Anniversary Date

11月11日 恋人たちの日
【天宮 静×小日向かなで】

Anniversary Date

 天宮静から謎の封書が送られてきたのは、秋も深まり、冬の足音が近づいてくる頃だった。寮の隣室である支倉仁亜から差し出された味も素っ気もない封書に、小日向かなでは小さく首を傾げる。
 天宮はこの夏にできた、生まれて初めてのかなでの『恋人』だ。
 学校も年齢も違い、天宮は多忙な人間でもある。そのため、同じ横浜在住なので物理的な距離は近いはずなのに、思うように頻繁には会えていない。
 だがそれでも、わざわざ郵便を送らなければならないほどに離れてはいないはずなのに。
「何だろう……? 何か送るものがあるなら、電話かメールで言ってくれれば、天音学園まで取りに行ったのに」
「察するに、『サプライズ』演出なんじゃないか? 消印がないから、あいつ、もしくは代理人が直接投函しているんだろう」
「えっ!」
 驚いてかなでは、仁亜から受け取った封書の表面を見る。確かに仁亜の指摘通り、指定の位置に押してあるはずの消印がなかった。郵便番号から住所まで、丁寧にしっかり書き記している割に。
「余計に分かんない! ここまで来てるのなら、顔見せてくれてもいいのに!」
 なかなか会えていないのだから、これくらいの愚痴は許されて然るべきだ。つい憤慨してしまうかなでに、何かを考え込むように口元に指先を当てた仁亜が、ふう、と息をついた。
「まあ、とりあえず中身を確認してみたらどうだ?」
 もしかして、直接渡せない事情があるのかもしれないし、と全くそうは思っていなさそうな冷めた口調で、仁亜が促す。素直に頷いたかなでは、丁寧に封を切り、封筒の中身を覗き込む。
「……これ」
 それは、コンサートのチケットだった。生活圏内の小さなホールで開催されるもので、無機質に印刷された演奏者名の羅列の中に、見慣れた三文字がある。

 客演:ピアノ 天宮 静(横浜天音学園3年)

