手に取った書類に目を通していた冥加玲士はそんな己の携帯を一瞥すると、そのまま文面の続きを読み続ける。携帯の、それも普段冥加が全く使用することがないメール機能を使う人間は限られている。仕事関係者で冥加のメールアドレスを知る者は、秘書をしている御影諒子くらいのもので、その彼女からの連絡は99%が電話である。理由は単純で、メールを打つ暇があるならさっさと電話をして、口頭で用件を話す方が早いからだ。そして、同様の理由で今届いたメールを急いで確認する理由が冥加にはない。すぐに返信が必要な内容ならば、それが誰であれ電話で用件を伝えるだろう。メールを使っている時点で、それは急ぎの案件ではないのだ。一度手を付けた仕事を途中で中断するのは冥加の性格上出来かねることで、書類数枚に目を通し終わるまでの間、冥加は自分の携帯をそのまま放置し続けた。
だが書類を読み終えて、決済印を押してしまうと、冥加はすぐに携帯を手に取った。
……そう、冥加にメールを送ってくる人間は限られている。天音学園の元・室内楽部の人間か、それとも妹の枝織か……その中で、最もメールを寄越す可能性が高いのは、冥加の恋人である小日向かなでだった。
冥加がメールの確認を後回しにするのは周知の事実だった。そのため、仕事の邪魔をしないように気遣っているのか、小日向だけが全ての冥加への連絡をメールで行う。電話をかけて来る時ですら、事前に『今からお電話しても大丈夫ですか?』とメールしてくる有様だ。だからメールの着信は小日向からである可能性が高い。
片手で携帯を操作し、受信履歴を確認すると、やはり先ほど携帯を震わせたのは小日向からのメールだった。件名には何故か「ありがとうございます!」と書かれている。
……何か礼を言われるようなことをしただろうか。むしろ卒業後、冥加は天音学園の理事職とプロヴァイオリニストの二足の草鞋でひたすらに仕事に追われていて、小日向と逢う時間すらまともに作ってやれていないというのに。
訳が分からずに、眉間に常駐している皺が無意識に深くなる。
メールを開いてその文面を確認すると、冥加の眉間の皺は更に深まり、本数を増した。
差出人:小日向
件名:ありがとうございます!
まさか、冥加さんからお誘いいただけるなんて思ってもみませんでした!でも、嬉しいです!!
オケ部の引継業務も一段落してますので、9月14日、大丈夫です。菩提樹寮の外泊許可も取れました(*^^*)
都内なら日帰りでも大丈夫そうですけど、夜公演なら確かに最後まで聴いて、ゆっくりしたいですもんね♪
宿の方まで準備していただいて、本当にありがとうございます。本当に、私の分の部屋代、払わなくていいんですか?
申し訳ないんですけど、学生の身分としては助かります。
何にしてもメンズバレンタインデー、一緒に過ごせるの楽しみにしてますね♪
冥加さんがそんな変わった記念日知ってるなんて、意外でしたけど(・◇・)
「……何だこれは?」
思わず本心からの言葉が漏れる。
最初から最後まで、一貫して小日向からのメールに記されている事の意味が分からない。昨今よく聞く迷惑メールの一種かと思い、差出人のメールアドレスを確認してみた……間違いなく、登録済みの小日向のアドレスからだった。
迷惑メールより更にレベルが上の、成りすましメールというやつだろうか……ならば、小日向の携帯自体に問題があるのだろうと、冥加が注意を促すために小日向に電話かけかけたその時、理事長室のドアが無遠慮にノックされた。
「……入れ」
溜息交じりに冥加は携帯をデスクの上に戻し、来客を促した。予測はしていたが、ドアを開けて入ってきたのは御影諒子だった。
「あら、玲士くんったら、眉間にすごい皺。もしかして、小日向さんに電話でもしようとしていたところを邪魔しちゃったかしら?」
部屋に踏み入り、冥加の表情とデスクの真ん中に置かれた冥加の携帯を見つけるなり、完璧と言わざるを得ない隙のない笑顔で御影はそう言った。仕事を捌く秘書としては有能な女だが、反りの合わない義父・アレクセイの子飼いだけあって、言うことがいちいち冥加の癇に障る。
わざと冥加の神経を逆なでするための言葉を選んでいると分かるだけに、余計に腹立たしかった。
「くだらんことを邪推するな。……用件は何だ?」
