて、うっかりぼっちで過ごすことになっても嫌やしな。……で、どうなん?』
「大丈夫です」
 くすくす笑いながらかなでが即答する。星奏オケ部は冬休みから5日間ほど集中練習を行うことになっていたので、逆にその前の週末とクリスマスには練習予定が入っていない。前部長であるかなでの幼馴染みの如月律から部長職を引き継いだ実弟の響也が、クリスマス前の週末を空けて欲しいという彼氏彼女持ちの部員の、要望という名の猛抗議を受けた挙句の苦肉の策だった。
『じゃあ、待ち合わせ場所はまた後で連絡するわ。……菩提樹寮まで迎えに行きたいとこやけど、ちょうどインフルが流行る時期やしね。あんたには足労かけることになるけど、俺が泊まるホテルの最寄駅まで出てきてくれへん?』
「あ、そういう理由なら、私が土岐さんが泊まってるホテルまでお迎えに行きますよ」
『ほんまに? そうしてくれる? 助かるわあ』
 ……そして、今に至る。
 何せ高校生が一人で泊まるホテルなので、かなでとしては普通にビジネスホテルかシティホテルを想像していたのだが、相手はボロボロだった菩提樹寮の内装を一晩で入れ替えてしまう財力の持ち主だった。……そもそもあの暴挙は東金主導で行われていると思い込んでいたが、その行為を止めなかった時点で土岐も同類の人間なのだと、事前に察するべきだった。
「えっと、それで今日はこれからどうするんですか?」
 落ち着いたクラシックが邪魔にならない音量で流れるカフェで、かなではうっかり気を抜くと体が埋まってしまいそうなソファに恐る恐る座り、小声で土岐に尋ねる。店員が革張りのメニューを差し出してくれたので一応開いてはみるが、下調べした通りブレンドコーヒーの値段が千円を超えているので無言で閉じた。それを土岐は面白そうに見つめている。
「まあ、お茶一杯くらい頼みぃな。はるばるここまで足を運んでくれたお礼に、ちゃんと奢ったげるから」
 土岐もこの席についてそんなに長くは経っていないのだろう。確かに彼の前に置かれたティーカップの中にはまだ十分に濃い色のダージリンティーが残っている。慌てる様子もないことから、少なくともこれを飲み干すまで土岐はここを動かないはずだ。
「……じゃ、じゃあ、お言葉に甘えて……」
 頃合いを見計らって近付いてきた店員に、かなでは土岐と同じものを注文する。こういうカフェでお茶をすることは滅多にないので、何か変わったものを注文してみたかったが、カタカナ、英語、その他のかなでには読み解けない文字で書かれたメニューは、一体どれが何なのか、かなでにはさっぱり分からなかったのだ。
「それで、今日のことなんやけど」
 優雅な仕草でティーカップを口元に運びながら、土岐が切り出した。「はい」と揃えた両膝に掌を乗せて、真面目にかなでが応じる。
「とりあえず夕飯食べに行こか。遊びに行くには時間が時間やし」
「……え」
 実は、今日逢うということ以外は何も計画がなかった。そもそも新幹線のチケットが取れなかったとかで土岐が指定してきた待ち合わせ時刻が夕方であったし、「『遠距離恋愛の日』なんやから、まずは俺らが逢うことが第一やあらへん?」と言われて、かなでは素直に納得してしまったのである。
「夕飯って……どっか近くのカフェとかファミレスとかですか?」
「アホ言いなや。恋人同士の記念日にそんな色気のない真似するわけないやろ。ちゃんとこのホテルのレストランに予約入れとうよ」
「ええっ!」
 つい大声を出してしまい、かなでは慌てて両手で自分の口元を押さえる。そっと周囲の反応を伺ってみると、ちらほらとかなでに視線を向けた人はいたものの、すぐにそれぞれの世界へと戻って行ってくれたので、そこまで目立ちはしなかった。
「どないしたん? えらい焦っとるみたいやけど」
 平然とした顔で尋ねてくる土岐を、かなではつい睨み付けてしまう。
「そういうことは事前にちゃんと教えてください! こんなところでご飯食べるなんて思わないから、普段着で来ちゃいました」
 かなでの言葉を聞くと、「小日向ちゃんが素直でよかったわ」と、満足げに土岐は言った。
