幸せ示す道標

My confidence mucic 第10話

 香穂子に譲渡するテキストや教材の類いを一式、手提げ袋に収め、二人は月森の自室を出て、誰もいない月森邸のキッチンに降りてきた。
「そこに頂き物の洋菓子が入っているから、何か君の好きなものを選んでくれ」
 食器棚を開けながら、月森は大きな冷蔵庫を香穂子に指し示した。こんなに簡単に他人の家の冷蔵庫を開けてもいいのかな?と躊躇した香穂子だったが、月森が全く気にするふうもなく、香穂子に背を向けてティーカップやポットを取り出し、お茶の準備をしているので、逆にもたつく方が迷惑なのかもしれないと思い直して、えいや、と思い切って冷蔵庫を開いてみる。
 予想通りというか、拍子抜けというか。月森が頓着しないのも分かる。調味料や多少の保存の効く食材が入っているだけで、冷蔵庫のほとんどを占めているのは、シンプルでお洒落なパッケージに包まれた、某有名洋菓子店の紙箱……要するに、月森の言うところの『頂き物のお菓子』だけだったのだ。
「ねえ、冷蔵庫寂しくない?」
 洋菓子店の紙箱を取り出すと、貯蔵量の少ない冷蔵庫の中身は増々寂しいことになった。余計なことだと思うのだが、あまりの殺風景さに思わず香穂子が尋ねると、ちらりとこちらに視線を向けた月森が、ああ、と呟いて、苦笑した。
「家族がいる時にはもう少し何かしらが入っているんだが、ここ数日、俺しかいなかったから」
「……え」
 愕然と香穂子が目を見開く。
 空同然の冷蔵庫の中身を見た時よりも、この広い洋館に月森しかいないことを想像することの方が余程寂しい。
「一人? 何日も?」
「ああ。皆それぞれ仕事や付き合いで、多忙だから。余程、家でのんびり長い時間を過ごす、ということが珍しい人達だから、俺も一人で残されることには慣れているが」
「だって、ご飯は?」
「近くに、父の知り合いが経営するレストランがあるんだ。家族がいない時にはそこに用意を頼んである」
 淡々と答える月森に、香穂子は何も言えなくなった。
 誰の目にも偉大な家族。……だが、一度顔を合わせたことのある月森の両親は、そこまで敷き居が高いようには香穂子には思えなかった。どちらかといえば、穏やかで優しそうな……だからこそ、月森の両親へのよそよそしさは、確かに気になっていたのだが。
 こういうことなんだ、と、香穂子は変に納得をした。
 時折、煩わしいと思うことすらある、香穂子の家族。でも同じ屋根の下、毎日顔を合わせることが当たり前で。と、同時に、そんなふうに毎日顔を合わせるからこそ、家族として、気負わず気楽に振る舞える。
 もし、不在が多く、夕食すら一緒に取れない。そんなふうに家族との時間がすれ違っていたら。
 香穂子もまた月森のように、家族との距離が上手く測れなくなるのかもしれない。
「日野? ……好きなものを選んで、こちらの皿に置いてくれないか? 俺はお茶を入れるから」
「あ、うん!」
 月森の言葉に、はっと我に返った香穂子が慌てて返事をする。
 今、頭に浮かんだ思考は、ふるふると首を振ってどこかへ追いやった。
 香穂子には香穂子の、月森には月森の家族との関わり方がある。月森のそれが香穂子と違うからと言って、月森が不幸であるわけではない。
 香穂子の勝手な価値観に、月森の存在を押し込んでしまうのは、お門違いと言うものだ。
 そう考え、一人で納得して。
 香穂子は傍のテーブルの上で、取り出した紙箱を開いてみた。
「……」
 今までの悩みと入れ替わって、こちらは随分と本能的な葛藤を香穂子は抱く。
 ……香穂子の知る有名洋菓子店だけあって、中に収まっているものが全て、ものすごく美味しそうだったのだ。
「迷う……迷うなあ。……ねえ、月森くん。月森くんは、どれを食べる?」
「俺?……俺は食べないと言ったはずだが」
 この上なく不機嫌そうに顔をしかめて、湧いたお湯をポットに注いでいた月森が顔を上げる。
 それは駄目です、と香穂子が大声を上げた。
「私一人だと食べにくいよ。付き合いだと思って、何か一緒に食べて!」
「……この間は平気で一人で食べていたと思うが?」
 いつか、香穂子のヴァイオリンの弦を買いに行った時の事を思い出し、溜息混じりに月森が言う。わずかに頬を赤らめた香穂子が、むう、と頬を膨らませて拗ねる。
「この間は、自分で払うものだもん。だけど、今度は月森くんにもらうものだから。家主さんが食べないのに、私だけが食べるのは、気が引けるの!」
「その家主がいいと言っているのに……」
 変に意固地な香穂子に月森は微苦笑して、仕方なさそうに言った。
「できるだけ、甘くないものがいいんだが」
「えっと……シフォンケーキか、ベイクドチーズケーキくらいかな。甘くないとは言わないけど、クリームが乗ってないぶん、ちょっとマシだと思う」
「……じゃあ、それで」
 月森が言い、お茶を用意するため、再度香穂子に背を向ける。
 了解しました!と明るい声で香穂子が応え、カチャカチャと食器を準備する音が、背後で聴こえる。
 器用に箱から二人分のケーキを取り出して、皿に盛る気配。
 賑やかに雑音を響かせながら、香穂子は機嫌良く、小さな鼻歌を歌う。
 ゆったりとした、『アヴェ・マリア』。彼女らしい、優しい音楽。
 賑やかで、煩わしくて。
 静寂を好む月森の心情に、この喧噪は確かにそぐわないものなのかもしれないけれど。
 不思議なくらい彼女が奏でる雑音は、月森にとって心地が良かった。