 どうやら、天宮が参加するコンサートのチケットのようだった。そして、チケット以外には手紙も、メモ書きらしいものすら入っていない。
「ますます謎……。これ、わざわざ投函する必要がある?」
 天宮からコンサートに誘われることは初めてではない。だが、こんな回りくどいやり方でチケットを渡されたことはなかった。
「だから、おそらくは『サプライズ』のつもりじゃないのか? 君がそれをどう取るかは別の話として、あいつは意外にそういう俗っぽいことを楽しむタイプだぞ」
 反射的に否定の言葉を発しそうになって、かなではふと口をつぐむ。「そんなことはない」……と言い切れる根拠が何もないことに、これまでの天宮とのやりとりを思い返して気付く。
 そもそも最初の出会いから、実験で「恋人」になることを依頼してくるような人物だ。しかもその後も、実験で恋人同士の甘いやりとりを再現してみたり、アイスのカップル割引のためにキスをしようとしてみたり……。本当に恋人らしいやりとりと言うより、世間一般で『ベタ』だと称されるようなことをやりたがる天宮だった。あれは確かに、真面目に『恋人同士のやりとり』を再現するというより、単なる興味本位で、遊んでいたようにしか思えない。
 だが、それは天宮が恋というものをしたことがなく、実験という形でそれを知りたいと望んでいたことからの行為であり、今はちゃんとかなでと恋愛をしているのだから、あの頃と気持ちは変わっているはずだ。……そう信じたい。
「結局、このコンサートに来て欲しいってことなのかな」
 仁亜はサプライズだと言うが、正直かなでにはサプライズをされる心当たりがない。かなで宛の封書にチケットが同封されているのだから、当然このコンサートにかなでが招待されているのだとは思うのだが、まず招待されるその理由が分からないのだ。
「まあ、そうだろうな。だが、真っ当な理由を考えるだけ無駄だと思うぞ。私ですら、あいつの考えることはよく分からない」
 そもそも、興味もないがなと仁亜は肩をすくめる。そう言わないでよ、とかなでは眉を八の字に下げる。
「まあ、天宮の一方的で自己満足甚だしいサプライズだ。君が付き合ってやる義理もない。不満ならばそのチケットを破棄してしまえばいい話じゃないか?」
「そんなこと、できるわけないって分かってるくせに……」
 唇を尖らせて恨めしげに睨むかなでに、呆れたように仁亜が笑う。「では、私から言うべきことは何もないな」と片手をひらりと振って、自室へと戻ってしまった。
「……結局、これをどうするべきなのか……」
 小さなテーブルの上に置いたチケットを、正座をして腕組みをする姿勢でかなでは眺める。実際のところ、仁亜の言う通り、このチケットを破棄する気も無視する気もないのだから、結論は聴きに行く一択だ。だが、菩提樹寮の玄関まで来ておいて、こちらの顔も見ずに帰って行った天宮には一言物申したい。これがサプライズだったと言うのなら、かなでからもサプライズを仕掛けてみようか。どうせなら、天宮が喜んでくれるようなサプライズを……そういう思考に行き着くあたり、かなでは前向きで、とても健全だった。
 何をしたらいいんだろう。姿勢を崩さないまま、かなではチケットを凝視する。何かヒントになる情報はないか……とチケットの版面をじいっと眺めていて、ふとあることに気がついた。
「ゾロ目なんだな、この日……」
 コンサートの日程は、11月11日。特に何かメジャーな記念日が思いつくような日ではないが、1が4つ並んでいるのはなかなか目を引く。充電中のスマートフォンを手元に引き寄せ、かなではこの日付を検索にかけてみる。予想通り、様々な記念日の名称がヒットした。何と40個以上もあるらしい。かなでが知っているのは、商品の形が由来とされる某お菓子の日であったが、その他にも色々と知らない記念日が羅列する。同様に字形から連想される「チンアナゴの日」があるかと思えば、きちんと日付に由来した「ジュエリーデー」というものまである。宝石の単位「カラット」が日本で正式に採用された日だそうだ。
「でも別にコンサートにも天宮さんにも関係がないし……」
 ぶつぶつ独り言を呟きながら、やがてかなでは一つの記念日に行き当たる。
 それは、「恋人たちの日」。静岡の伊豆にある恋人岬にちなんだもので、1が4つ並ぶ様子が、恋人たちが並んで立っている様子に見えるからというのが由来だそうだ。だからといって、その日に恋人たちが何かをするというわけではないようだが。
「恋人にプレゼント……お花とか、持って行ったらどうかな?」
 単純と言えば単純だが、ふとかなではそんなことを思いつく。以前にもコンサートに参加していた天宮に花束を持って行ったことがある。客演でありメインではない自分が花束をもらうことはない……淡々とそう呟いた天宮が、かなでが差し出した小さな花束を、戸惑いながら、それでも嬉しそうに受け取ったことを覚えている。
 単純と言えば単純だが、物欲があまりない天宮にプレゼントをするのなら、いつまでも残るものではなく、かつ色彩豊かなものがいいような気がする。必要最小限のものしか置いていない殺風景な彼の部屋を色付けるにもちょうどいいし、恋人にプレゼントするのにふさわしい花を選べば、『恋人たちの日』という記念日にも紐付けたものになるのではないだろうか。
「よし、そうと決まれば、何の花にするか選ばなくちゃ」
 花を選ぶというのは、理由が何であれ心が浮き足立つものだ。それが、恋人に渡すためのものとなれば尚更。
 かなでは先程までの天宮への怒りも忘れ、意気揚々と花とまつわる花言葉について、調べ始めるのだった。




