失った世界で

My confidence mucic 第3話

「香穂ー、もういい加減、終わりにしなさいよー」
「はーい」
 階段の下から聴こえた母の声に、ヴァイオリンを弾く手を止めて、香穂子は慌てて返事をした。
 机の上の置き時計を見れば、もう夕食の時間だ。開いたままのカーテン、窓の外の景色を見れば、数日前、月森との練習の後に見たのと同じような、夕暮れの色。
 今日はここまでか、と香穂子は肩からヴァイオリンを下ろす。弦を緩めたり、表面をきちんと拭き清めたり。丁寧に後処理を終えて、ケースの所定の位置に全ての道具を片付けた。
 突然香穂子が始めたヴァイオリンに、母は最初、いい顔をしなかった。
 練習をしていれば近所迷惑になるし、極めるにはスタートが遅過ぎるのだから、趣味程度でやっているくらいでは将来の何の足しになるでもなし。楽器なんて、お金がかかるばかりなんだからと渋い顔をした母を説き伏せられたのは、「絶対に成績は落とさないから」という約束と、そんな約束をしてもヴァイオリンをやりたいと言った香穂子の熱意。正直、約束は守れるかどうかの保証はなかったのだが、ヴァイオリンをやることで集中力が養われたのか、香穂子の成績は現在、緩やかに昇り傾向にある。
 そんなふうに、香穂子にとってヴァイオリンをやることの付加価値は充分なほどにあるのだが、その肝心なヴァイオリンの技術がまだまだ香穂子の思い通りには伸びていかない。練習を見てくれている月森に言わせれば、上達の速度は『これまでに全く音楽の経験がないことを考えれば、圧倒的に早い方だ』ということなのだけれど。
(目標が目標だからなあ……)
 遠過ぎる理想に小さな溜息をつきながら、香穂子は音が少しでも漏れないよう、閉めっぱなしにしていた部屋の窓を、空気の入替えをするために開いた。秋口の冷えた風。それでも、練習に火照った身体には、それは心地のいいものだった。

 香穂子が目指すのは、月森の音。
 並び立てるはずがない、超えることが出来るはずがない。
 それでも、ヴァイオリンを弾く間は、香穂子はあの音色を目指す。
 香穂子がヴァイオリンに魅せられたきっかけは、あの日、月森が聴かせてくれたヴァイオリンだから。

 そんなことに考えが到って、香穂子は思わず苦笑する。
 ヴァイオリンに……月森の音色に出逢う前の自分を、思い出したからだ。

(つまらない生活だったな)
 充実している現在から振り返って、そんなふうにあの頃の生活のことを思う。
 毎日、同じ時間に起きて、学校へ行って、他愛無い友人とのお喋りに花を咲かせ、思い通りに進まない勉強に愚痴をこぼして。そうして、たまには放課後に寄り道をしながら夕飯の時間には家に帰って、テレビでも見て、お風呂で体重の増減を気にしたりして、就寝する。その繰返しの日々。
 あの頃は、それでも楽しかった。
 それは、周りの誰もが過ごしている『普通』の生活で、香穂子の知る世界には、それ以上も、以下も存在しなかったから。
(なんて狭い世界だったんだろう)
 ヴァイオリンに……音楽に出逢って。
 こんなふうに、自分が一生懸命になれるもの。好きになれるものがあったことを知った。
 存在しなかったわけじゃない。
 それは、いつだって香穂子の隣に息づいていたはずなのに、香穂子が見ようともしていなかっただけの世界だ。
 香穂子は、その世界に偶然にも目を向けてしまったことで、以前のぬるま湯のように全く起伏のない、それでいてとても居心地のいい、優しい世界を失ってしまったけれど。
 自分が作り出すものに一喜一憂して、夢中になれる。
 新しく、香穂子が知った世界は、楽しいことばかりじゃなくて、苦しいこと、辛いことも内包しているのだけれど。
 知らないよりは、知っていた方がよかったと、そんなふうに香穂子には思える。

 もう、ヴァイオリンと音楽と。
 この世界に香穂子を導いてくれた、『あの音色』を失った世界では、香穂子はきっと生きられない。
 ……そんなふうに。
 あの日、あの時。月森が奏でていた『アヴェ・マリア』は。
 大事に、大事に。
 今、自分が立つ世界の中で。
 香穂子が心の中に抱き続けるべき音色だ。

「……頑張ろう」
 誰に言うでもなく、香穂子は呟く。
 ぱたんと閉じたヴァイオリンケースを掌でそっと優しく撫でて「……今日も一日、お疲れさま」と語りかける。

 辿り着きたい場所が出来たよ。
 そこに向かうために、ほんの数秒も無駄にせず。
 ひたすらに、がむしゃらに、足掻くんだ。
 ……きっと、彼もそんなふうに。
 惜しまない努力を積み重ねて来た人だから。
 同じ世界には行けなくても。
 彼の生きる世界の、ほんの片隅であっても。
 私もちゃんと、息づきたいんだ。
 失ってしまった、優しい世界で。
 あの頃のように安穏と生きていくことは。
 新しい世界を知った今はもう、出来るはずがないのだから。

(一緒に行こうね)
 もう、このケースの中に存在するのは。
 香穂子がここまで来るのに必要不可欠だった、香穂子を導いてくれたもう一つの存在ではないけれど。
 それでも、あの魔法のヴァイオリンを失った、今の香穂子が生きる世界で。
 辿り着きたい場所へ一緒に向かうのは、この子だから。

 大切にするんだ。
 胸に抱く音色も。
 辿り着きたい場所も。
 そして、そこに一緒に行くための、かけがえのないパートナーも。

 その全てが、香穂子を新しい世界に息づかせる。
 大事な指針なのだから。




あとがきという名の言い訳 【執筆日:09.11.29】

連作なので、あとがきは最後の作品で!

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