「今月の貴方のスケジュール表を持ってきたの。先方の動き次第で変更はあるかもしれないけれど、基本的にはこれで動かないと思うわ。一通り目を通して、もし貴方の都合で問題がある場合には、早めに知らせて頂戴」
冥加のスケジュール管理は彼女の仕事なのだが、御影が把握している予定以外に、冥加独自で持っているルートから入ってくる仕事もあるため、細かい調整が必要だった。頷いてスケジュール表を受け取り、冥加は先ほどの小日向からのメールを、ふと思い出した。
9月14日……その日付の部分に目をやり、冥加は怪訝な表情になる。そこには冥加が自分では予定した覚えのない、『東京某所にて、コンサート夜公演観覧・●●ホテルにて一泊』という、小日向のメールの内容と合致する一文が記されていたからだ。
「……御影」
「なあに?」
「これは何だ?」
デスクに広げたスケジュール表を御影の方に向け、冥加は14日の予定を指差す。小さく首を傾げた御影がその部分を覗き込み、ああ、と軽く笑った。
「小日向さんとデートなんでしょう? 滅多にない貴重な休日なのに、彼女のためにあっさり使ってしまうなんて、玲士くんって意外と尽くすタイプなのね」
「俺は知らん! 何故こんな予定が勝手に組まれている? お前か、それとも奴が、何かを企てているのではあるまいな!?」
平手をデスクに叩きつけて冥加が怒鳴りつけると、一瞬目を丸くした御影は、意味ありげに笑って指先を頬に当てた。
「残念ながら、私でも先生でもないわよ。でも確かに、この日のスケジュールを空けるように言ってきたのは、貴方ではなかったわね」
「……誰だ?」
御影を睨み据え、声を低くして尋ねた冥加に、全く動じる様子もなく、御影は答えた。
……それは、意外な人物の名前だった。
「先生の姪っ子さんよ。支倉仁亜さんだったかしら?」
「……何のつもりだ」
電話口でせいぜい凄んで見せたのだが、相手は全く意に介していないようだった。
夜遅い時間ではあったが、事は急を要する。無視されることも覚悟の上で、立場上登録はしていたものの、ほとんど使ったことがない支倉の携帯の番号を即座に鳴らしてみると、意外なほどあっさりと彼女は通話に応じた。
のんびりとした欠伸混じりのアルトの声が、小さく笑う。
「そろそろ連絡が来るころだと思っていたよ、冥加玲士。小日向が夕飯の後に嬉々として打っていた、ハイテンションのメールを読んだ頃合いだな」
その言葉こそが、彼女が全てを知っていることを物語っていた。
「前置きはいらん。何のつもりかと聞いている」
苛立たしげな冥加とは裏腹に、電話の向こうで支倉は余裕の態度だった。ふう、と溜息のように息を付いた支倉が、徐に切り出した。
「体育祭と文化祭の準備が始まる今月末まで、我が星奏学院報道部は、とにかくネタがなくてな」
「……は?」
「夏のアンサンブルコンクール・星奏学院オケ部2連覇という特集記事で当面は誤魔化しが効くが、その後の学内新聞の紙面を埋めるのに、どうしてもネタがいる。それで、そのネタを探すためにネットの海を泳いでいて見つけたのが『メンズバレンタインデー』という記念日なんだ」
「……」
全く話の流れが見えないが、おそらく支倉は自分の言いたいことを言い終えるまで、冥加が知りたい情報を出しては来ない。それが分かり切っていたので、冥加はそのまま支倉の話を最後まで聞くことにした。
「小日向も、お前に逢えずに随分と気落ちしていたようだったからな。新学期早々、学内新聞のトップを飾る話題をくれた功労者には、ちゃんとした謝礼が必要だ。それならば、彼女が一番欲しがっているものを提供するべきだろう? ……冥加、お前の秘書は随分と有能だな。14日のお前のスケジュール確保を依頼したら、二つ返事で引き受けた上に、コンサートのチケットからホテルの予約まで、頼みもしないのに請け負ってくれたぞ。……あの叔父の犬でなければ、それこそ完璧なのだが」
「……あの女」
憎々しげに冥加は吐き捨てる。まるで無関係なような顔をして、しっかり御影が一枚噛んでいた。
「まあ、それはそうとして。別にお前にとっても不都合な話ではないだろう? 小日向に逢えなくて焦れていたのは、お前だって同じだろうに。むしろ逢う口実を作った上に予定まで調整してやったんだ。非難されるどころか、感謝されて然るべき、だ」