 その後、念のため天宮に「このチケット何ですか?」とメールを送ってみたのだが、予測していたとおり、質問に対する返答はなかった。その割に「今日はこの曲を弾いたよ」とか「以前行ったアイスクリーム屋に新しいフレーバーが出ていたよ。今度試してみようか」などという雑談は送ってくるので、本気で意味が分からない。
 かなでの手元に無事にチケットが届き、明らかに驚いていることが伝わる形で「これは何?」と反応しているので、仁亜の予測が正しければ、サプライズが成功したということで、天宮の中では既に解決した話になっているのかもしれない。
(いいもん、私は私でサプライズ頑張るんだから!)
 もはや何を目的にしたサプライズなのかが分からないが、とにかくかなでも天宮に花束を渡してびっくりした顔が見たい……それだけが最近のモチベーションになっている。
 駅前の馴染みの花屋で、あまり大きすぎないよう、それでも華やかで、部屋の中を明るくできるようなアレンジメントを依頼する。
 かなでが選んだ花は、赤いガーベラ、オレンジのバラ、白と青のトルコキキョウだ。花言葉は「燃える神秘の愛」「情熱・絆・幸多かれ」「思いやり・永遠の愛」「あなたを思う」など。恋人に贈るものとしてベタ過ぎると言ってもいいものを選び抜いた。
 更に、コンサートに招待はされているものの、その後の行動の予測が付かないため、かなでは今度は着る服に悩み、仁亜に相談してみた。
 これまでも改めて食事に行ったりということはなかったので、普段着でも構わないのかもしれないが、何せ誘い方からしてこれまでとは異なるのだ。もしかしたら、ドレスコードが必要なレストランなどで食事……などという展開があり得るのかもしれない。
 かなでが列挙する仮定の話が、幼い頃からそれなりに天宮静という人物を知っている仁亜には荒唐無稽に思える。確かにひとたび面白いと感じれば、TPOなどというものは考えずに実行に移す男ではあるが、かなでが想像するように、『女性が喜ぶこと』を念頭に置いて行動するような常識的な面は持ち合わせていない。仁亜は呆れたように溜息をつく。
「いっそ、制服ででかけたらどうだ。コンサートだろうがレストランだろうが問題なく入場させていただける、万能服だぞ」
 仁亜としては深く考えるだけ無駄だと言うことを伝えたかっただけなのだが、素直なかなでが「えっ……そ、そっか、それはいい考えかも……」と本気で納得してしまったので、結局きちんと、堅過ぎず、柔過ぎず、コンサートにもレストランにも入るのに違和感がなく、普通に往来を歩いていても目立たないワンピースを選んでやることになったのだった。




 そしてコンサート当日、11月11日。コーディネートは完璧、と仁亜に太鼓判を押されたかなでは安堵しながらコンサート会場へと向かう。途中で注文をしておいた花束を受け取ることももちろん忘れていない。
 大き過ぎず、バランス良く配置されたアレンジメントにはシルバーと青のリボンが巻かれていて、かなでの想像以上の可愛らしさだった。
(天宮さん、喜んでくれるといいなあ)
 結局今日まで、彼と直接は逢っていない。天宮も今日のコンサートに合わせた練習があっただろうし、かなでもオーケストラ部の副部長になり、引き継ぎ業務などで忙しくしていたから仕方がないことではあるのだが、しばらく逢っていない分、花束を渡した時の天宮の反応の予測が付かなくなっていた。
 以前はもっと軽い気持ちで渡したが、今回の花束には一方的ではあるが、かなでの気持ちを目一杯込めている。嫌がったり困ったりはしないだろうが、さすがにこの花束に込めた気持ちまでは天宮は読み解くことはないだろう。花言葉に精通している天宮というものが、かなでには想像が付かない。
(まあ、別にそこまで知ってもらわなきゃいけないわけじゃないから)
 花束に込めたかなでの想いを受け取って、驚いて、そして幸せな気持ちになってくれるのなら、それで充分。
 いつの間にか、サプライズのお返しをするという当初の目的は薄くなってしまい、ただ天宮を喜ばせたいと願うかなでがそこにはいた。