「ホテルの名前を教えてしもたから、あんたがこういう状況を予測して気合入れて来たらどうしようかと思たわ。……大丈夫、ちゃんと準備しとうよ」
 ……実際、待ち合わせのホテルの名を聞いた仁亜は言ったのだ。「土岐はここに泊まっているということか。だとしたら、食事はこのホテルでということにならないか? このレベルのホテルのレストランならば、おそらくドレスコードがあるだろう。準備しておかなくて大丈夫か?」と。
 それに対しての自分の答えは「えー、まっさかあ! 幾ら土岐さんでも、高校生がこんな高いとこで食事なんてしないよ」だった。
 ……ごめんニア。ニアの認識の方が正しかった。
「ん? 準備って……?」
 ふと土岐の言葉に引っかかり、かなでは怪訝な表情で顔を上げる。
 視線を受けて、土岐が意味ありげに笑った。
「もちろん、このホテルで食事をするための準備や」



 4ケタの数字の価値があるダージリンティーを飲み終えて、かなでが土岐に連れてこられたのは、土岐が宿泊しているホテルの一室だった。既にチェックインは終えていたらしく、窓際のソファの上に荷物が揃えてあり、土岐はその荷物の中から大きめの紙袋を取り上げるとかなでにそれを押し付ける。
「あっちが洗面所になっとるから着替えてき。俺もその間に準備しとるから」
「え、あの、でも、これって」
「……あんまりごちゃごちゃ言うてると、問答無用で俺が着替えさせたるよ?」
 完璧な微笑みでそう告げられて、かなでが思わず絶句したところで、土岐の掌が容赦なくかなでを洗面所へと押し込む。かなでが我に返って振り返った時にはもう扉がパタンと音を立てて閉じられていた。
 途方に暮れて辺りを見渡すと、洗面所の鏡に写る自分の顔が見事に困り果てている。八の字に下がった眉で自分が両手に抱えている物……土岐に押し付けられた紙袋。中にはそこに収まるサイズの箱が入っているが、雰囲気と重さで中身の想像がつく。先程の会話から連想しても、おそらくこの箱の中身は食事のために土岐が準備してくれた洋服なのだろう。
(つまり、このお洋服を着て、ご飯を食べに行くっていう……)
 二人で逢うと言っても、相手は土岐だ。人混みはインフルエンザが移るという理由でかなでを呼び出したほどなので、あまり賑やかなところに遊びに行くというイメージもなかった。だが、高級ホテルのレストランでおしゃれをして食事をするというのもかなでの想像とは外れたシチュエーションだった。……何となく、そういうのはもっと特別な日の行為のように思えていたからだ。
「……そういえば、クリスマスの代わりってことも言ってたんだっけ……」
 『遠距離恋愛の日』という恋人同士の記念日とは言え、かなではもっと気軽に久しぶりの逢瀬を楽しむつもりだった。だが、確かに土岐は最初から言っていた。クリスマスにはゆっくり逢えないから、この日に逢いたいのだと。きっと、土岐は初めからこの日をクリスマスのように特別な一日として過ごすつもりだったのだ。
(……プレゼントも何も、用意してなかったな……)
 ライブでゆっくりは出来ないとはいえ、クリスマス当日に土岐に逢えないわけではなかった。だからかなでは今日のうちにプレゼントは何がいいかをリサーチして、当日にプレゼントを渡すつもりでいた。だが、もしかせずとも今日に合わせていた方が良かったのかもしれない。……おそらくは、この服が彼からのクリスマスプレゼントなのだろうから。
 
「……あの、土岐さん」
 何とか着替えを終え、恐る恐るかなでが洗面所から顔を覗かせると、既に着替えを終えて窓際に立っていた土岐が振り返る。こちらはシンプルな漆黒のスーツ姿だったが、どう見ても19歳の風貌ではない。この隣に自分が並ぶことを想像すると、かなではちょっと眩暈がした。
「……ああ、よう似合うとるね。見立ては間違うとらんかったわ」
 あながち冗談ではないような、幾分安堵したような声音で土岐が呟く。そんな土岐の様子にかなでも少し嬉しくなった。かなでに似合うものをとこの服を選んでくれた土岐にも、そしてその土岐の期待を裏切らずに上手くこの服を着ることが出来た自分自身にもだ。
