この目に映る全てのもの

My confidence mucic 第8話

 放課後、予約した練習室に辿り着くと、開きっ放しのドアの前の窓枠に背を預け、苦い顔をした教師の金澤が腕組みをして立っていた。思わず立ち止まると、人の気配に気付いたのか、金澤が顔を上げる。
「ああ、月森。今日、ここの部屋を予約してたのはお前さんか……」
「……どうかしたんですか?」
 がしがし、と片手を乱暴に髪の中に突っ込んで、掻き回す金澤が大仰な溜息を付く。実はなあ、と吐いた呼吸の勢いで切り出した。
「昼休みにここを使って合奏してた奴らがな、こう……練習しているうちに白熱してだなあ」
 あのザマだ、と顎で金澤は部屋の中を示す。開いた扉の陰から中を覗き込むと、壁の月森の肩くらいの高さに拳大の穴が空いていて、業者らしい作業着姿の人間が数名、工具を片手に修繕作業をしているのが見えた。
「お互い意見を譲らないうちに取っ組み合いの喧嘩になっちまって、ついつい勢い余って壁をぶち破ったんだとさ。そんな訳で、悪いが今日はこの部屋は使えない。更に申し訳ないことを言えば、予約は一杯で他に空いている部屋もない」
「……そうですか」
 先回りして、必要とする答えを全部教えられてしまっては、月森としてはそれ以上言える言葉がない。
「他の場所を探します。御親切に、ありがとうございました」
 軽く会釈をして、月森は早々にその場を後にする。背後で「全く、余計な仕事を増やしやがって」とぶつぶつと繰り返される金澤のぼやきは、気にしないようにした。
(他の場所……)
 練習室の並ぶ廊下を離れ、一旦外へ出る。
 今日はこの秋一番の冷え込みという朝の天気予報に嘘偽りなく、午後になっても少しも気温が上がらない上に、風が強い。
 講堂や音楽室は文化祭を控えたオーケストラ部や、他の音楽関係の部活が使用しているから思うように集中して練習が出来ないし、屋上や森の広場で練習をするには、何とも苛酷な自然環境だ。
 月森はしばしの間空を睨み、思い悩む。
 やがて、荷物の中から携帯を取り出し、数少ない登録済の電話帳のリストの中から、目当ての人物の名前を探り当てた。

『練習室が使用不可の為、正門にて』

 それだけの端的な一文を、送信した。


「ご、ごめんね。待った?」
 ぱたぱたと軽い足音を響かせて、香穂子が駆け寄ってくる。「走らなくていい」と微かに眉をひそめて月森が呟くと、「そうでした」と恐縮して、動かす足の速度を緩めた。
「えっと……練習室が使えないんだっけ。今日はここで練習?」
 不安げに言いながら、きょろきょろと香穂子が周囲の人間を気にする素振りを見せる。そう言えばまだまだ未熟な音だから、不特定多数の人に聴かれるのは抵抗があると言っていたことがあったっけ。
「いや……実は、練習ではなく別の事を、以前からしておかなければならないと思っていたんだが。君の都合が付くなら、ちょうどいいかと思って。この後、時間は取れるか?」
「うん。練習するつもりだったから、まだ帰らなくても大丈夫だけど」
 何?と香穂子が小さく首を傾げる。少しだけ困ったように片手で口元を押さえ、月森もまた周囲を伺う。疚しいことがあるわけではないが、あまり体裁のいい話ではない。特に、報道部という肩書きが付く連中には、どう歪曲して解釈されるか分からないので聞かれたくない。
「その……俺の家に来てもらえないだろうか?」
「ええ!」
 反射的に香穂子が大声を上げ、周囲の視線が一斉に香穂子に向かった。「日野!」と焦る月森の様子を見て、慌てて香穂子が自分の口元を片手でぱくんと押さえた。
「……ご、ごめんね。意外なことを言われて、ちょっとびっくりしちゃった……」
「もちろん、変な意味じゃなくて。以前から、君に練習用の楽譜や、俺が以前使っていたテキストや……そういうものを譲ろうかと思っていたんだ。楽器を弾くことだけじゃなく、音楽のいろんな知識もヴァイオリンを続けるのに決して無駄になるものじゃない。例え今は興味がないにしても、いずれは必要になるものだと思う。だが、学校に持ってくると、大荷物になってしまうだろう」
「あ、うん。なるほど」
 月森の説明に、納得して香穂子はこくこくと頷く。
「もちろん、私には有難いことだけど……でも、月森くんには、もう必要ないの?」
 何気なく思い付いたことを呟いてみただけだった。
 だが、微かに月森が目を見開き、そして……口籠る。
「……その。俺は、もういいんだ。あと数カ月もすれば、使わなくなるものだから」
「……あ」
 月森は、はっきりと理由を告げはしなかったけれど。
 あと数カ月。その漠然とした期間で、香穂子にも理由が分かった。
(留学すれば、いらなくなるものだったんだ)
 地雷だった、と香穂子は思わず俯いてしまった。