 天宮が客演で参加するコンサートが行われるのは、小さいが音響がいいと評判のホールだ。かなでたちの生活圏内にあり、有名な楽団から子供の発表会まで様々な演奏会が開催されているので、かなでも何度か聴きに来たことがある。指定の席は中心から少し後ろで、音がバランス良く聴こえる最良の位置だった。ところどころに空席はあるが、コンサートの規模を考えると上々の入りだろう。かなでは薄いパンフレットに目を通しながら、開演を待った。
 メインは若手の弦楽四重奏で、伴奏として天宮ともう一人ピアニストが参加している。天宮ほどの実力があれば、ソロでのコンサートも可能ではないかと思うのだが、天宮は自分だけの名前で観客を集めるにはまだ足りないのだと苦笑していた。師であるアレクセイ・ジューコフの影響下から抜け出し、天宮なりの音楽を追究し始めたものの、そのたった一度の反発のせいで、大きな楽団からは声がかからない。それでも天宮本人が、今はいろんな演奏家と音を合わせるのを楽しんでいると言うから、それでいいのだとかなでは思うことにしている。
 結局音楽は聴衆と演奏家のものだ。高い場所から見下ろしている人たちが天宮の音を求めなくても、聴衆たちがそれを求めるのであれば、天宮は必ずステージ上に立つことになるのだから。
 やがてホール内が暗転し、拍手と共に演奏者たちが迎え入れられた。
 メインは弦楽器なので、伴奏の天宮はもう一人のピアニストと数曲単位で入れ替わりつつ演奏をしている。
 弦の邪魔にはならないが、確実に印象に残るピアノの音を、いつものように正確に弾く天宮。ステージと客席で離れてはいるけれど、久し振りの天宮の姿とピアノの音色に、かなでは満足していた。
 更に終演後には楽屋に来ていいと言われていたので、このコンサートが終われば直接会えるのだ。
 花束を渡して、今日のコンサートの感想を告げて。そもそも、何で今回は直接会わずにチケットだけを置いていったのかを問い質して……コンサートが終盤に近づくにつれ、その後のことを考え出したかなでの耳に、思いがけない言葉が届いた。
「ここで1曲、今回伴奏で参加してくれた天宮静くんの、ピアノソロをお聴きいただきたいと思います。僕らのレパートリーの中にない曲で、更にソロで弾きたいと言われたので最初は丁重にお断りしたんですが、どうしてもとゴリ押しされて、試しに演奏してもらったら、これはむしろ皆さんにも聴いていただかないと非常にもったいないということで、メンバーの意見が一致しましたので」
 冗談交じりにリーダーであるヴァイオリニストが紹介し、客席のあちこちで小さな笑いが起きる。このアンサンブルで、ある程度の信頼関係は出来ているのだろう、視線を向けられた天宮はただ苦笑するのみだった。
 弦楽器のメンバーが袖に捌け、スポットライトが天宮に集中する。光の中で天宮はいつも通りの落ち着いた表情で一つ、深く息をつき。
 そっと、白鍵の上に長い指先を置いた。

 それは、かなでも初めて聴く天宮のピアノだった。
 どちらからと言えば技巧的で清らかな曲を得意とする天宮が、かなでの前ではまだ弾いたことがない曲。

 エドワード・エルガー『Salut d'amour』。
 ……愛の挨拶。

 それは、穏やかで、優しく。とても暖かな。
 『愛』を歌うピアノだった。




(サプライズは、チケットじゃなかった)
 かなではようやくそのことに気がついた。
 天宮が、今回のコンサートについては何一つ教えてくれなかった理由も。

 全てはこの曲を、かなでに聴かせるためだったのだ。




「ひどい顔だね」
 楽屋に迎え入れられて向き合うと、開口一番に天宮はそんなことを言った。
 平然とした態度の彼の胸元に、まだ頬に涙の跡をくっきりと残すかなでは、持参した花束を押しつける。
「天宮さんがひどいからです……」
「あれ? 僕は何かそんなに責められるようなことをしたかな。かなでさんに喜んでもらうためにいろいろ知恵を絞ったつもりなんだけど……」
「私も天宮さんに喜んでもらおうと思って頑張ってたのに、無理でした。負けました。あんな曲、聴かせるなんてひどいです」
 私も、一緒にヴァイオリン弾きたかった、とかなでが呟く。
 押しつけられた花束と、そんなかなでを見比べて、天宮が少しはにかむように笑った。
「そうか、一緒に弾くという手もあったね。確かにそれはもったいなかったかもしれない」
 じゃあ、それはまたの機会に。
 そう言った天宮の声に喜びが混じっていたことは、かなでの勘違いじゃないと信じたい。




