寂しいと啼く心

My confidence mucic 第9話

「……このくらいあれば、とりあえずの勉強には充分だと思う」
 元々準備をしておいてくれたらしいテキストの山の上に、更に追加で選りすぐった楽譜の束を乗せて、月森がそう言った。
 ぱらぱらと教材をめくってみたが、いろいろと専門用語も満載なテキストは、眺めてみても異国の物語を読むくらいに理解し難い。これは音楽専門の辞書も必要だなあと苦笑しながら、香穂子は今度は月森が選んでくれた楽譜の方を捲ってみる。
 ここ最近、楽譜をそれなりに読めるようになってきたおかげで、こちらは幾分取っ付きやすかった。多少古びているけれど丁寧に扱ってきたのであろう、綺麗に保管されていた楽譜には、様々な年代の頃の月森の注意書きが残っていた。
「俺なりのメモは加えてあるが、あまりそれに固執する必要はない。その通りに演奏してしまうと、それは所詮、俺の音でしかなくなってしまう」
「うん……でも、気を付けなきゃいけないところとか、勉強になるところはいっぱいあるよ。どっちみちこの注意点をそのまま守って弾くっていうのは私の力では難しいと思うから、参考にさせてもらうね」
 ぱたんと楽譜を閉じて、香穂子はきょろきょろと辺りを見渡す。他に追加するものがないかと再び本棚に視線をやった月森が、どうした?と声だけで尋ねた。
「あの……何か、これを入れるもの貸してもらっていいかな? さすがにこれだけの量を抱えて持って帰るのは無理かも……」
 香穂子の荷物は学生鞄とヴァイオリンケース。もう一つの荷物を抱え切れないほどの量はないのだが、何か提げるものでもなければ、持ち運びは不可能だ。
 ああ、と月森が香穂子を振り返った。
「入れるものは用意するが、君の家まで俺が持っていけば、荷物の量は別に問題ないだろう」
「ああ、なるほど。……って、ええ!?」
 あまりにあっさりと月森が言うので、否応なく納得させられるところだった。
「月森くんが持って……じゃなくて、私の家までって!?」
 驚愕する香穂子に、ふと月森が苦笑する。
「君が帰る頃には、もう外は暗い。俺が頼んでうちまで来てもらったのだし、きちんと送っていくのが礼儀だと思うが?」
「で、でも……」
 そもそもの元を辿れば、結局は香穂子のためのことなのだし、あまり月森に負担をかけるのもどうだろうと香穂子は思う。
(……迷惑をかけたくないんだけどな)
 迷惑でしょう?と言ってみても、今の月森には否定されてしまう気がする。
 香穂子が月森に与える面倒事が、月森にとって迷惑なことではないと言われるのなら。
 それはそれで、香穂子には非常に困ったことになる。
(誤解しちゃうよ)
 自分が、彼に優しくされているのだと。
 もう既に、月森が香穂子に施してくれていることの全てがただの教える人と教わる人との境界を超えているものだと思うからこそ、余計に。
 優しくされることを、嬉しく思ってしまうから。
 遠くはない未来には、手折って枯らさなければならない想いの芽が、否応なく育ってしまうから。


「……月森くんが、留学するのっていつだっけ?」
 更に楽譜を数冊増やしてもらい、それを選別するために引き出した余分な楽譜を、月森と肩を並べて本棚に戻しながら、香穂子がふと尋ねた。
 微かに目を見開いて香穂子を見下ろした月森が、複雑な表情でまた本棚に向き直る。
 高い位置にしまわなければならない楽譜を、香穂子の腕の中から取り上げ、腕を伸ばして、本の間の空きスペースに差し込んで行く。
「受入先の準備と、こちらでの書類などの手続きが済み次第だが……早ければ、年内」
「……年内、か」
 ぽつりと呟く。
 文化祭、ハロウィン、クリスマス、大晦日。
 大きなイベントが並んでいる季節だけれど、一体いくつ、月森との想い出が作れるイベントに出来るだろう。
「そっか……。送別会とか、音楽科の友達とかと、やらないの?」
「送別会?」
 まるで初めて聞く言葉みたいに、月森が全く念頭になかったというふうに鸚鵡返しに呟いた。やらないの?と、今度は香穂子が驚いたように、同じ言葉で尋ね返した。
「……予定はないな。企画する人間も、いないように思う」
「え、どうして?」
 また、香穂子の腕の中の楽譜を、月森の片手が奪う。
 そうしていくうちに、香穂子が抱えるものの重量が減っていく。
 本棚の上に真直ぐに視線を向ける月森が、唇の端で笑った。

「俺がどこに行こうと、気にするものはいないと思うから」

 友人がいないわけではない。
 ……故郷を離れることが、寂しくないわけではない。
 だが、きっと。
 月森がこの地を旅立つことを、哀しむものはいない。
 留学なんてすごいな、と。
 向こうでも頑張れと。
 感嘆して励ますその裏で、きっと彼らは口に出す言葉とは異なる思いを抱えている。
(それは、別にいいんだ)
 他人が、そういう生き物だと月森は知っている。
 それは責めるべきことでもなく、嘆くべきことでもなく。

(幼い頃から、皆俺を誉め讃えるその裏で)
(俺自身ではなく、俺を作り上げてきた俺ではないものを、ずっと誉め讃えていたんだ)

 それでいいと思う。
 賞賛されるべきは、未熟な自分ではなく、偉大な家族であるべきだから。
 だから、その『ついで』に賞賛される自分自身の価値と言うものを。
 月森は、信じない。