「いただきます!」
 広いキッチンの、テーブルの片隅に、二人で向かい合って香穂子と月森は座る。
 丁寧に両手を合わせてそう宣告する香穂子が、まず月森が入れてくれた紅茶に、おそるおそる手を伸ばした。以前、砂糖がないと紅茶が飲めないと言った香穂子のことを覚えているのか、香穂子のティ-カップのすぐ傍に、シュガーポットが置かれていた。つい習慣でそちらに手を伸ばしそうになった香穂子は、いやいやいや、と思い直して、そのまま、何も入れていない紅茶のティーカップを抱え上げた。
 向かいの月森はすでに紅茶に手を付けて、なんだかものすごく不可解なものを見るみたいな表情で、香穂子が準備したベイクドチーズケーキの端をフォークで小さく切断している。
(……あ、イチゴの香り)
 鼻先で、ふわりと湯気が舞う。
 それが紅茶の香りだと気付いたのは、一口琥珀色の飲み物を口に含んでからだ。
「……美味しい」
 無意識のうちに、香穂子は呟いた。
「そうか、それはよかった」
 微笑む月森が、何でもないように告げ、そして、思い切ったようにチーズケーキの欠片を口へ運ぶ。……酷く、複雑そうな顔をした。
「……だ、ダメ?」
 勧めた手前、本気で口に合わなかったら悪いことをしたと思い、香穂子が恐る恐る尋ねると、数回咀嚼して呑み込んだ月森は、「いや……」と首を横に振った。
「好んで頻繁に口にする味ではないが……悪くはない」
「……本当に?」
 念を押すと、苦笑する月森が一つ頷いた。
「あまり甘くないので、俺でもそれなりに美味しく食べられる」
「そっか、よかったあ……!」
 にっこりと笑い、香穂子も早速自分用に取ったガトーショコラにフォークを刺す。一口分切り取って、うきうきと口の中に運ぶ。
「すっごい美味しい! 幸せ~」
 頬を押さえ、心底幸せそうに香穂子が笑うと、目の前で月森が吹き出した。
 香穂子はきょとんとして、顔を上げる。
 ……自分の仕草を笑われた、という事実より。
 月森が吹き出した、という事実にびっくりした。
「……すまない。君は本当に、幸せそうに甘いものを食べるんだな、と思って」
「……だって、美味しいんだもん」
 また少し拗ねて、フォークを加えたまま香穂子が上目遣いに月森を見る。
 すまない、ともう一度詫びて、頬杖を付く月森が、優しく香穂子を見つめた。


 ……この恋は、波乱万丈で。
 叶う保証は微塵もない。
 叶ったとしたって、その先の未来がない。
 ただ、切なさに胸を痛めるだけの哀しい恋。
(だけど、この恋には意味がないのかな?)
 もくもくとガトーショコラを口に運び、香穂子は考える。
(哀しくなるだけの、無駄なものなのかな?)

 そうじゃないんじゃないかと。
 今、香穂子は、この恋に気付いて初めて、思い始めている。

 ここに来てようやく。
 苦しい想い、つらい想いをしても、何故沢山の人が恋に落ちるのか。
 その理由が分かった気がする。

(だって、『これ』。……幸せだ)
 好きな人と向かい合って。
 好きな人が入れてくれた、美味しい紅茶を飲んで。
 甘い甘い、好きなお菓子を食べる。

 きっと、香穂子が月森を『好き』でなければ。
 この一時を、ここまで幸福だとは思えなかった。

 そんなふうに。
 落ちた恋を悲恋にするか、それともこれ以上にないくらいの幸せな恋にするかは。
 全て、その恋を抱くものの心次第。

 楽しいものだけでは形作られない恋を、幸せの方角へ導いていく道標は。
 きっと、恋をした香穂子自身が、握り締めているのかもしれない。




あとがきという名の言い訳 【執筆日:09.12.11】

連作なので、あとがきは最後の作品で!

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