「コンサートの誘いはいくつか来ていたんだけどね。ソロで1曲弾かせてくれると言うから、あのアンサンブルを選んだんだ」
 やはり天宮はレストランで夕飯を取ろうとは言わなかった。元々食にそこまでのこだわりはなく、胃が満たされればそれでいいと考えている人間だ。唯一、かなでが作るものは美味しいと感じると言ってくれるので、作り置きの分も含めて通り道のスーパーで食材を買い込み、今二人は天宮のマンションへ向かっている。
 冷凍保存が効いて、レンジでチンするくらいで食べられるものをきちんとストックしておかないと、タブレットとゼリー飲料で「栄養はちゃんと補充しているよ」と言いながら、まともに食べずに過ごす天宮が、かなでには容易に想像できた。
 天宮のマンションへ向かう道中、かなでは今回のコンサートのいきさつについて、天宮から説明されていた。
 ここ最近、天宮のピアノの評判が上がり、特に若い演奏家たちからの客演のオファーが後を絶たないと言う。ちょうどかなでのためにいつかステージで弾きたいと思っていた『愛の挨拶』が満足のいく出来で弾けるようになったところで、客演ではあるが、1曲だけソロで弾かせてもらえないかという条件をつけたところ、それでもと天宮のピアノを望んでくれたのが、今日の弦楽四重奏のメンバーだったそうだ。
 『愛の挨拶』を弾きたい理由が、恋人に聴かせたいからだと説明したところ、メンバーたちが面白がって、今回のサプライズについての知恵を授けてくれたのだという。
「じゃあ、日付とかは別に関係なかったんですね」
「日付? 今日は……11月11日か。『チンアナゴの日』だね」
「何で、ピンポイントでその記念日を知ってるんですか……?」
 真顔で答えた天宮に、若干かなでが引いたが、今日が休日だったためか、つけっぱなしにしていたテレビのワイドショー番組の、水族館特集で説明されていたのをたまたま見ていただけだった。
「日付に何か、意味があったの?」
 逆に天宮に問われ、今度はかなでが自分の花束についての説明を余儀なくされる。チケットのプレゼントがサプライズだと言われたので、自分もサプライズをお返ししてやろうと思ったこと、今日が『恋人たちの日』という記念日だと言うことを知ったので、恋人にプレゼントする花束として、花の種類を選んだこと……。
「僕は花には詳しくないけど……何でこの花が恋人にプレゼントする花なの?」
「それは、内緒です。気になるのなら、どこかで調べてみて下さい」
 さすがにかなでも、手の内を全て明かす気はない。
 天宮が自分で調べるかどうかは別として、かなでの想いを込めた花束をちゃんと喜んで受け取ってくれた。その事実が重要なのであった。
「ふうん。……『恋人たちの日』」
 案の定、天宮は花の意味についてはそこまで興味はないようだ。むしろ、今日の記念日のことが気になっているようだった。
「かなでさん、『恋人たちの日』って、何かそれらしいことをするのかな」
「いえ? 恋人たちが並んでいるように見えるから制定されたってだけで、だから何をするってことはないみたいですけど」
 そんな会話をしているうちに、二人は天宮のマンションへ辿り着く。よし、作るぞ!とかなでは玄関先で気合いを入れた。