「……そんなのは、ヒドイ」
「……俺も、ここを離れることをそこまで気にしてはいない。同情なら、不要だが」
 俯いた香穂子が、小さく呟いた。軽く肩をすくめて月森が答えると、そうじゃないよ、と香穂子が月森を振り仰ぐ。
 月森は、微かに息を呑んだ。
 大きな瞳一杯に溜まった涙。
「……日野」
「月森くんが、留学することに寂しさを感じてないなら、それでいいの。だって、月森くんは自分が望んだ場所に行くんだもの。晴れやかな気持ちで、自信持って行ってきていいの。だけど、ここに残されていく人、皆が皆、寂しくないなんて、冗談でも思わないで!」
 月森から、留学のことを聞かされた時。
 香穂子は笑って、おめでとうと言った。
 おめでとう、よかったね。
 留学しても、頑張って。
 その気持ちに偽りはなく、月森の留学を今更引き止める気もない。
 でもだからと言って、彼がいなくなることを哀しく思わないわけじゃない。
 言葉にしないから、涙を見せないから。
 その寂しさが存在しないわけではないのだ。

 泣かないで、強気で言いたかった言葉だけれど、気を緩めると肺が引きつりそうになる。
 何度も何度も酸素を呑んで、香穂子は懸命に自分を落ち着ける。
 泣くな、……私が泣いていい場面じゃない。
 そう、自分に言い聞かせた。

「……不思議な気分だ」
 長い沈黙の後、ぽつりと月森が呟く。
 おそるおそる上目遣いに月森を見ると、月森が腕を伸ばし、綺麗に整えられた人指し指の縁が香穂子の涙が滲んだこめかみに触れ、水滴を拭う。
 何度か触れたことがある指先は、違わずにひんやりとしていた。
「俺の留学を、誰も寂しがることはない。だから俺も、ここを離れることを寂しいとは感じていなかった」
 だが、と。
 少しだけ困ったような表情で、月森は笑った。
「不思議だな。惜しまれると、何だか俺も、寂しいような気がするんだ」

 きっと、本当は。
 誰にも顧みられず、引き止められず。
 当たり前のように、新天地へ送り出されることは、寂しいことのはずだった。
 だが、月森は知らなかったから。
 惜しまれること。
 寂しがられること。
 そんなふうに自分に向けられる意識のベクトルの。
 優しさと、暖かさを。


 何よりも、哀しいことは。
 自分がいなくなることを、誰も寂しいとは思わないこと。
 その事実こそを『寂しい』とは思えない心。
 そんな月森という人間こそが、何よりも哀しかった。

「いつも、君からは何か大切な気持ちをもらっている気がする」
「……そんな大層なこと、私はしてないよ……」
 月森の知る狭い常識の範囲内では生きていなくて。
 月森が知らない世界で、月森がこれまで見落としてきた感情を大事に抱えて生きている彼女。
 そして、それを惜し気もなく、赤裸々に無防備にさらけ出せる彼女だから。
 ……自分は、きっと。
 こんなにも、彼女のことが。

(『……』なんだ)

「……?」
 怪訝に眉根を寄せ、月森は首を傾げる。
 この想いにつけるべき名前は、きっとこの世の中、その辺に転がっているはずなのに。
 脳裏に浮かばない。
 言葉にならない。出て来ない。

「月森くん?」
 突然黙り込んだ月森を、気遣うように香穂子が名を呼ぶ。
 一つ瞬きをして、我に返って。
 軽く頭を振って、月森はそんな不確かな気持ちに蝕まれた思考を無理矢理リセットした。

「何でも、ない。……せっかくだから、お茶でも飲んでいかないか? 母の知り合いからもらったお菓子があったと思うのだが、俺は食べないから」
「うーん、嬉しい申し出なんですが、私、大丈夫かなあ……?」
 顔をしかめる香穂子に、月森が首を傾げる。
「大丈夫かって……何がだ?」
「楽譜やテキスト借りて、お茶やお菓子御馳走されて。本当はそういうお礼、私が月森くんにしなきゃいけないような気がするのに……甘えてばっかりだよね?」
 バチが当たらないかな?と真面目に香穂子が悩む。
 そんな彼女が、何だか微笑ましくて。
 思わず緩んでしまう口元を、月森はこっそり片手で隠す。
「気に病むことはない。お茶とお菓子は、お詫びだから」
「お詫び?」
 何の?と今度は香穂子が首を傾げる。

 そんなふうに、彼女は月森の言葉をきちんと聞いて、まっすぐに返す。
 そういう『会話』の応酬は、楽しいことなんだと。
 月森は今日、初めて実感したような気がする。
 これまでは、一方的に与えられる羨望や嫉妬、綺麗な建て前の裏に隠された負の感情。
 まともに月森が受け止められないような、そんな冷たい感情ばかりを、目の前に並べられてきたような気がするから。

(この心の変化はきっと。彼女が真直ぐな思いで、俺がいなくなることを、寂しいと泣いてくれたから)
 どちらからか押し付ける、一方通行の感情ではなく。
 確かに互いに『通う』心を持って。
 月森に開いて見せてくれた、彼女が隠していた優しい感情だから。

(だから、少しだけ楽しみにしている)
 この言葉を投げて。
 どんなふうに返って来るのかを。

「君を泣かせてしまった、そのお詫びだ」

 彼女は照れてしまうのか。
 それとも、『馬鹿にした』と怒るのか。
 月森には予想もつかなかったけれど。
 これまでは、無意識に怖いと思っていた他人の予測出来ない感情が、今はとても、楽しみだと思う。

 それがどんな思いでも、きっと彼女は彼女なり方法で、月森からの感情や言葉をその細い両手で受け止めて。
 月森に、優しい感情を返してくれるのだろうから。




あとがきという名の言い訳 【執筆日:09.12.8】

連作なので、あとがきは最後の作品で!

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