笑顔は教えてくれる

My confidence mucic 第4話

「肘の角度が悪い。それに無駄な力が入り過ぎだ。余計なところに負荷がかかって、ヴィヴラートが均等になっていないだろう」

 今日も容赦なく月森の的確な指示が入る。はい、と丁寧に返事をして、香穂子はもう一度、今注意されたことを脳裏に置いて、同じ旋律を繰り返しなぞった。
「……君は、苦手な箇所に入るとどうしても身構えてしまうようだな」
 月森の指摘を取り入れて、少しずつ変わってはいくのだが、どうにも力の配分がおかしい。要するに、力み過ぎというやつだ。香穂子が自分自身、苦手な箇所を自覚しているため、どうしてもそこの部分に差し掛かると、上手く弾かなければと緊張をする。
「深呼吸をして、ここの力を抜いてみろ。……ここだ。分かるか?」
 背後から、月森の拳が軽く、とん、と香穂子の肩を叩く。突然触れられて、驚いた香穂子は逆に身体を強張らせてしまう。
「日野?」
「ううん、オッケー! 全然大丈夫、です!」
 何が大丈夫なのか良く分からないが、突然跳ねた鼓動の理由は置き去りにして、香穂子は懸命に月森にそう応える。片手で胸を押さえ、月森に言われたように、ゆっくりゆっくり、大きく息を吸って、吐いた。
「……じゃあ、行きます!」
 神妙に宣言し、香穂子はもう一度軽く息を吸う。ふ、と息を止め、弦に弓を滑らせた。
(肘の角度は大丈夫……後は、力。力の配分……)
 月森に言われたことを思い返しながら、懸命に旋律を紡いでいく。いつも、どうしても音が外れてしまう部分に差し掛かり、思わず弓を持つ手に力が入りそうになった、その時。
(……ここだ。分かるか?)
 先ほど、月森が言いながら触れた部分。
 そっと叩かれた拳は、決して痛いものではなくて。
 優しく、迷う背中を押す力で、香穂子の緊張を教えてくれていた。
(……あ)
 大丈夫だと、直感で分かった。
 余計な力の入らない弓の動きは、スムーズに思い通りの角度に滑る。先程まで、どうしても出せなかった流れるような旋律が、変に歪んでしまうことなく、綺麗に繋がった瞬間だった。
「……よし」
 一小節弾き終えた後、香穂子が月森を振り返ると、彼は表情を変えないまま、一つ頷いた。
「ひ……弾けた……かな?」
 恐る恐る香穂子が尋ねる。苦笑する月森が、呆れたような溜息をつきながらも、もう一度頷いてくれた。
「ようやく『弾けた』だけだ。弾けていても、完成したわけじゃない。ここでの慢心は禁物だ」
「うん! でも何か、ちょっとだけコツが分かった気がする。この感覚忘れないうちに、もう一度弾いておくね」
 満面の笑みで香穂子が言い、また彼女は同じ旋律をなぞりはじめる。弾くたびに上達していく演奏。乾いた土が水を呑み込むみたいに技術を吸収していく香穂子の成長の速度には、時々驚かされる。
(本当に、子どものようなんだな……)
 彼女が聞いたら怒りそうなことを、月森は思う。
 だが、それこそが彼女の目覚ましい上達の理由だと知っているから、決してこれは貶す言葉ではないと月森は思っている。
 楽器を始めたばかりの幼子が、ただ音を奏でることだけで『音』を『楽しむ』ことが出来るのと同じで、香穂子には、月森や他の音楽科の生徒たちのように、音楽により高みを目指すという野心がない。ただ、音楽を自分の手で作り上げることだけが楽しくて、そのためにヴァイオリンを弾いている。
 それは、音楽に……そしてヴァイオリンに対して、とても純粋な心だ。
 そんなふうに、何の気負いもてらいもなく、音楽と真摯に向き合っていることを。
 弾けなかった旋律を弾くことが出来た時の、あの屈託のない彼女の笑顔は教えてくれる。

(……君が、羨ましい)
 もう、そんな純粋さは、月森は随分と遠い昔に置き去りにして来てしまったから。
 今、まっさらな心でヴァイオリンに向き合える香穂子を、月森は少しだけ、羨ましく思う。