 買ってきた食材は、そのままにしておいても天宮が手をつけないことが分かり切っているので、かなでは遠慮なく全てを調理してしまう。食器も必要最小限しか置いていないことを知っているので、一緒に購入してきたフリーザーバッグに一品ずつ入れて、冷凍庫へ入れた。
 幸いと言うべきなのか、冷凍庫は自動製氷の氷以外に入っているものがないので、遠慮なく隙間に粗熱を冷ました料理を詰め込んでいくことができた。
「ちゃんと、レンジでチンして、温まってるの確認してから食べて下さいね!」
 と念を押すと、「さすがに現代人類として、レンジの使い方くらい心得てるよ」と天宮が答えた。……当てにならない。
 一緒に食べていい。むしろ、君が一緒じゃないと食べる気にならない、と脅しに近いことを言われ、かなでは自分の分も作らせてもらい、食卓に夕飯の料理を並べていく。
 相変わらず装飾が何もなく殺風景なテーブルだが、かなでがプレゼントした花を飾ると、それだけで周囲が明るくなるように感じられた。勝手にいい仕事をした気分になり、かなでは満足げに頷いた。
 準備が出来たところで、何故か帰るなり自室に引きこもった天宮を呼び、二人で食卓に付く。……帰った直後、「僕も何か手伝った方がいいかな」と天宮が言ってくれたのだが、手伝ってもらう方が何やら惨状を生み出す気配がしてかなでは断った。
 ただ、人間として生活をしていくためには、出来ることが増えるのに越したことはないと思うので、今度、時間に余裕があるときに手伝ってもらおうと考える。手に怪我をしないように、注意を払わなければならないが。
 天宮はあっさりとしたものを好むので、きんぴらや煮物など、和食をメインに品数を多くしてある。言葉少なく箸を口元に運ぶ天宮は、意外にも食べ方は綺麗だった。マナーは一通り、函館にいる時に叩き込まれたのだと聞いたことがあるが、洗練されたその仕草に、何となく目が奪われてしまう。
 だから、かなでは油断していた。
「「情熱」「神秘の愛」「永遠の愛」「あなたを思う」……そんなところかな」
 食べ終わる頃に突然天宮が呟き、かなでは反射的に吹き出してしまいそうになるのを、何とかこらえた。
 慌てて視線を向けると、天宮は楽しそうに微笑みながら、テーブルの上の花々を見ていた。
「あ、天宮さん、その言葉って」
「君が言ったんだよ、気になるなら調べろって。何も手伝わなくていいって言うから、それなら待っている間に調べておこうかと思ったんだ」
 気にしないと思ってたのに! とかなでは頭を抱える。勿論、出来るならちゃんと意味も知って欲しいと思って選んだ花々だったが、実際に伝わってしまうと、いかにもという感じで恥ずかしい。
「『恋人たちの日』だから、君はこの花を選んでくれた。……それを聞いてから、ずっと考えているんだよ。僕は、その『恋人たちの日』にちなんで、一体何をするべきなんだろうって」
「え?」
 驚いてかなでは顔を上げる。かなでは今日が『恋人たちの日』だからと言って、何かを天宮に求める気はなかった。
 何より天宮からはもう既にもらっている。コンサートで聴かせてくれた、『愛の挨拶』だ。
「……ねえ、かなでさん」
 テーブルの上に頬杖を付き、少し緊張を含んだ眼差で、天宮は真っ直ぐにかなでを見つめた。
「せっかくの記念日なんだから、僕たちは、もっと恋人らしいことをするべきなんじゃないのかな」
「恋人らしい、こと?」
 まだ、かなではよく分からない。オウム返しに呟き、首を傾げた。
 天宮は小さく息をつく。まるで呆れたような、諦観のような。……天宮は静かにその場に立ち上がる。何も言えずにただ天宮の動きを見つめているかなでに歩み寄ると、傍らに立って、身を屈めた。
「こういうことだよ」
 頬に冷たい掌が触れた、と思ったら、いきなり口づけられる。反射的に後ろに引いて逃れようとするかなでを、いつになく強引な動きで天宮が制した。頬に触れるのとは逆の手がかなでの後ろ髪の間に潜り込み、そのまま抑えられてしまう。
「あ、まみや、さ」
 わずかな隙に漏れかけた声は、また彼の唇の中に隠されてしまう。唇を開こうとすれば、それを全て天宮の唇が塞ぎ、ただかなでの口内が天宮の味に満たされる。
 それはまだ、あまり交わしたことのない、深く濃い口づけだった。
「……ねえ、かなでさん。以前僕がこの部屋で言ったことを覚えてる? 君を好きになってから僕は、自分が思っていたほど淡泊でも、他人に関心がないわけでもないって知ったんだ。……君に触れてみたいっていう人並みの欲望を、僕はちゃんと持っているんだよ」