まるで歌うようにつらつらと支倉が述べる。抗議したいのは山々だが、なまじ彼女の言うことが正論であるだけに、冥加は二の句が告げなかった。
「これは、あくまで小日向への取材協力の謝礼という名目だ。しかも、お前からの誘いという体裁までしっかり整えてお膳立てしてやったんだぞ。後はお前の力量で『メンズバレンタインデー』という記念日を彼女のために、せいぜいロマンティックに演出してやるといい。それがひいては、我が報道部から小日向への充分な謝礼となる」
「……ちょっと待て」
ようやく冥加が口を挟む。先ほどの小日向のメールでも思っていたことだった。
「その『メンズバレンタインデー』とは何の事だ」
「おや、御存じないのか? ……まあ、それもそうか。あまりに日本男子の性質にそぐわな過ぎて、全く世間に浸透しなかった記念日らしいからな」
電話の向こうで、何故か心底楽しげに支倉が笑う。
「残念ながら、私はお前に対してはそこまで親切の安売りをする気がないんだ。どうしても気になるのなら、自分で調べてみればいい。このご時世、ネットで単語を入力、検索をクリックの二手間で、幾らでも必要な情報は導き出せる」
ではな、と一方的に電話が切れ、冥加は仏頂面で切れた携帯を眺めやる。
腹立たしいことこの上ないが、ああ言って電話を切られたということは、支倉は冥加が必要とする情報をこれ以上提供する気はない。ただでさえ彼女との会話は神経をすり減らすというのに、自らより一層疲労するような真似はしたくなかった。
深い溜息を付きながら、冥加は携帯をデスクの上に放り出す。ふと電源が入ったままスリープモードになっているノートパソコンが視界に入り、冥加はそれを手近に引き寄せ、先程支倉に言われたように、単語を入力し、検索ボタンをクリックしてみた。数秒で表示された画面をしばらくの間眺めやり……そして、ぎりりと音がしそうな勢いで奥歯を噛みしめた。
「あの、女……」
言いながら、この状況を作り上げるのに一役買った御影の涼しい顔も同時に脳裏に浮かんできた。「女……共っ……!」と一蓮托生にしてやっても、別に非難される謂れはないだろう。
9月14日 メンズバレンタインデー
男性から女性に下着を送って愛を告白する日。
百歩譲って、愛の告白はまだいい。バレンタインデーという名が付いているのだし、小日向と共に過ごすようにとお膳立てられた記念日だ。そういう意味合いがあったとしても、別段不思議なことではない。
だが、男性から女性へ『下着』を贈る日とは――
「何の茶番だ!?」
デスクを殴りつけて大声を上げるが、その冥加の詰問に応えてくれる人物は、誰もいなかった。
それから、約束の9月14日まで、冥加の苦悩の日々が始まった。
支倉たちの思惑に乗せられるのは癪だが、確かにようやく小日向と逢える貴重な休日なのだ。小日向自身も乗り気なようだし、さすがに御影がセッティングしただけあって、観覧予定のコンサートも質がいいものを選んである。これから演奏家として生きていくであろう小日向にとって、聴いて損のないコンサートだ。そして夜公演であるため、終了予定時刻は21時を過ぎる。進行次第では時間が押す可能性もあるから、宿を取っておくのも得策だと言えた。
そう、デートの内容そのものは申し分ない。問題はそのデートの口実の方だ。
おそらくは小日向も『メンズバレンタインデー』とやらの詳細を知らないのだろう。彼女の性格から考えても、男が女物の下着を贈って愛の告白をするなどという不謹慎極まりないイベント事を嬉々として行うようなタイプではない。その辺りの肝心なことを巧妙に隠し、素直な彼女を言いくるめることなど、あの支倉からしてみれば朝飯前に違いない。
支倉にはめられたことを白状すれば小日向は納得するだろうが、滅多にない『冥加からの誘い』にはしゃいでいる彼女の気持ちに水を差すのもどうかと思う。小日向が記念日の詳細を知らないことを逆手に取って、いっそ愛の告白だけに重きを置いて誤魔化してしまおうかとも考えたのだが、それはそれで小日向に『メンズバレンタインデー』という記念日の間違った認識を植え付けてしまう。その間違った認識のまま、来年以降もこの記念日を乞われるようになってしまえば、それはそれで冥加にも都合が悪いのだ。