(お値段の想像すると、ちょっと怖いけど……)
 派手さはなく、青みがかった紫をベースにしたAラインの丈の短いワンピースだ。袖は七分のシースルーになっていて、かなでが着るには少し大人っぽいようにも思える。だが、シンプルなデザインと短めの丈が上手くマッチしていて、かなでの雰囲気を無理に背伸びさせることなく、いつもより落ち着いた様子にまとめてくれている。肌触りといいかなでのお小遣いでは到底手が出ないものだと想像はつくが、それを土岐に問い質してみても無粋だと言われることが目に見えている。せめて同じようなクリスマスプレゼントを返せればと思うのだが、あっさりとこんな格調の高いホテルに泊まれるセレブの満足するようなものを調達できるほど自分のお財布事情は豊かではないことはかなでが一番よく分かっている。
「あの……私、プレゼントも何も用意してなくて……。あ、いや、今日何か欲しいもの聞いてみて、それで準備するつもりだったんですけど、そもそも土岐さんの欲しいものが準備できるかも分からなくて。あんまりサービスされてもちゃんとお返しできるかどうかが謎なんですけど……」
「そこで、『何かお返しを』って考えるのが、小日向ちゃんらしいと言うか何と言うか……」
 苦笑混じりに息を付き、土岐は肩を竦める。
 どちらかといえば土岐は与え慣れていて、そしてこれまで関わってきた人種は与えられ慣れている人物が多かった。かなでのように与えられた以上のものを返そうとする人種は珍しい。
「土岐さんが満足できるようなものが準備できるかどうかは分かりませんが、私に出来ることは何でもしますので!」
 握り拳で力説し、真っ直ぐに土岐を見つめてくるかなでに、土岐は再度息を付く。「天然て恐ろしいわぁ」と小さく呟いた。
「まあ、俺へのプレゼントの話は後回しにして。……あんまり、他の輩に対してそういうこと言わんでな。……せやな、特に千秋やら芹沢くんやら……後は、榊くんなんかには」
「うーん、確かに東金さんには無理難題言われそうですけど……何で、芹沢くんとか、大地先輩?」
 本気で首を傾げるかなでに、土岐は詳しくは説明しない。
 もちろんかなでが想像するように、千秋は面白がって無理難題を要求するであろうし、従順そうに見えて実際はそこそこお腹の辺りが黒い後輩は、どう策略を練ってくるか想像がつかない。
 そして本人に言えば全力で反論されるのが目に見えているが、明らかに土岐と同類に分類されるであろう彼女の先輩の榊大地。土岐が素直な彼女を言いくるめるのと同じやり方で、おそらく土岐と同じ言質を取ることが出来るだろう。
「まあ、それはそれとして。ちゃちゃっとヘアースタイルとアクセサリも揃えてしまおか。靴も合わせてみんとあかんしね」
 土岐としては上から下までしっかり揃えてこそのプレゼントだと思っていたが、これ以上のものがあると想像していなかったかなでは「ま、まだあるんですか!?」と慄いた。


 そうして土岐の手で夏よりも少し伸びた髪をゆるふわな雰囲気にスタイリングされ、シンプルなシルバーのネックレスとワンピースと色彩を揃えた少し踵のあるパンプスを履いたかなでは、土岐にエスコートされて彼が予約したというイタリアンのレストランに向かう。正直、マナー等にそこまで詳しくないので、緊張して食事が喉を通らないのではと心配していたが、席は半個室でそこまで他人の目が届かず、細かいことはさりげなく土岐が指示をしてくれたので、あまり迷うことなくかなでは食事を堪能することが出来た。当然味も美味しくて、最初に奢りだと言われていて安堵していたものの、逆にこんな贅沢をしていて本当にいいのかとかなでは不安になってくる。勿論、土岐の考える「特別」とかなでの考える「特別」にそもそも齟齬があるのだろうが、それでも特別すぎやしないだろうか。
「……不安で仕方ないって顔しとうね?」
 面白そうにかなでを見つめながら土岐が言うので、かなでは素直に頷いた。