 日々募るかなでへの想いを、色々と理由があってなかなか会えないのをいいことに、天宮は彼女には決して全てを見せないようにしてきた。それは、決して綺麗なだけのものではなかったから。
 その想いをただピアノの音色に託して、天宮は今日の『愛の挨拶』を作り上げた。あの曲を弾き終えた一瞬だけ、自分の中の全てを昇華できた気がした。
 だがそれは勘違いだった。かなではすぐに新しい愛おしさを、天宮の中に継ぎ足してしまう。
 天宮の中からはいつまで経っても欲望が消えない。どれだけピアノの音色に吐き出して、内なる澱みを消し去りたいと願っても。
 そして、天宮は気付くのだ。気持ちだけでは完結しないものがあることに。
 結局、かなで自身を手に入れてしまうまで、この澱みが昇華されることはないと言う真実に。
「逆に君が僕を警戒してくれているなら、その方が楽なのに。その気もないのにこの部屋まで来て、君の愛情をひけらかすような真似をして。何をされても文句は言えないって思ったりしないの?」
「……わ、私」
 至近距離で見つめる眼差が、不安げに揺れる。天宮ははっと我に返った。
 追い詰めるつもりはなかったのに、結局は傷つけることを言ってしまった。……もう、想いの決壊の時期が近いことも分かっていた。少しでもそれを回避したくて、必死にピアノにその気持ちを託してきたのに。
(だって、君に嫌われたくない)
 恋人同士なのだから、その感情は当たり前だと言う人もいる。だが天宮には分からない。この想いはかなでに晒しても大丈夫なものなのか。
 恋なんてこれまでしたことがない。自分ではない誰かに、愛情という名の欲望をぶつけてもいいのか、誰にも教えられたことがない。
 己ですら制御できなくなるこんなものを、よりにもよってかなでに見せなければならないのだ。
 そして、この想いが原因で、もし彼女を失うことになるのなら。
 多分天宮は、今それが何よりも一番怖い。
「ごめん、嘘だよ。……後片付けくらいは僕にも出来るから。君はもう帰って……」
「あ、天宮さん!」
 身を起こし、かなでから離れようとした天宮に、かなでがしがみつく。ぎゅうっと目一杯天宮を捕まえていると、珍しく彼が戸惑っているのが分かった。
「本当はそれ、嘘じゃないですよね!? だったら天宮さんもちゃんと思い出して下さい。天宮さんがそれを言ってくれたとき、私が何て答えたか」
 人並みに、女性に触れたい欲望だってあるんだよ。
 天宮がこの部屋でかなでに告げた言葉は、半分冗談、半分本気だった。今ほどに切羽詰まった想いではなかったが、確かにかなでのことを好きだと思っていたので、いつかはどうしても触れたくなるんだろうと、漠然と予感していたのだ。
 その時のかなでの答え。からかう天宮に怒って拗ねて、それでも真っ赤に頬を染めながら、彼女が告げた答えは。
(一足飛びで、そういうことになっちゃったらいけないんです。ちゃんと、段階を踏まなきゃいけないんです!)
 その時の慌てた口調まで、はっきりと脳裏によみがえった。段階を踏んだら一緒にいてくれるのかと尋ねた天宮に……彼女は確かに、「はい」と答えたのだ。
「……あの『愛の挨拶』を聴いて、今、天宮さんの言葉を聞いて。天宮さんが冗談だったり、からかったりするつもりでさっきのキスをしたんじゃないって、ちゃんと分かります。……ねえ、天宮さん。想いが育ってるのは、天宮さんだけじゃないんです。私……私は、天宮さんに比べたら、ずっとずっと幼い気持ちなのかもしれない。でも」
 顔を上げて、かなでは天宮の目を真っ直ぐに見つめ返す。
「会えないの、ずっと寂しかった。それが天宮さんが私に触れたいのを我慢しなきゃいけないからだって言うのなら、我慢なんてしなくていいです。会えなくなるくらいなら、ちゃんと天宮さんの気持ちを教えてもらって、天宮さんが望んでいるとおりにしてもらう方がいいです!」
 言葉尻を塞ぐように、再び天宮に深く口づけられる。先程は突然の暴力のようだったそれは、かなでがぎこちないながらもきちんと応える分、ひどく甘い。
「……だいたい、あの、ピアノを聴かせておいて、今更、そういうこと言うの、卑怯だと思う……」
 口づけの合間、切れ切れに呟くかなでに、天宮が首を傾げる。
「……ピアノ?」
 分かってなかったんですか? とかなでが眉を寄せる。
「あんなに赤裸々に、好きだ、欲しいってピアノに歌われたら、嬉しいのと恥ずかしいので、私は泣いちゃうでしょう?」
 何故分からない? とでも言いたげに、かなでが頬を膨らませる。
 天宮は、最初にあのアンサンブルのリーダーであるヴァイオリニストの前で、ソロで弾きたいと思っていると『愛の挨拶』を弾いたときのことを思い出した。