どうにも八方塞だ。支倉仁亜という人物が、冥加と小日向の性格を熟知した上で更に冥加の思考を読み、逃げ道を寸断している気がして、これまた腹立たしい。どうにか名案が浮かばないものかと、頭を悩ませながら過ごすこと数日、冥加の携帯にメールを送りつけてきたのは諸悪の根源、支倉だった。
まるで汚いものを見るかのような態度でそのメールを開き……そして、その携帯を壁に叩きつけそうになるのを、冥加は何とか寸前で堪えた。
「……ふざけるな!」
携帯を潰しかねない勢いで握り締め、苦々しく冥加は吐き捨てる。
「必要だろう」という件名から始まったメールの内容は、3種類の数字の羅列。
……おそらくは、小日向のスリーサイズだった。
結局、冥加はとある高級ランジェリーショップを、妹の枝織と共に訪れる。枝織のために買物をすることは多いため、婦人服の店にはそれほど抵抗がないが、さすがの冥加もランジェリーショップを一人で訪れるのは、いささか難易度が高すぎる。
支倉が送りつけてきたあのメールはそれ以後開いていない。枝織に携帯を預け、そこに記してあるサイズに合うものを店員に見繕ってもらうよう指示し、冥加は店の外で枝織が買物を終えて来るのを待っていた。
……どうにか抵抗できないものか、葛藤し続けた冥加だったが、最後には腹をくくった。狡猾な狐共の思惑に乗ることは不本意だが、今回を回避したところで、彼女たちはまた何か冥加の価値観にそぐわないものを見つけ出し、冥加と小日向を巻き込もうとするのだろう。そこに悪気はない。良くも悪くも、ただ起こることを面白がっているだけの愉快犯だ。ならばここで一度、彼女らの好奇心を満たしてやっておいた方が、おそらく後々には響かない。
支倉の言動には叔父の存在をあまりよく思っていない様子が見え隠れするが、他人の迷惑を顧みず、よからぬ企みを嬉々として行うという、一番遺伝するべきでない性質こそが、彼女たちの血の繋がりを証明している気がする……。
「兄様、お待たせしました」
上品なロゴ入りの紙袋を手に店を出た枝織が、所在なさげに佇む冥加を見つけ、笑顔で駆け寄ってくる。差し出された自分の携帯を、無言で冥加が受け取った。
「無事に良いものが購入できました。兄様のご意見も参考に、お店の方に選んでいただいて……かなでさん、きっと驚かれますわね?」
「驚かれるどころか、むしろ――」
ドン引かれる。冥加の語彙には存在しない言葉が、不意に口を付きそうになった。
「大丈夫ですわ、兄様。だって贈るものが何であれ、その理由がどうであれ、これは兄様からかなでさんへの愛情の形なのでしょう? かなでさんは、きっと喜んで受け取ってくださいます」
「どうだかな。……あまり、くだらんことを口にするな、枝織。行くぞ」
淡々と言い置いて踵を返す冥加に、何がくだらないことなのかと問いかけて……枝織は口を噤む。脳裏に引っかかったのは、『愛情の形』という一つの言葉。
(……もしかして、照れていらっしゃるのかしら?)
慌てて、先を行く冥加を追いかけた。
脇からそうっと覗き込むようにしてその横顔を見つめ、枝織は目を細めて笑う。
「可愛らしいですわね? 兄様」
馬鹿なことを、と吐き捨てた背の高い冥加の視線は、枝織がいるのと全然違う方角に向けられていて、その表情は全く窺い知れなかった。
そして、9月14日当日。
午前中のうちに迎えに来るという事前の連絡の通り、約束の時間ぴったりに冥加が手配した高級車が菩提樹寮の玄関先に乗りつけられた。前日の夜から準備は済ませていたものの、一夜明けると昨夜散々頭を悩ませて決めたはずのコーディネートが不安になった小日向は、意見を求めようと隣人のニアの部屋を訪れた。だが、そこは既にもぬけの空で、どうやら彼女は珍しく朝から出掛けてしまったようだった。
「もー、ニアってば、こういう肝心な時に……」
唇を尖らせつつ小日向は主不在の部屋のドアを閉める。第三者の見解を当てにすることは諦めて、一泊に必要な荷物を詰め込んだ、大きめのトートバックを抱え上げた。
今日のデートは珍しく冥加からの誘いだったが、何故かそのお誘いはニアを経由してやって来た。奇妙な気もするが、義理とは言え彼女たちは立派な従兄妹同士なのだ。以前は全く交流がないと言っていた彼女たちが、自分という存在を潤滑油に仲良くなってくれるのならそれに越したことはない。二人とも、小日向にとってはそれぞれに大切な存在なのだから。