「こんなにお姫様扱いされてていいのかなって思っちゃいます。ワンピも靴も、アクセサリまで揃えてもらっちゃって。そして、このごはん!」
 そう、不安で仕方ない。かなでの日常からはあまりにかけ離れた状況だ。普段はしない格好で、一人では入ることすらできないレストランでの食事。……贅沢ではないか、身分不相応ではないかと思いつつ、かなでは目の前に並べられる料理をしっかりと食べている。何のことはない、単純に美味しいのだ。
「不安だなあ、大丈夫かなあって思いながら、結構楽しんじゃってる自分がいるんですよね。こんなに欲深くっていいのかなあって」
 真面目に言うかなでに、思わず土岐は吹き出してしまった。「ここ、笑うところですか?」とかなでが不満げに頬を膨らませる。
「小日向ちゃんは、ええね。あんたのそういうところ、ほんまに好きやわ」
 しみじみと呟く土岐に、かなでは首を傾げた。よく分からないながらも、好きだと言ってもらえるのは嬉しいので、ほのかに頬を染めつつ、ありがとうございます、と俯く。
 ……今日の自分の行動は、サプライズと言えば聞こえはいいが、ある意味自分勝手にかなでを振り回しているのだということは、土岐自身が一番よく自覚している。それでもその強引さを責めるでもなく、戸惑いながらも目の前の状況を楽しんでしまおうとするかなでの素直さに、土岐はいつも救われる。
(まあ、小日向ちゃんがどこまで受け入れてくれるもんなのか……まだまだ未知数やね)
 かなでは確かに素直で度量も広いが、同時に妙に頑固な一面も持ち合わせている。土岐が知る限り、かなでのそういう頑固な部分が主に現れるのは音楽やヴァイオリンに関してのことだが、日常のどこにその頑固さが顔を覗かせるかが予測できない。それを推し量るには逢瀬の数が少なすぎた。
 今日のサプライズに隠した土岐の本当の目的を彼女が知った時、果たして彼女はいつもの素直さでそれを受け入れてくれるのか、それとも流石に彼女の許容範囲を超えてしまい、頑なに拒絶されてしまうのか……。
(楽しみ……というのもおかしな話やけど)
 かなでの反応がどちらであろうとも、土岐の本心を知った彼女がどんな結論に至るのか、それを楽しみにしている自分がいる。
 そんなことを考えながら、少し表情に緊張を残しながらも、嬉しそうに、美味しそうに目の前で食事をするかなでの姿に、土岐はただ目を細めるのだった。
 
 
 
 食事を終えてレストランを出ると、それなりに遅い時刻になっていた。
 少し遅くなるだろうということは待ち合わせの時間帯から予測していたことだったので、その旨は事前に仁亜に伝えてある。菩提樹寮の規則はそんなに厳しいものではないが、一応門限もある。そもそも入寮者が少ないためか、大人の監視というものはほぼ皆無と言ってよかったが、その代わりに生徒同士の関係性が問題を起こさないためのストッパーになる。要するに、寮生の誰かに動向を把握していてもらえれば、門限はあってないようなものなのだ。かなでが門限までに菩提樹寮に戻らなくても、そのことを仁亜が把握しているので、大きく問題にはならないはずだ。
「えっと……これからどうします?」
 そう尋ねたのは、さすがに夕食だけで別れるのは名残惜しいからだ。
 メールや電話でこまめに連絡を取っていたとはいえ、土岐の受験もあったので顔を合わせるのは随分と久しぶりだった。特に何をしたいという希望もないが、ただもう少し一緒にいられたら、とかなでは思うのだ。
「遊びに行くにしても時間が時間やし、部屋に戻ってゆっくりするのが妥当なとこやね。そもそもこの時期はどこ行っても混み合うとるしなあ」
「……そ、ですよね」
 溜息混じりの土岐の言葉に、かなでは落胆を隠せない様子でぽつりと呟く。そもそも現状は人混みを避けた挙句の選択肢を積み重ねた結果であるし、賑やか過ぎる場所を土岐が好まないのも知っている。それでも定番のクリスマスイルミネーションを二人で観たり、それなりに期待していたことがかなでにもあったのだ。
「ああ、そんなに見るからにしょんぼりせんといて。小日向ちゃんの期待に沿えるかどうかは分からんけど、それなりに楽しめるもんが部屋にあるから」
