いつの間にか、受け入れてしまっているのは何故だろう。
狭い練習室に満ちる、拙い音色。窓の桟に背中を預け、両腕を組んで目を閉じ、月森はその音色を聴いている。
どこがどう、とは言い表せない。
技術的なものを考えると、お世辞にも上手いとは言えない。拙さと粗さの目立つ、発展途上の音色。
だが、その未熟な音色は、聴くことに苦痛を感じない。
どこか、優しく暖かく。隣にそっと寄り添うような、親和感を抱かせる音色だ。
(……だから、気になるのだろうか)
比べ物になるものではないけれど、その親しみやすさ……暖かさは、どこか月森が目指し続ける音色に似ている。穏やかで、優しくて。心地いいと評される、母のピアノの音色。
それは、どんなに憧れても……憧れても。
月森には決して掴めなかった。
人の心の琴線に触れる音色。
物心付いた頃から、ヴァイオリンも音楽も、ひどく身近な場所に在ったから、自分自身がそれに手を伸ばすのは、ある意味必然だったのかもしれない。
両親や祖父母が、自分がヴァイオリンを上手に弾くことが出来ると、喜んでくれることが嬉しくて、何度も何度もヴァイオリンを弾く。……最初のきっかけは、やっぱりそんな、他愛のないことだったように思う。
そうして、ヴァイオリンや音楽に深く関わり出すと、徐々に自分の周りの家族の偉大さが分かるようになる。どんなにヴァイオリンが上達しても、その裏側にあるのは、いつだって家族の存在で。
(さすがに、あのお二人を御両親に持つ、息子さんだ)
……家族が、素晴らしい演奏家であることは分かる。
だが、ヴァイオリンが……音楽が好きなのは、月森自身でしかなくて。
(いつか)
(いつか、お父さんやお母さん以上に、ヴァイオリンが上手く弾けるようになれたなら)
『あの』家族の元で育って来たから、ヴァイオリンが上手いのではなくて。
自分自身の熱意で、ヴァイオリンを極めて来た。……そのことを、誰の目にも認めてもらえるのだろうか。
その希望を胸に、必死の思いで、地道な練習を重ねて来たのに。
(お前のヴァイオリンは、つまらないんだよ)
(音楽をもっと、自由に楽しまなければ)
(技術だけじゃ駄目なんだよ)
楽しむ、とは?
何の為にヴァイオリンを弾くのか。理由を問われても、今更簡単な答えは出ない。
(ただ、ヴァイオリンしかないんだ)
ヴァイオリンだけが、自分に与えられた自分を表現する術だから、全てをそこに注ぎ込んで来た。
あまりにも多くのものを捧げ過ぎたから。
簡単に音楽を『楽しむ』方法が、もう自分には分からない。
(ヴァイオリンを弾くことが、楽しいよ)
迷いなく、曇りなく。
簡単にそう言える存在。
(月森くんから見れば、いい加減に見えるのかもしれない。だけど本当に、ヴァイオリンを弾くことが楽しくて……。その気持ちだけは、分かって欲しかったの)
ヴァイオリンが好きだと。
躊躇いなく、言える存在。
きっと、自分はそんな彼女が。
本当はとても、羨ましかったんだ。
技術は未熟でも。紡ぐ音色は拙くても。
ヴァイオリンに抱く思いはとても純粋だから。
彼女は『あの音色』を生み出すことができる。
日野香穂子という演奏者は。
月森が今まで抱いていた『演奏者』の枠からはひどく逸脱していて。
彼女と話をすると、自分が当たり前だと思い込んでいた常識を、ぐらぐらと簡単に揺らされた。
誰の為でもない、ただ自分の為だけに。
高い場所だけを目指し続けていた月森の音色。
ただ、蹴落として引きずり下ろすことだけが願われていると思っていた月森の無機質な音色を。
彼女だけが。
(月森くんの演奏に、意味がないなんて、言わないでよ)
(月森くんの音が、私の憧れで。……目標なんだよ)
中学を卒業すると同時に、ヨーロッパへの留学を考えていた月森を止めたのは、月森の父親だった。
世界の音楽に触れて、更に高みを目指したいと願う月森を、少しだけ困ったような表情で諭した。
「まだ日本で学べることは、たくさんあるだろう?」
「……ですが」
一向に、理想の音には届かない。
ただひたすらに、研ぎ澄まされていくだけの音色。
現状でヴァイオリンを学んでいくことに、月森は限界を感じ始めていた。
そのために必要とした新天地が、ヨーロッパだった。
「……もう少しはっきりとしたことを言えば、今のお前では、留学をしたところで、何ら得るものはないよ」
珍しく、はっきりと告げた父の言葉に、月森は微かに目を見開いた。