そんなことを考えながら外に出て行くと、黒塗りの車の側に佇んで小日向を待っていた冥加が、挨拶もなしに突然切り出した。
「……支倉は中にいるのか?」
小日向は内心驚きつつ、ふるふると首を横に振る。
「珍しいんですけど、もう出掛けちゃってるみたいで。……何か用事があるなら、携帯鳴らしてみますけど」
「……いや、いい」
菩提樹寮の中にいるのなら、恨み言の一つくらいはぶつけてやろうと思っていたのに。
「逃げたか」
小さく吐き捨てた言葉は小日向には届かず、彼女はただ不思議そうに、小さく首を傾げるだけだった。
そのまま車に乗って都心まで移動し、途中二人は軽く少し遅い昼食を取る。コンサート後に近くのレストランに予約を入れてあるということだったので、わざと変則的な時間帯に腹ごしらえをしておいたのだ。
そして、コンサートホールに行く前に宿泊予定のホテルに立ち寄って小日向の荷物を預けると、今度は徒歩でコンサートホールに向かい、二人は無事に開演より少し早い時間に席に落ち着くことが出来た。
その後、何の問題もなく、定時になって順調に開演したコンサートは、弦楽器を主体としたアンサンブルだった。名の知れた楽団というわけではないのだが、奇を衒わず、基礎練習をしっかりと積み重ねた高い技術に裏打ちされた、真面目で丁寧な演奏スタイルは、冥加と小日向の好みには良く合っていた。演奏曲も普段から二人で合わせているような好みの曲が多く、聴いているうちに自分もヴァイオリンを弾きたくなったのだろう。アンコールまでしっかりと堪能し、ステージ上の演奏者たちに惜しみない拍手を送る中で、小日向が「ヴァイオリン持ってくればよかった」と心底悔しそうに呟いた。
興奮冷めやらぬ中、次のレストランまでの道を歩きながら、小日向が嬉しそうに微笑んだ。
「すごくいいコンサートに、美味しい夕食に、高級ホテルに一泊……これって、やっぱりメンズバレンタインデーだからなんですか? すっごいサービスしてもらってる気がするんですけど」
躊躇なくその名称を口にした小日向に、やはり彼女はそのメンズバレンタインデーの詳細を知らないのだと、冥加は確信する。
だが、どれだけ知る人を探す方が余程難しそうなマイナーな記念日だとしても、それが記念日として制定されている以上、すれ違う誰がそのことを知っているかも分からない。迂闊にその名称を話題にして欲しくはなかった。
「……黙れ小日向。その名称を気安く口にするな」
「は、……え? 名称? メンズバレンタインデーのことですか?」
「口にするなと言っているだろう。……理由は後で教えてやる。いいから黙って店までさっさと歩け」
大概不遜な冥加の物言いだったが、小日向は既にそれにも慣れてしまっているようで、不思議そうな顔をしながらも素直に頷いた。
……そう、『アレ』を小日向に渡すという任務が残されている限り、冥加のメンズバレンタインデーは、むしろこれからが本番なのだ。
御影が予約していたのは、仕事関連で既に何度か利用したことがある店だったので、それなりに融通が利いたのだろう。予約はオーダーストップが出てもおかしくはない時刻なのに、きちんとコース料理が準備されていた。時間帯に考慮してあるのか、魚介類が中心で、どちらかと言えば軽めのメニューになっていた。料理好きとしての血が騒ぐのか、小日向は料理を口に運びながら「このソースって、何を混ぜてあるのかなあ?」と真剣な顔でその材料とレシピとを読み解いている。
やがてコースが進み、いよいよデザートというところで、冥加はちょうど前の料理の皿を下げに来た店員を呼び、例の物を持ってくるように耳打ちする。
シンプルな包装ではあったが、紙袋の表面には思い切りあの店のロゴが印刷されているため、分かる人間には容易くその中身が窺い知れる。堂々と持ち歩くわけにもいかず、冥加は運転手に指示をしてこっそりとレストランにそれを預けさせていた。
ホテルでそれぞれの部屋に戻る際に、何気なく渡してしまっても良かったのだが、それを部屋で開封した時の彼女の反応について、悶々と思い悩むのも拷問だ。
……ならば、出来るだけ勝負は早い方がいい。