 ヴァイオリンで、音楽で生きていくと決めた、その日から。
 月森にとって、それらはただ、愛でるだけで許されるものでは、なくなってしまったから、


 何度か同じ旋律を繰り返して、その日の練習が終わる頃には、香穂子はその部分を完璧に弾きこなせるようになっていた。それでも不安要素は曲のあちらこちらに散らばっており、一ケ所が克服出来たからと言って、曲の完成には程遠い。
「まだまだなんだよね……」
 途方に暮れたように、香穂子がそう呟いて項垂れる。
「そういうことだ。短い練習で簡単に弾きこなせるほど、ヴァイオリンは甘くはない」
「でも、だからやりがいがあるってことなんだもんね。なかなか思い通りには練習出来てないけど……うん、頑張る!」
 月森の言葉に、香穂子は自分に言い聞かせるように答え、両手を握りしめ、改めて決意を固める。そんな彼女を、月森は何か眩しいものを見るように、目を細めて見つめた。

 真直ぐに、純粋に。
 音楽と、ヴァイオリンを愛して生きる少女。
 それは、遠い記憶のどこかに置き去りにして来た、かつての月森と同じ存在だから、こんなにも。
 ……こんなにも。

「本当に、全部月森くんのおかげだよ」
 不意に、月森を振り返って。
 香穂子はそんなふうに、告げて。
 はにかんだように、頬を染めて笑う。
「俺は……大したことはしていない」
「そんなこと、ないよ」
 月森が影響を受けたという師に教えを乞う条件を達成するために、香穂子は月森に練習を見てもらうようになった。
 それでも香穂子が未熟なことには変わりなく、月森が言うように、ヴァイオリンを弾くということはそんなに甘いことではないのだから、一朝一夕で、香穂子が件の師の意図通りの成績を残せるかと言えば、そうではないのだろう。
 でも思い返せば、そもそもの香穂子の目標は、あくまで月森の音で。
 それならば、今、彼自身に教えてもらえている現状は、既に香穂子が目的としていたことの、半分以上、希望を叶えてもらっている気がするのだ。
(きっと、私の面倒なんて見ている暇はないはずなのに)
 それでも香穂子を見捨てられずに、指導を引き受けてくれた月森のおかげで。
 香穂子はこうして、理想の音を目指してヴァイオリンを学んでいくことができる。
「……ありがとう」
 こんな、陳腐な言葉と笑顔一つで。
 心に満ちている感謝の思いは、彼には正しくは伝わらないだろうけれど。


 香穂子の、曇りのない笑顔は。
 月森への感謝の心を、雄弁に語っていて。
 偽りのない彼女の想いを、月森に教えてくれる。
「……俺は」
 打算も、駆引きもなく。
 月森の背景にあるものに、頓着することもなく。
 躊躇いなく与えられる感謝の想いは、何故だか逆に、月森の心を暖めてくれる。
「俺は、本当に。そんなに大したことをしているわけじゃない……」
 放っておくことが、出来なかった。
 迷って、立ち尽くして。
 そうして……こんな自分の音色を『憧れ』だと言ってくれた彼女を。
 そんな彼女の為に、何か自分に出来ることがあるのなら、と。
 不器用な手を差し伸べてみた。『出来る』保証なんて、ありはしないのに。
「君にお礼を言われるようなことは、何もしていない」
「……それは」
 困惑したまま、否定の言葉を繰り返す月森を、香穂子はまるで、母親のように慈愛に満ちた眼差で見つめ、月森の言葉を遮る。
「それは、私の勝手な感謝だから、月森くんは、気にしなくていいんだよ。月森くんが、どれだけ私に有益なことをしてくれたのか……月森くんにとっては些細なことだったとしても。私にとって凄く意味のあることだったから、私が勝手に感謝したいの」
 ね、と小さく首を傾げて。
 香穂子は、ただ、無邪気に笑う。

 そんなふうに。
 月森に対して、何を気負うでもなく。
 彼女が惜しみなく与えてくれるその笑顔は、じんわりと、月森の頑な心を暖めて。

 月森にとって、その彼女の感謝が。
 妙に心地よく、少しだけ、くすぐったく。
 そして、ひどく嬉しいものだということを。

 そっと、月森自身の心に教えてくれるのだ。




あとがきという名の言い訳 【執筆日:09.11.30】

連作なので、あとがきは最後の作品で!

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