「ヴァイオリニストとして生きていくつもりならば、もう少し待ちなさい。そして、お前は自分に足りないもの、必要なものを見極めるべきだ。それが出来るまで、留学は認めない。……いいね」
「……はい」
優しくても、有無を言わせない父の口調に、月森はただ頷くしかなかった。
多くのものを望んだわけじゃない。
望んだのはたった一つ。
偉大な家族のように、誰かの心を癒す、優しく魅力的な音色。
それをヴァイオリンで奏でること。
……たった、それだけのことなのに。
技術を磨いて。
練習と努力を積み重ねて。
誰もが『素晴らしい』と評価してくれる自分の音色。
それでも、本当に辿り着きたい場所に届かない音色に。
いつしか自分は、絶望していたのかもしれない。
(それなのに、君の音色が)
(拙いのに、それでも時々見隠れする微かな音が)
月森が密かに心に抱いていた、理想の『あの』音色だから。
技術は足りなくて。
音楽の知識も経験も乏しい。それなのに。
彼女は、あの音色をどこかに持っているから。
彼女と関わるその時だけ。
月森が幼い頃から大事に大事に作り上げて来たものが。
揺れて、惑わされて。
共鳴して。
「見失っていたものを、見つけたようだね」
父が、月森にそう告げたのは、学内コンクールの最終セレクションの後。
彼女が弾いた『アヴェ・マリア』。
ぎこちなくて、決して上手いとは言えない。
それでも確かに、心のどこかを響かせた彼女の音色を想いながら、同じ旋律を奏でた時。
「……俺にはよく分かりませんが……」
見失っていたものも、見つけたものも、何なのか月森自身には分からなかった。
困惑する月森に、どこか悪戯っぽく笑う父は、軽く首を傾げてみせた。
「だが、お前は今、自分の心の中と向き合って、音を奏でている。……違うかい?」
「……」
微かに目を見開いた月森は、小さく息を呑む。
そんな月森に、父は待ち望んでいた言葉をくれた。
「ヨーロッパにいる知り合いの講師が、お前の準備が整い次第、留学を受け入れると言っている。……そろそろ、本場の音楽に触れてみるかい?」
(あんなに、願っていたはずなのに……)
思わず、月森は苦笑する。
自分のヴァイオリンが目指す場所を見失い、ただがむしゃらに上だけを目指して足掻いていたあの頃。
闇の中を手探りで進むような不安感を払拭したくて、求め続けた新天地。
今、願い続けたあの場所に、ようやく踏み出すことを許されたのに。
ゆっくりと目を開く。
視界の中心には、まだ未熟な……それでも、月森の憧れを内包している音を持つ存在が、優しい優しい音楽を奏でている。
……驚くほど、この音の海の中は心地がいい。
いつまでも、ここにいたいと思うほどに。
(思い通りにはならないな)
どんなにそこに行きたいと願っても、引き止められて足留めされて。
いざ、そこに行くことを許されたなら。
今度はこの場から。
……離れたくないだなんて。
「……な、何か、おかしいところが、ある?」
不意に、ヴァイオリンの音色が止まる。
突然夢から現実に引き戻されたようで、月森が一つ瞬きをすると、目の前の香穂子が恐る恐る振り返り、そんな的外れなことを尋ねる。
奥に何かを含んだところがない、素直に、躊躇いなく。……予想外のところから突然現れる。
そんなふうに、容易く月森の心を揺らす。
……意外で、そして心地のいい存在。
「……特に、悪いところがあるわけじゃない。強いて言えば、俺に見られているくらいで簡単に演奏を中断する、その集中力のなさだろうか」
「うわっ、痛いとこ突くなあ!」
顔をしかめた香穂子が、ハイ、真面目にやります、と言いおいて。
また、最初からヴァイオリンを奏で始める。
それは、とても心地いい、月森の理想の音色のループ。
音の海に身を浸して、月森はもう一度、ゆっくりと目を閉じた。
人生は、順風満帆には行かなくて。
迷ってつまずいて。その繰り返しだと知っていたけれど。
その中には、こんなふうに。
これ以上にないくらい幸せで。
これ以上にないくらい、辛い選択があるのだ。
(君に出逢えたことは、俺にとって、決して不幸なことではなかったはずなのに)
こんなに心地いい存在に出逢えたことは。
確かに、僥倖であったはずなのに。
あんなに願った新天地に行くためには。
せっかく出逢えた、この心優しい存在を。
全てを置き去りにしていかなければならないなんて。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:09.12.1】
連作なので、あとがきは最後の作品で!