「冥加さんこのケーキ、お花の形で可愛いですよね。写真撮っちゃっても大丈夫かなあ……」
綺麗にお皿に盛り付けられたデザートにはしゃぐ小日向が、崩しちゃう前に、と携帯カメラをデザートに向けている。その間に店員が恭しく運んできた『アレ』を、冥加は渋面で受け取った。
「食べちゃうの勿体ないけど、食べちゃわないと帰れませんもんね。……そういえば、冥加さんは甘いの大丈夫」
「小日向」
尋ねた小日向の言葉を遮り、冥加が幾分緊張した声で名を呼ぶ。普段から冥加の返答を気にせず、勝手に話しかけることが習い性になっていた小日向は、突然名を呼ばれて驚いたように目を丸くした。
「……はい」
「お前は『メンズバレンタインデー』というのが、どんな記念日なのか、詳しいことは知らないのだな?」
「えっ」
突然の問いに、小日向は思わず声を上げる。
確かに支倉から今回の冥加の誘いのことを聞かされるまで、小日向は『メンズバレンタインデー』というものを知らなかった。
『9月14日のメンズバレンタインデーに、冥加玲士が君を誘いたいそうだよ』
何かを含んだように楽しげに微笑む支倉に、その聞き慣れないメンズバレンタインデーとものは何かと問うと、彼女はこう言ったのだ。
『おや、知らないのかい。まあ、無理もないか。日本ではあまり知られていない記念日のようだから。……文字通り、バレンタインデーの逆バージョンさ』
男性から女性へ、贈り物と共に愛を告げる日だと教えられた。だから、冥加とコンサートを聴き、夕食を食べて、自分では到底泊まることがないであろう高級ホテルに一泊できることが、その贈り物なのだと素直に信じていた。
……それは、何かが違っているのだろうか?
不安になる小日向に、凍りついたような無表情で、冥加は紙袋に入った大きな箱を差し出した。
「これを男から女へ贈るのが、メンズバレンタインデーというものだ」
と、何故か死刑宣告でもするかのような、重々しい低い声で告げる――。
箱を受け取った小日向は、その装飾をまじまじと見つめ……そして、見る間に一気に赤く染まっていく。
それ専門のブランドとしては有名なその店のロゴを小日向は知っていたので、箱を開けなくても中身が何なのか、分かったのだ。
「みょ、みょ、冥加さ……っ こ、これってあの、下」
「分かっているなら皆まで言うな! 黙って大人しく受け取っておけ!」
あわあわと箱と冥加を見比べる小日向から視線を反らし、開き直ったように冥加が怒鳴りつける。信じられないことに、冥加は耳まで赤い。
何で、どうして、私が冥加さんから下着を貰う羽目になってるの!?
メンズバレンタインデーという記念日が初めからこう言うものだというのなら、こんな変わった記念日を何故冥加が律儀にやろうと思ったのか……そんなことを考えていて、小日向はふと気づく。
――そう、そもそもこの日の誘い方からして、おかしかったのだ。
コンサートやパーティなど、冥加から誘われること自体は初めてではないが、誰かを経由して誘うなどという回りくどいことをこれまで冥加はしなかった。
そして何よりも、冥加の誘いの全ては小日向のヴァイオリンのためにあった。
冥加は、たとえクリスマスなどの一般的な記念日であろうと素直に楽しむような人ではない。そんな人が『記念日だから』という理由で、小日向を誘うはずがなかった。
そう思い至ると小日向は今度は途端に可笑しくなってくる。たまらずにくすくすと小さく笑い出すと、冥加が咎めるように名を呼んだ。
「――小日向」
「あっ、ご、ごめんなさい。つい……」
掌で口元を押さえ、笑いを堪えながら小日向は言う。
「何か冥加さん、罰ゲームみたいなことしてるなーって思っちゃって」
「……罰ゲーム」
言い得て妙だと冥加は思う。無論、罰ゲームをやらされる必要性というものは微塵も感じないのだが。
小日向は自分の両膝の上に置いた箱に触れ、視線を伏せる。そして、困ったように微笑んだ。
「そして、罰ゲームの首謀者はニア……なんですね」
冥加の意志で今日の記念日を一緒に過ごすことを選んでくれたわけではない。……小日向に、逢いたいと願ってくれたわけではない。
それは、支倉に謀られて仕方なく……その真実に、小日向は一足飛びでたどり着いた。
