全部分かっていたことだったからなのかな、と。
今ならば思う。
放課後の練習室。
予約ノートに自分の名前を記すには、普通科校舎の香穂子はタイムロスがあり過ぎるからと、月森がヴァイオリンの指導を引き受けてくれて以来、月森の名前で予約された練習室に、香穂子は当たり前のように足を踏み入れている。
『先生との打合せが終わったらすぐに行く。先に練習を始めていてくれ』
余計な装飾がない、淡々とした月森からのメール。
詳細は記されていないけれど、先生との打合せというのは、きっと留学に関する何かなんだろうなと香穂子は思う。意識しているのかしていないのか、月森はあまり香穂子に自分の留学の気配を悟らせないように振る舞っているけれど、一旦留学する事実を聞かされてしまうと、月森の行動の端々に、どうしてもその匂いを嗅ぎ取ってしまう。
(多分、私の指導そのものが、最後の置き土産みたいなものなんだ)
今になれば。
幾ら王崎からの指導を断られた場に居合わせたからと言って、月森が香穂子の指導を引き受ける必要性は全くと言っていいほどなかった。これまでの彼の言動、思考を振り返って考えてみても、例え香穂子から申し入れてみたとしたって『他人に関わっている暇はない』とバッサリ切り捨てられるのがオチだっただろう。
だから、月森が香穂子の指導を申し出てくれた、その事実こそが。
旅立つ彼が、香穂子のために見せてくれた、最初で最後の気遣いのように思えるのだ。
(でも、良く考えてみれば……)
冷たい言動に誤魔化されてしまうけれど、改めて春に月森と出逢ってから、これまで過ごして来た日々を思い返してみると、決して月森は無慈悲な人ではなかったと思う。
何だかんだと言いながら、押されると言い包められるような弱い部分があったし、音楽に対して誠実で真直ぐであるが故に、どうしても曲げられない意志があり、それによって誤解を受ける不器用さもあった。
自分が悪いと分かれば素直に謝るような一面もあったし、そういうことを思い返せば、月森蓮という人間は、最初に出逢った時の悪印象から、随分と香穂子の中で株を上げて来たことが分かる。
(……あれ?)
ちくんと、胸の奥に小さな痛み。
ふとトゲの刺さったような鈍い痛みに、香穂子は首を傾げた。
それは、月森のヴァイオリンの音色を耳にするたびに。
香穂子の心に刺さる、小さなトゲ。
(……ああ、でも。だからこそ)
最初の印象のように、冷たいだけの人ではなかった。
きっとその事実は、ヴァイオリンの音色にこそ現れていた。
だからこそ。
自分はこんなふうに、月森の音色に惹かれてやまないのだ。
「……あいた!」
思わず香穂子は小さく叫ぶ。
ちくんとした鈍く小さな痛み。
月森のヴァイオリンの事を。
……月森の事を。
考えるたびに胸に刺さる、小さな小さなトゲ。
「遅くなってしまってすまない。……どうかしたのか?」
不意にドアが開いて、焦ったような月森の詫びる声が狭い練習室に響く。
視線を巡らせて、部屋の隅で壁に寄りかかるようにして、胸元を押さえている香穂子に、月森が気遣わしげな声で尋ね、眉をひそめた。
「え、あ、ううん! 何でもない!」
慌てて明るい声で首を横に振って、香穂子は弾く準備の整ったヴァイオリンを握り締め、月森の元へと歩み寄る。しばらくの間、困ったような表情で香穂子を見つめていた月森が、仕方なさそうに小さな溜息をつき、香穂子が開いた楽譜に視線を落として、今日はここから始めてみようと、気持ちを切り替えるように、指導者の顔付きになる。
月森くんのヴァイオリンを思うと。
……月森くんのことを思うと。
何だか、胸が苦しくなるよ。
真面目な表情で楽譜に目を落とし、細かい指示を香穂子に与える月森の横顔を見つめ。
香穂子は、彼にはおそらく告げることのないであろう心の内を、その端正な横顔に語りかける。
でも、月森くんが留学して、目の前からいなくなっちゃうことを考えると、とても苦しいって思うのに。
月森くんが、練習室のドアを開けて。
「遅くなってすまない」って、申し訳なさそうに言ってくれる時。
本当に、嬉しくて。
……ただ、嬉しくて。
突然、泣いてしまいそうになるんだよ。
「日野……聞いているのか?」
ぼんやりと自分を見つめている香穂子を、不快そうに眉を寄せながら月森が斜めに見上げる。
「あ、うん。ゴメンね。大丈夫、聞いてるよ」
慌てて誤魔化して、笑いながら。
そんな彼の怒った表情も、大事に大事に胸の奥にしまい込んでみる。
それは、胸の奥で酷く香穂子の心を締め付けて。
小さな小さなトゲになって、鈍い痛みで香穂子の心を満たすのだけれど。
それと同時に、言葉では説明することのできない甘い甘い嬉しさで。
香穂子の心を優しく暖かい、淡い色で。
綺麗に染め上げてしまうから。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:09.12.5】
連作なので、あとがきは最後の作品で!