(あー、このピアノを? 衆人環視の前で聴かせるの? すごいね、天宮くん。度胸あるなあ)
(恋人に向けて? ……ああ、うん、なるほどね。恥ずかしく……は、ならないのね。本心だから。……ああ、そう)
(まあ、いいのかもね。今でしか出せない音ではあるし……文句? いや、演奏には全然ないよ。むしろ、ちゃんと聴衆に聴かせないともったいないなあって思う。一応メンバーの意見も聞いてみるけどね)
(若いっていいなあって思ってさ。いや、俺も別にそんなに年食ってるわけじゃないんだけど。……もう、俺には、この音色は出せないだろうなあ)




 苦笑交じりの彼の言葉の意味が、ようやく分かったような気がした。
 天宮は意識的に回りくどく物事を語っている気はないのだが、どうにも思考が独特すぎて、上手く相手に伝わらないことがある。それはピアノを弾くときも同じだった。
 だが、あの『愛の挨拶』に乗せていた天宮の想いは、本能に近いもので、湾曲させようがない。
 何の装飾もひねりもなく、誰にでもあからさまに伝わってしまうような。
 とても素直で、分かりやすいものだったのだ。




「案外、僕の中で、逆に君への想いだけが、何の澱みもない、綺麗なものなのかもしれないね」
 天宮が呟くと、だったら私も嬉しいです、とかなでが笑った。
 その無邪気な笑顔を他の誰かが知ることのない、艶やかなものに変えるべく、天宮はかなでの細い身体を腕の中に抱き込んでみる。

 そしてまた口付けが深まっていく様を、テーブルの上のかなでの想いが込められた、花たちだけが見ていた。


あとがきという名の言い訳

天宮も書くのが難しいよねー(遠い目)
実は天宮の創作って、最後以外全く考えてなくて、書けるんだろうかと心配していたんですが、先週七海くんを書き終えたら、脳にきちんとスペースが出来たのか、するすると浮かんできました。もうちょっと天宮がぐいぐい行く予定だったのに、意外にへたれたな……(毎度のこと)
天宮の設定は3だったりASだったり、拙宅のものだったり、結構まぜこぜで使ってます。

記念創作は裏頁に続くように作成していますが、それを読まないと話が完結しないということもありません。続きのみを配布することはありませんので、希望される方は基本の裏頁アドレス申請の規定を遵守してください。
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執筆日:2021.07.11

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