詫びるべきか、と反射的に冥加が口を開こうとすると、それより先に小日向の方がはっとしたように顔を上げた。
「あ、あの。冥加さんを責めてるわけじゃないから気にしないで下さいね。どんな理由であっても、今日お逢いできたのは嬉しかったし……そもそも、私が悪かったんです。冥加さんがお仕事忙しいのちゃんと分かってるのに、ついニアに『冥加さんになかなか逢えなくて淋しい』なんて、愚痴っちゃったりしたから。きっとニアが心配して、私のためにいろいろ考えてくれたんです。逆に迷惑かけちゃってごめんなさい」
「……心配して、か」
むしろ、「面白がって」が正しいだろうと冥加は思ったが、敢えて口には出さなかった。
おそらく今冥加がやるべきことは、散々振り回された数日間と支倉や御影への嘆きを小日向にぶつけることではない。この理不尽な難題を、何故自分が受け入れようとしたのか、その理由をきちんと彼女へ伝えることだ。
……勿論、冥加の性格上、それを素直に分かりやすく、ということは出来ないのだけれど。
「迷惑ではなかったとは言わん。おかげでここ数日散々な目に合わされたのだからな。……だが、支倉の企みを甘んじて受けてやる気になった程度には、お前を放置していたことは申し訳ないと思っている」
きょとんとした顔で小日向が冥加の顔を見つめた。その真っ直ぐな瞳が居た堪れず、冥加は不自然に彼女から視線を反らす。小日向は、しばらく自分の中で冥加の発言を反芻していたようだった。やがて――
「……冥加さん。私、さっきこれのこと罰ゲームみたいだって言ったんですけど」
もう一度、両膝の上の箱を撫でて小日向が言う。
「もしかして、『竹取物語』の方なのかなって思っちゃいました。ほら、蓬莱の玉の枝とか、火鼠の裘とか、あるじゃないですか」
求婚する貴公子達に突き付けられた無理難題。困難な命題を達成することが――『愛情の形』。
「……そう思ってて、いいですか?」
頬を染め、花開くように微笑む小日向をちらりと見やり、それから冥加は、先程とは違う意味合いで彼女から目を反らす。
奇しくも小日向は、妹の枝織が冥加に指摘した冥加の真実に、見事辿り着いたのだ。
「……勝手にしろ」
小さな溜息交じりに冥加が吐き捨てる。「はい、勝手にします」と即答する小日向が、大切そうに冥加からもらった贈り物を抱き締める。
……何だかんだと言いながら、無事に落ち着くべきところに物事が落ち着いた気がして、冥加はこっそり安堵の息を付いた。……だが。
狡猾な狐共は、たった一つの罠を受け入れた程度で許してくれるほど甘くはなかった。
この後には、冥加と小日向にとっての最大の地雷がしっかりと待ち受けていたのである。
「……一部屋、だと!?」
「はい。ご予約いただいているのは冥加様、男性お一人、女性お一人で二名。一泊の御予定です」
気色ばんだ冥加の言葉にも全く動じる気配を見せず、受付の女性は鉄壁の営業スマイルでそう答えた。
ホテルに着き、二部屋分のチェックインをしようと受付に行くと、小日向かなでという名での予約はなく、冥加の名前で二名の宿泊予定だと言われたのだ。
考えるまでもない、御影の……引いては支倉の策略だった。
日中、荷物を預ける時にもそれぞれの名前で確認を取る手間を惜しんで、冥加がまとめて自分の名で荷物を預けてしまったのだ。せめてそこで予約状況を確認しておけば、その時点で支倉の企みに気付くことが出来たのに返す返すも口惜しい。
「……どのクラスの部屋でも構わない。もう一部屋、準備していただけないだろうか」
「申し訳ありませんが、本日は週末のため全フロア満室となっております」
冥加の縋るような言葉を、受付の女性は涼しい顔でけんもほろろに退けた。
もしやこの女、支倉たちの仲間ではあるまいな、と冥加が疑念を抱いたのも無理はない。
とりあえずチェックインを保留し、ロビーの柱の隅で冥加を待っている小日向のところへ戻る。既に遅い時間で人気のなかったロビーでは、受付での冥加たちのやり取りは彼女に筒抜けだったのだろう。冥加からの贈り物を大事に抱える小日向が、真っ赤になって俯いている。
「どうやら、聞こえていたな。……そういう理由だ。全くお前の親友とやらは、余程俺を振り回すのが楽しいらしい」
すみません、と消え入りそうな声で小日向が詫びる。