 そう言う土岐に促され、かなでは先程着替えをしに行った土岐の部屋を再度訪れる。どちらにしても、ワンピースに着替える前の自分の服を置かせてもらっていたので、帰る前にはここで着替えをさせてもらわねばならなかった。
「ほら、部屋の奥……窓のところまで行ってみ?」
 土岐に背中を押され、かなでは戸惑いつつも、言われるままに部屋の奥へ足を踏み入れる。そして明かりが消えたままの広い室内に目を向けて、ふと動きを止めた。
「……わぁっ!」
 かなでは目の前に広がる景色に思わず歓声をあげる。
 夕方にここに来た時は冬特有の重い鈍色の雲が広がり、グレー基調の寒々とした色彩だった窓の外の風景が、夜が更けた今、一変していた。
 宝石箱をひっくり返したみたいな、色とりどりの灯。おそらくここから見下ろすことを想定したわけではないのだろうが、この時期はどの建物でもそれぞれに独自のクリスマスイルミネーションを施している。高層階からの眺めなのでそれらはごく小さな瞬きではしかないが、その数多の輝きが、眼下に人工的な星空を描いていた。
「……気に入ってくれた?」
 無意識に窓に寄り、冷たいガラスの表面に両手をあてて夢中で眼下を見つめるかなでの背後に立ち、土岐が尋ねる。
 頬を上気させたかなでが振り返り、満面の笑みで頷いた。
「もちろんです! こんなに素敵な夜景が楽しめるなんて、思ってませんでした。……もしかして土岐さん、そのつもりでこの部屋選んだんですか?」
 土岐は確かに何を選ぶにもグレードの高いものを選びはするが、その一方で『無駄』な選択をしない。部屋の質にこだわりはあるかもしれないが、何もかもがだだっ広いこの部屋には『余白』が多すぎる。それが土岐の美意識とは少し外れるような気がかなではしていたのだ。だが、この素晴らしい夜景を満喫するためだと言われれば納得ができる。
「俺が満喫するために選んだわけやないけど、夜景目当てでこの部屋予約したのは合うとるよ。……カップルの特別な夜を演出するのに最適て、ガイドブックでもオススメされてたしなぁ」
「へえ、そうなんですか」
 素直に頷いて、かなではまた窓からの眺望を楽しもうと土岐に背を向ける。
 ……でも、何か今、引っかかる言葉が混じっていたような……?
 ふと動きを止めてしまったかなでの肩に、土岐の片手が乗る。あまり疑問を持つことなくかなでが背の高い土岐を斜めに振り仰ぐと、身を屈めた土岐の端正な顔が近付いた。
 柔らかく重ねられる唇。突然のことで驚きはしたものの、キスをされるのは初めてではなかった。一瞬見開いた目が、状況の把握と共に慌てて閉じられ、数か月ぶりの優しいキスに、かなでは酔いしれる。
 少し長いかな?とこれまでの両手で足りるほどの過去と比べつつ、やがて唇が離れるのを待って、同時に目を開く。
 土岐が甘く微笑んで、かなでが恥ずかしそうに頬を染めて笑い返して。ちょっとだけ甘ったるくなった空気をくすぐったく思いながら、恋人同士の触れ合いが終わる。……いつもなら。
 だが、今日の土岐はそこで止まらなかった。かなでがほうっと息を付き、ちらりと上目遣いに視線を上げると、いつもならちょっとだけ困ったような笑顔でかなでを見つめているはずの土岐の顔が、また近付く。
「……んっ」
 思わず声が漏れてしまう。大きくて綺麗な土岐の掌がかなでの頬を撫で、上向きに固定する。俯くことも背けることも許されずに、啄むように触れていた熱い唇は、やがてかなでの唇を強く割り開いた。ぬるりと歯列をなぞり、口内を丁寧に侵すものが彼の舌だということを、パニックになったかなでの脳はなかなか理解しなかった。
 ただ、あつくて、くるしくて……ひどく、きもちがいい。
「……想像してたより、随分と順応性あるやないの。小日向ちゃん」
 僅かに唇を浮かした苦笑混じりの土岐の言葉に、かなではぼんやりと潤んだ視線を向ける。まだ普通に触れるだけのキスにすら不慣れなかなでに、一気に深いキスを教えた。拒絶されるのも覚悟の上だったのに、最初は反射的に逃れようとしたかなでは、意外にもすぐにそのキスに慣れ、土岐の行為を全て受け入れてしまった。
