予約ノートで月森の名前を確認して、その名前の隣にある部屋番号を探す。扉の前で立ち止まって、慌てて来たことが荒い呼吸からバレないよう、大きく深呼吸をした。
ドアのノブに手をかけてそっと開いてみると、既に練習の準備が整っている月森が、指馴らしに弾いている音楽が香穂子を迎えてくれる。
……『アヴェ・マリア』。
あの日、香穂子を一瞬で魅了した、月森の綺麗なヴァイオリンの音色。
優しい穏やかな音色は、きっと普段の自分を知るものから見れば、柄じゃないとか、イメージじゃ無いと思われるものなのだろう。技術が必要な演奏の方が教師からの評価も高くなるし、自分の奏でる音質にも似合ったものだろうと思うから、人前で弾く演奏は、自然とそういう難易度の高い曲を選んで来た。だが、やはり自分の心を落ち着かせてくれるのは、こんなふうに優しく穏やかな音色なのだろうと思う。
それは、おそらく両親が好んで弾いて来た楽曲だから。
子守歌代わりに聞かされて来た、ゆったりとした穏やかな曲調。
自分の本質を発揮出来るのは、技巧を必要とするものだと知っていながらも、時折月森は、こんな穏やかな音楽に還りたくなる。
……自分の為だけに奏でる音色は、決して不特定多数の他人に、聴かせるべきものじゃないと分かっているけれど。
一通り弾き終えて、溜息と共にヴァイオリンと弓とを定位置から外すと、ぱちぱちと小さな拍手が響いた。驚いて振り返ると、いつの間に来ていたのか、香穂子が戸口の付近に立っていた。
「えへへ、贅沢しちゃった」
拍手を終えた香穂子が、嬉しそうに笑って言った。贅沢?と月森が怪訝に眉を寄せる。
「うん。だって、月森くんのヴァイオリン、一人で聴いちゃった。本当は皆に聴いてもらうべき音色なのに、贅沢だよねえ」
でも、それが教えてもらってる立場の特権かな?と香穂子が首を傾げる。
彼女のストレートな物言いには、時々どう返していいのか分からなくなる。
「……大袈裟だ」
自分がこれまで練習と努力を積み重ねて掴んだものを、月森は否定する気はない。
自分の音が嫌いなわけではないが、自分が理想とする音色には程遠い。
そういう意味で、手放しで賞賛されてしまうのは、逆に居心地が悪いのだ。
「まだ、人の心を動かすにはいろんなものが足りない音だ。こんな音を聴いて、贅沢だと言われてしまうのは、不本意だ」
驚いたように目を丸くする香穂子が、唇を引き結ぶ。
月森ははっと我に返った。
……これじゃ、ただの八つ当たりだ。
「……ごめんね。気を悪くした?」
声のトーンを落とした香穂子が、おそるおそる尋ねてくる。
決して彼女が悪いわけではないのに、気に病ませてしまうことを、月森は申し訳なく思う。……のに、それを、どう彼女に伝えていいかが分からない。
「あの、でもね。本当に、贅沢だと思うんだよ。だってね、今のって……月森くんの、素の音でしょう?」
月森が戸惑っているうちに、香穂子の方が気遣うように会話を繋げてくる。上手く言えないけど、と前置きをした。
「コンクールとか、人前の演奏では聴けない、……月森くんの、優しい一面が表れた音って言うのかな。……あ、別に普段が優しくないとかは言ってないんだよ!」
慌てて香穂子は補足したが、何だか喋れば喋るほど、墓穴を掘っているような気がする。
「……素の、音?」
ぽかんとした様子の月森が、遅れて先程の香穂子の言葉を繰り返す。
「あ、うん」と、『普段は優しくない』発言を気に止めていない月森に安堵しながら、香穂子は頷いた。
「月森くんが、それこそ『アヴェ・マリア』とか、最終セレクションの時の『ロマンス第2番』とか弾いているの聴くとね。意外だな-って思ったりもするんだけど、聴いているうちに馴染んでくると言うか」
優しい、ひたすらに優しい、穏やかな音楽。
月森ほどの実力があれば、香穂子では到底弾きこなすことの出来ない、難易度の高い曲を、容易く弾けるのだろうと思うし、そういう技巧を必要とする曲をさらりと弾いていくのが、月森というヴァイオリニストに周囲が抱く印象なのかもしれない。