 月森の申し出を有難く受けることにして、二人で月森邸までの数十分ほどの道程を、肩を並べて歩いた。
 ヴァイオリンから離れてしまうと、途端に何を話していいのか分からなくなる。今日の授業の事、課題の事、テレビの事。……友達相手ならば簡単に口に出せる意味のない話題を、月森相手には切り出せなかった。
 月森も、無理に会話をすることがない。香穂子が話し掛ければ軽く相槌は打ってくれるが、他愛のない世間話というのは彼から切り出すことは期待出来そうにない。
 ……そういう人なのだと分かっている。それが、香穂子が好きになった月森という人間だということも。だから、この沈黙に満たされた道程を苦痛だとは思わなかったけど、変に黙り込むことが不自然に思われているのではないか、そちらの方が香穂子には気になった。
(だって、何を話していいのか分からない)
 自分が彼を好きだと気付いていなければ。
 幾らでも時間を消費するための下らない話が出来た。
 自分が彼に思うところがないのなら、彼に自分をどう思われようが構わないから。
 でも、好きだと気付いた今は。
 少しでも、印象良く思われたい。
 それは、打算に満ちて、下心満載で。決して『綺麗』な恋心などではない。
 それでも、『嫌い』だとは思われたくないから。
 最低限、彼を不快にしないようにと心掛ける。
(……私、大丈夫なのかな?)
 この恋は、酷く困難だって分かっている。
 たとえ、万が一、億が一、叶うことがあるにしたって、月森の留学という未来が待ち構えている以上、それ以上育つことがない想いだ。
 だから、月森が香穂子の目の前からいなくなってしまうまで、絶対に気付かれないようにしよう。月森がいなくなると同時に、綺麗に消し去って、なかったことにしてしまおうと決心した。
 でも、今自分自身が彼に取っている態度は、どう考えても不自然極まりないと、我ながら思う。月森がそこまで勘繰る人だとは思わないが、今まで無駄に饒舌で、何度も「余計なことを喋ってる暇があったら、練習をしろ」と嗜められて来た香穂子が、急に無口になるのは、おかしいと思われているはず。
(それとも、そんなことすら全く気にならない?)
 そこまで関心を持たれないのも、それはそれで寂しいなあと、香穂子は足元を見つめて歩きながら、深々と溜息を付く。恋愛経験が豊富なわけではないから、突然落ちたこの恋をどう扱ったらいいのか、香穂子自身が持て余している。
(……ツライなあ、片想い)
 しみじみと、考える。
 想うことが辛いわけではなくて、隠し事の苦手な自分が、決して吐き出せない想いを抱えなければならないことが、辛い。

「……日野!」
 不意に、耳元で月森の低い声が響く。我に返る前に、力強い腕が香穂子の脇の下に差し込まれ、力任せに後方へ引っ張られた。何するの!と香穂子が怒鳴る前に、香穂子の鼻先数十センチほどのところを、早いスピードで車が駆け抜けていった。
「信号は、赤なんだが」
「……ス、スミマセン」
 呆れたように溜息混じりに呟いた月森に、香穂子は思わず恐縮して詫びる。ちらりと視線だけで香穂子を見下ろした月森の表情が。
 ふと、苦笑するように和らいだ。
「……危なっかしいな、君は」
「返す言葉もないです」
 身を縮めて、香穂子が呟くと、ふと月森が掲げた掌が、空を泳ぐ。
 ぱちりと瞬きをして、香穂子がその動きを追う。

 緩く、伸ばされた長い指先が綺麗だ。
 柔らかな曲線を描きながら、空を泳ぎ切った月森の手は、香穂子の頭上でその動きを止める。
 何をしているのか分からないけれど、上目遣いで香穂子がその月森の指先の動きを伺っていると、一旦香穂子の頭上で止まった月森の手は、香穂子の目の前に降りてくる。
「……もう一つ言えば、随分呑気だ」
「あ」
 月森の指先には、色付いた銀杏の葉。
 俯いて歩いているうちに、香穂子の髪に引っ掛かっていたらしい。
「こういうものは、君の方が目に止めやすいように思うんだが」
 優しく笑んだ月森が、そっと香穂子に銀杏の葉を差し出す。
 反射的に受け取った香穂子の視界に、また降り落ちて来る鮮やかな黄金色の銀杏の葉。
 振り返ると、すぐ傍の公園で、見事に木々が紅葉しているのが見えた。
「……綺麗だね……」
 思わず、香穂子が感嘆して呟く。
 じいっと色付いた木々を見上げる香穂子を、微かに目を見張った月森が見下ろして。
 そして、彼女に倣うように、鮮やかな紅葉の木々に、視線を向けた。
「って、ごめん! ついつい子供みたいな感想を……」
 はっと我に返り、簡単に目の前のものに気を許す自分が呆れられてはいないかと、慌てて月森を振り仰ぐと、香穂子と同じように木々を見上げていた月森が、小さく笑って香穂子を見つめ返した。
「どうして、謝る?」
「……え?」
 落ち着いた声音が。
 とても優しく、香穂子の鼓膜を揺らす。
「君の言う通り……とても、綺麗な風景だ」


 毎年繰り返される、色付く木々。
 それは、明確な違いなどないはずの、確かな季節の移り変わりのための色。
 その鮮やかな色に彩られた風景を、これまで見たどんな風景よりも暖かく、優しく、綺麗なものだと思ったのは。

 この辛くて、痛くて。
 それでも手放すことの出来ない彼への恋心。
 それを抱えたままで、目にする景色。
 恋をした自分自身の心で捉える、この目に映る全てのものが。
 風景が。

 ただ、彼の姿がその片隅にあるだけで。
 優しく、甘く。
 暖かな色に彩られた景色に変わるからなのかもしれない。




あとがきという名の言い訳 【執筆日:09.12.7】

連作なので、あとがきは最後の作品で!

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