 更にはこんなふうに官能的な表情を見せてくる。それは反則やなあと少し困ったように眉を下げ、宥めるように土岐がかなでの髪を撫でた。
 予想外ではあるが、土岐にとっては嬉しい誤算だった。
「さて、状況が良く呑み込めてないやろうから、ネタばらしでもしよか。……昼間、小日向ちゃん、クリスマスプレゼントの話してたやろ? ずっと欲しかったものがあってな、今日は色々と小日向ちゃんにサインを送ってみたつもりなんやけど……」
「えっ!?」
 ぼんやりと甘さに酔いかけていた思考が、一気に醒めた。微妙に青ざめつつ、かなでは恐る恐る土岐の顔を見つめる。
「あ、あの、一体どの辺で……? 私、もしかしたら全然気が付いてないかも……」
 食事前に直球で欲しいものを尋ねた時には何だか上手くはぐらかされた気がする。その後の会話でも、これがいいとか、あれが欲しいとか、ヒントらしき言葉は出てこなかったはずだ。何か出てこないかとこう見えても必死でアンテナを張っていたつもりなので間違いない。だが、土岐はちゃんと欲しいものについてのサインを送ってくれていたというのだ。ならばかなではそのサインを思い切り見逃している。
「うん、まあ、早々に気付かれてたら、まずここまで小日向ちゃんが来てくれへんかったと思うわ。そういう意味ではサインは確かに送っとったんやけど、なるべく小日向ちゃんが気付かんようなサインを送ってたわけなんやけどな」
「……はあ」
 よく分からないまま、かなでが曖昧な返事をする。サインは出していたけど、気付かなくてよかった? ……ますます頭が混乱する。
「ベタと言えばベッタベタなサインやったんやけどなあ。……とにかく一つずつネタバレしてこか。まず、小日向ちゃん。男が彼女に洋服をプレゼントする意味って知っとう?」
「彼女に、服を、プレゼントする……意味?」
 土岐の言葉をそのまま繰り返し、かなでは自分の脳内にある雑学についての記憶をひっくり返す。
 ……そう、ごく最近、学校の友達とそんな話をした。何のことはない、クリスマスが近かったからだ。彼氏から何をプレゼントして欲しいか、特集が組まれていた雑誌の記事を眺めながら皆で希望を出し合った。
(やっぱり光物が定番じゃない? 後に残るし)
(だよねえ。花束とかも素敵だけど、花は時間が経つと枯れちゃうし)
(ディナーとか、服とかもいいけど……あ、服は駄目だ。駄目って言うか、受け取ったらいろいろと期待されそう)
(どういうこと?)
(ええとね、男の人が彼女に服を送るのって、「その服を脱がせたい」って意味があるんだって!)
 ……脱がせた後の展開が、想像できないほどにかなでも子供ではない。
 だが、そういえば。……かなでは土岐からもらってしまったのではなかったか。
 ドレスコードのあるレストランに入店するためとはいえ、まさに今身に付けているワンピースを。
「~~~~~~~~~~っっ!!」
 声にならない声を上げ、爪先から頭のてっぺんまで真っ赤に染まって目を見開き、両手で口元を押さえるかなでを、土岐は面白そうに眺めている。
「そこから懇切丁寧に説明せなあかんかなと思っとったんやけど、どうやら必要ないみたいやね。何の躊躇もなく着てくれるから、こら絶対意味知らんなあって思ってたんやけど」
「や、ああ、あの、知らなかったわけじゃないんですけど、思い至らなかったって言うか!!」
 そういう意味でいただいたつもりはなかったんです!! と必死に説明するかなでに、土岐は心得たように頷く。
「心配せんでええよ。さすがに意味分かって受け取ったかどうかは小日向ちゃんの反応見てれば分かるわ」
 それより、も一個ネタバレせなあかんね、と土岐は肩を竦める。
「……この部屋なんやけど。元々俺一人で泊まるつもりはないんよ。シングルにしては広すぎるやろ? ホントは二人用の部屋やねん」
「あ、なるほど」