呆れたように溜息を付き、冥加はロビーの壁に掛けられている時計に目をやって、時刻を確認する。
面倒ではあるが、冥加の暮らす横浜は、今から車を呼んで帰れないという距離ではない。当日キャンセルという馬鹿らしい真似はしたくないので、小日向だけここに残し、明日の午前中にまた迎えに来るのが得策だろう。
「二名での予約ならば多少広過ぎるかもしれんが、狭いよりは広いに越したことはなかろう。チェックアウトの時刻には迎えを寄越すから」
「……冥加さん」
冥加の言葉を遮るように、小日向が名を呼ぶ。
そしてその指先が冥加のシャツの袖を摘まみ、つい、と引いた。
「……あの」
しばらく言いにくそうに口籠り、その後思い切ったように切り出した小日向の言動の破壊力は、支倉たちの企みの比ではなかった。
「あの……このプレゼント、せっかく頂いたのに、物が物だから、他の人に見せられなくて。自分の判断じゃ、ちゃんと似合ってるかどうか確かめようがないし。……だから」
――ちゃんと、冥加さんが選んでくれたものが私に似合っているかどうか。冥加さんの目で確かめてくれませんか。
微かに震える消え入りそうな声で、小日向がそう言った。
「……馬鹿な」
半ば呆然として、冥加が呟く。
次の瞬間、周囲に気を使った押さえた声量でありながらも、はっきりと冥加は小日向を叱りつけた。
「宝飾やドレスの類ではないのだぞ! 俺に確かめさせてどうする! それに」
勢いに任せて続きを言いかけ、そのあまりの自分らしくない言葉に思わず冥加はそれを呑み込む。
上目遣いに自分を見つめてくる小日向に、言い逃れようとすることの方が、余程事態を悪化させるという事実に気が付いた。
おそらく、己の危機をはっきりと分からせてやらねば、一度言い出したら聞かない小日向は納得しない。
「……俺は、聖人君子ではない。同じ部屋でお前と一晩を共に過ごし、そんな姿を見せられたならば、何事もなく終わることは出来ん……」
だから、我儘を言うな。
最後は宥めるように告げると、袖を摘まんだ小日向の指先は離れるどころか、ますますぎゅっと冥加を掴まえて、逃がさない。
「……ちゃんと分かってます。終わらなくていいって思ってるから、冥加さんをお誘いしてるんです。だって、冥加さんが恥ずかしい思いしても、それでも頑張って愛情の形を届けてくれたんだから、私もちゃんと同じように返さないといけないでしょう? 私の愛情だって冥加さんに負けてなんかいないのに、目に見えて測れるものがないから伝わらないなんて、悔しいもの」
でも、今私が冥加さんにあげられるものが、冥加さんにとって要らないものなら、諦めて大人しく広いホテルの部屋を満喫します……。
――そう言って項垂れる小日向を退けられるほど、冥加の理性は鉄壁ではなく。
また、心の中で何よりも渇望しているものを目の前に提示されて、それを要らないと突っぱねられるほど無欲でもない。
チェックインには中途半端な時間帯と、ロビーの柱の陰が、受付からは死角になっているのが幸いした。
冥加は小日向の二の腕を掴み、そのまま力任せに引き寄せた。
唇は触れた瞬間から、深く、深く重なり合う。
これまでそうした回数はあまり多くはないので、応じる小日向の動きはひどくぎこちなかった。
それでも懸命に応えようとする健気さは愛おしく、冥加の激情に容赦なく火を付ける。
「……部屋のキーを受け取ってくる。しばらくここで待っていろ」
呼吸が触れる位置で微笑み、掠れた声で冥加が告げる。瞳を潤ませたまま、ぼんやりとその冥加の笑みを見つめた小日向が、ふわりと嬉しそうに笑い返し、小さく頷いた。
とんでもない策略に巻き込まれたと自分自身を嘆きもしたが、その振り回された結末がこれならば、少しくらいは彼女たちに感謝してやってもいい。
脳裏に女狐たちのしてやったりの不快な顔が浮かびはしたものの、さすがの冥加も今夜だけは、寛大な気持ちで彼女たちを許せる気がした。
あとがきという名の言い訳
冥加とニアと御影さんのやり取りは異様に楽しかったです(笑)
アレだな、私の中に女性二人のように冥加をいじりたい欲求があるんだな、きっと……(笑)
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執筆日:2016.11.12