だが香穂子が最初に出逢った月森の音色は、穏やかで優しい、美しい旋律だった。
その音色に一瞬で魅了され、ヴァイオリンという楽器に興味を持った。あの時、月森の優しい音色に出逢わなければ、香穂子はここまで本気でヴァイオリンに向き合うことはなかったかもしれない。
……そして、月森自身にも。
コンクールの序盤で弾いていた難易度の高い曲。最初に出逢った月森の音色が、ああいう技巧を必要とする楽曲だったとしたら、おそらく香穂子が月森に抱く印象は、覆らなかった気がする。
付き合いにくそう、関わり合いたくないと思うばかりで、その分かりにくい不器用な優しさを知ることはなかっただろう。
「……本当の月森くんは、きっとこんなふうに、優しく穏やかな人なんだろうなって思う。……なーんて、私なんかにこんな分かったふうに言われたくないだろうけど」
そうして、苦笑しながら顔を上げた香穂子の視線の先にあるものに。
香穂子は、思わず。
小さく、息を呑んだ。
夕暮れの、ほんのり茜色に染まった空。
窓を背にする月森の頬が、その色に溶けて輪郭を不鮮明にする。
そんな暖かな色に満たされる月森が。
本当に、嬉しそうに。
幸せそうに、香穂子に笑いかけた。
今まで、ほんの少し。
奇跡みたいに、微笑む姿なら目にしたことがある。
きっとそれだって、とても貴重な笑顔で。
あまり目にしたことがある人はいないだろうと、想像が付く。
でも、この笑顔は。
正真正銘、香穂子だけに月森が与えてくれたものだ。
だって、香穂子は知らなかった。
彼が、こんなふうに。
優しく穏やかに、心から笑えることを。
「……ありがとう」
月森が告げたお礼の意味は。
香穂子には分からなかったけれど。
「……日野?」
月森が、怪訝に眉根を寄せる。
気遣うように、香穂子の顔をある程度の距離を置いた場所から覗き込む。
「どうした? 大丈夫か?」
「う、うん。……平気」
香穂子は頷く。
……不意に胸に沸き上がって来た感情に、泣きそうになるのを月森に悟られないように。
何度も何度も、呼吸を呑み込んだ。
大丈夫、なんかじゃない。
鼓動はうるさいし、指先が震える。気を抜いたら、大声で泣いてしまう。
頬が赤いのは、きっと窓から射し込む夕焼けの色だと、勘違いしてもらえるだろうとは思うけれど。
(穢れて、しまった)
香穂子は月森に嘘を付いた。
大丈夫なんかじゃないのに。
平気なんかじゃないのに。
あんなに純粋に、真摯にヴァイオリンと向き合う人に、小さな小さな嘘を付いた。
(ヴァイオリンだけじゃなかった)
月森のあの笑顔を見た瞬間。
香穂子の心に沸き上がったのは、喜びと。
そして、はっきりとした愛おしさ。
(……私。月森くんが、好きだ)
彼の奏でるヴァイオリンの音色だけじゃなく。
彼という人間、そのものが。
真直ぐに、純粋に。
彼の音色を目指して、少しでも近付くために、ヴァイオリンを弾き続けているはずだったのに。
心の奥にこっそりと息づいていたのは。
邪で、不純な。
醜い、醜い下心。
(……隠さなきゃ)
もうすぐ旅立つ彼に。
この想いは、告げてみたところで重荷になるだけだと分かっている。
……そんな不純な想いを持って月森の指導を受けていると知れてしまえば、香穂子のヴァイオリンが好きだという思いすら、彼に疑われてしまうかもしれない。
(そんなのは、嫌だ)
……ヴァイオリンだけを思う、純粋な心根だけで、もう月森の指導を受けることは出来ないのだと気付いてしまっても。
それでも、せめて彼が旅立つまでの残された時間。
少しでも、傍にいたい。
彼の音色を、聴いていたい。
そんなふうに考えてしまう自分自身が。
何だか酷く、穢れてしまったように、香穂子には思えた。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:09.12.6】
連作なので、あとがきは最後の作品で!