 道理で、土岐が一人で過ごすにしては無駄な広さがあるわけだ。先程かなでが抱いた違和感も間違ってはいなかった。そう考えて、かなではふと思い出す。先程の違和感に付随しての会話で、土岐の言葉に何か引っ掛かりを覚えたことだ。
「……そういえば、何か土岐さん言ってましたよね……『カップルの特別な夜を演出するのにおススメのホテル』……」
「御名答。つまり、そういうことやね」
 いっそ清々しいくらいの曇りのない笑みで、土岐が告げる。
 
「俺は、あんたが欲しいんよ。小日向ちゃん」

 見事なまでに、かなでの動きがフリーズした。これ以上にないほどに真っ赤に染まり、ぱくぱくと意味なく口を開けたり閉めたりを繰り返し、心底困り果てたようにその細い眉は見事に八の字になり、縋るように土岐を見上げている。これはこれで破壊的やなあ、と、土岐はまるで他人事のように冷静な頭の隅で考えている。
「あっ……あの、でも!」
 お、解凍した。
「私、普通に菩提樹寮に帰るつもりで……あ、もちろん門限を越すことは伝えてあるんですけど、外泊届なんて出してきてないし、ニアにどう説明していいか分からないし……」
「ああ、その辺は心配あらへんよ。……ニアちゃんにも一枚噛んでもろとるから」
「……はあ!?」
「そのワンピース、サイズぴったりやろ? いくら俺でも、ざっくりとしたサイズに見当はついても、ぴったしのもの見つけるのにはなかなか難儀してな。これこれこういう理由でサプライズで小日向ちゃんに服プレゼントしたいんやけどって聞いてみたら、協力してくれたんよ」
 もちろん、タダではない。今後10公演分の土岐たちのライブでの写真撮影許可付だ。売り上げの取り分については少々揉めて、土岐・東金・芹沢総動員で交渉に当たり、何とか仁亜が6、東金たちが4の割合で収まった。オフショットの撮影を込みというところで何とか成立させたが、あまり頻繁に交渉したくはない相手だとあの東金に言わしめるほどのやりにくい相手だった。……余談である。
「そんなわけで、ニアちゃんはあんたが今夜は帰らんかもしれんって分かっとるから」
「……ニア」
 ぽつりと呟いたかなでの声が、これまで聞いたことないくらいに尋常でなく低い。この子、こんな声出せるんやなと呑気に土岐は感心した。
「……小日向ちゃん?」
「……」
 先ほどのパニックぶりが嘘のように黙り込んでしまったかなでの顔を、苦笑しながら土岐は覗き込む。困ったような表情はそのままで、きゅっと唇を引き結ぶかなでの様子にはどことなく悲壮感が漂う。それはそうだろうと土岐も思う。何せ外堀は完璧に埋めた状態で、彼女に一世一代の決断をさせようとしているのだ。この後、彼女がどんな理由をつけて土岐の誘いを断ろうとしても、全ての理由を潰せる自信が土岐にはあった。
 そもそも、言質は取ってあるのだ。彼女は昼間、「自分に出来ることは何でもする」と言い放っているのだから。もちろん、本人にそんなつもりはなかったとしても。
 ……だが。
「嫌だと思うなら、断ったってええんよ」
「……土岐さん」
 驚いたようにかなでが土岐を見上げた。
 まっすぐな瞳から視線を反らし、土岐は傍の眼下に広がる人工の星々を見つめる。
「俺があんたを欲しいのは本心やけど。そこで無理して我慢して俺を受け入れて欲しいてわけやあらへんから」
 ……おそらく、土岐にはできる。かなでを言いくるめて、上手く自分のペースに乗せて本懐を達成することは、想像以上に、簡単に。
 だが、それを実行することは土岐の真意から少しだけずれる。
 土岐が本当に望むことはきっと、かなでに心から、自分を求めて欲しいということだから。
 それが分かっていても、こんな面倒なお膳立てをせずにはいられなかったのは……
「多分、俺は……あんたの傍にいられんことが、自分が思う以上に、不安なんやろね」
 横浜と神戸。ふらりと気が向いた時に逢いに来るには、躊躇する距離。
 それでも、たまに逢うかなではいつも変わらずに、真っ直ぐで分かりやすい愛情を土岐に向けていてくれる。
 でもそれが、離れている間に絶対に変わらないものだといったい誰が保証できる?
 かなでの言葉を、態度を、愛情を疑うことはない。ただ、目の前に彼女を示すものが存在しないときに、どうしようもなく不安になるだけだ。
 今、確かに生きているこの身一つでさえ、本当は何の前触れもなく終わるものなのかもしれないことを、土岐は知っているから。
(……本当は、あんたの身も心も手に入れてみたところで、それすら永遠じゃないことを、俺はちゃんと知っとるのになあ)
 例えば、彼女が土岐の願いを聞き入れてくれて、彼女を差し出してくれたにしても、本当の意味で寂しさが満たされることはないのだと、土岐は気付いている。
 それでも、彼女が欲しいという渇望する気持ちははまぎれもなく本心で。
「土岐さん」
 不意に、曇る思考を両断する真っ直ぐな声が響いた。歩み寄ってきたかなでの両手が土岐の頬を包み、少し強引に自分の方へ向き直らせる。
「小日向ちゃん……?」
 戸惑う土岐の唇に、かなでが精いっぱい背伸びをして、自分の唇を重ねる。とても幼くて可愛らしいキス。だけど、それはかなでが今出来る精一杯のことで。
「土岐さんは! そういうところほんっとにずるいと思います! ここまでお膳立てしといて、肝心なとこで引いちゃうの止めてください!!」
「うん?……うん、堪忍な……?」
 よく分からずに、語尾にクエスチョンマークを付けたまま土岐が応じる。だから!とかなでが憤慨する。
「何か、強引に好きなように物事進めてるような振りして、急に弱くなっちゃうの止めてくださいってば! 自分勝手なままだったら『嫌です!』って言い切っちゃえるのに、出来なくて困る……」
 好き勝手に、自由気ままに生きているように見えるのに。
 不意に、全てを投げ出して諦めてしまうように見える。
 だから、かなではどうしても手を伸ばしてしまう。
 土岐に諦めて欲しくなくて。
 ……幸せになって欲しい、幸せにしたい、と願ってしまって。
「……つまり?」
 儚く、今にも萎れてしまいそうに見えたのに、瞬き一つの間に土岐は本来の土岐に戻ってしまった。
 意地悪そうな笑みを浮かべつつ、頬に触れていたかなでの手を取るので、かなではもう逃げることが出来ない。
「だ、だから!つまり! ……今日は、遠距離恋愛の日で。遠距離恋愛の恋人同士が距離を縮める日なんですよね? だから私たちももっと距離を縮めたらいいんですよね! そういうことなんですよね!!」
 思い切りやけくそ気味に叫ぶかなでに、土岐は思わず吹き出した。ひとしきり笑うのを成す術もなく見守っていたかなでが、やがてふくれっ面で不満げに土岐の足を爪先で蹴りつけた。……もちろん、大して痛くはない。
「そういうことやね。……じゃあ無事に、小日向ちゃんの承諾ももろたということでええね」
「…………………………………ハイ」
 長い長い沈黙の中に、いろいろな葛藤やら不満やら苛立ちやら、不穏なものを全部詰め込んで。
 それでもかなでは、最後にはちゃんと頷いてくれた。
 
 
 
 まだ灯のつかない広い室内。
 窓の外には視界一面に広がる、人工的な星の海。
 その中で、遠く離れ離れだった恋人たちは413㎞の距離を埋める。
 重なる唇はその距離をゼロへ。
 
 ……そして、互いに深く穿つことで、更にマイナスへと詰めていく。


あとがきという名の言い訳

実は、土岐の創作のネタ自体は割と早い段階からありました。それこそ長嶺書き終えた辺りで漠然と思いついていたような気が……。
それがなかなか形にならなかったのは、最初と最後だけ決まってたのに中盤が決まってなかったことと、相変わらず土岐の言い回しですね。いろいろ使い方間違ってたらごめんなさい。

記念創作は裏頁に続くように作成していますが、それを読まないと話が完結しないということもありません。続きのみを配布することはありませんので、希望される方は基本の裏頁アドレス申請の規定を遵守してください。
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執筆日:2020.02.09

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