すがれば傷つくだけ

My confidence mucic 第11話

 如何にもぎっしりと冊子が詰め込まれた感がある重そうな布製のバッグを手にした月森が、家の鍵を閉めて、香穂子が待つ玄関の低い階段の最下段まで降りてくる。自分の学生鞄とヴァイオリンケースのみを抱えている香穂子は、居心地悪げに身じろいだ。
「あの……やっぱりそれ、私が持つよ。私の為のものなんだから」
 思い切って香穂子が切り出すと、月森が意外そうに目を見張った後、自分の片手が持つ結構な量の荷物を見下ろした。
「これは、君には重過ぎるだろう。ヴァイオリンを持っているのだから、尚更」
「でも……。だったら、私がそっちを持つから、月森くんはヴァイオリンケースを持ってくれない? 月森くんに預けるんだったら、私も安心だし」
 ヴァイオリンを弾く者として、手を大事にしている人だと知っているから、余計に香穂子の罪悪感は強い。自分のための荷物で、月森に負担をかける。その事実そのものが香穂子には辛い。
「それこそ、自分のヴァイオリンなのだから、君が持っている方がいいだろう。……心配しなくても、これくらいでどうにかなるほど、俺も弱くはないから」
 彼にしては珍しい言い回しで香穂子にそう告げ、行こうか、と先に立って月森は歩き出す。
 もう言い様のない香穂子は、慌ててその後を追うしかなかった。

 時間としてはそこまで遅くはないけれど、さすがに秋が深まったこの頃は日没が早く、もう辺りは夜の闇に包まれている。等間隔に並ぶ街灯を頼りに、住宅街の中を無言のまましばらく二人で歩いていて、香穂子はようやく、それが行きとは違う風景の道であることに気が付いた。
「あの……月森くん?」
「どうした?」
「私はいったい、どこに連れて行かれてるのかなー?……なんて」
 見覚えのない道に困惑する香穂子が、こわごわと上目遣いで月森の顔を仰ぎ見る。一瞬呆気に取られた月森が、ああ、と小さく笑った。
「近道なんだ。君の家まで」
「え?」
「以前、君を家まで送ったことがあったろう。君の家から帰るのに、元の道に戻るつもりで来た道を逆行していたら、見知った場所があったのでそこから曲がってみたんだ。そうしたら、案外早く自分の家に付いた。……意外に近い場所に俺達の家はあったんだな」
 言いながら、月森が狭い十字路を曲がる。目の前に広がった小さな児童公園に、香穂子は声を上げた。
 それは、通学路から横道に反れてすぐの、香穂子の家から五分くらいのところにある、近所の見知った児童公園だった。
「え! ここに出るんだ? 私、前に月森くんの家に土浦くんや火原先輩と一緒に行った時、わざわざ学校の近くの交差点まで戻っちゃったのに!」
「俺も、この場所に気付かなかったらそうしただろうな。住宅が多くて路地が複雑に入り交じっているから、案外近距離だったのに、分かりづらかったんだ」
 言って、月森がふと言葉を切る。不安げな声のトーンで、月森が「……日野」と香穂子を呼んだ。
「ん? ……何?」
 香穂子が応じると、しばらく言いにくそうに口籠っていた月森は、やがて思い切ったように口を開いた。
「その……君が、俺の家までの、この近道を覚えたら。もし、休日にヴァイオリンの練習をしたい時には、いつでも俺の家に来ていい」
「……え」
 突然の申し出に、香穂子は思わず足を止めて、ぽかんと月森を見つめる。困ったような、不安げな表情で、月森が斜めに香穂子を振り返った。
「もちろん、君が良ければ、だが。迷惑ならば、断ってくれて構わない。……だが、確か以前、家には防音処理が施されていないし、学校の練習室を使うには申請が必要だから、休日の練習場所に困っているという話をしていたように記憶しているから」
「う、うん。そうだけど……」
 休日のヴァイオリンの練習は、日中の、しかもある程度限られた時間しか出来ないから、なかなか思い通りに練習が出来なくて困っている、という愚痴は、確かに月森にしたことがある。だが、その時月森は、「そうか」と淡々と答えただけで。……覚えているとは思わなかった。
「……月森くんが、練習を見てくれるの?」
「俺も自分の練習があるから、君に付きっきりと言うわけにはいかないが……それでも、君の練習を見ていて気になることがあれば、指摘する」
「迷惑、じゃ。……ない?」
「一度引き受けたことだ。やるからには徹底したい。……現状では、俺の都合で不十分な指導しか出来ていないように思われるから、休日の時間が使えるのなら、俺も有難い。……ただし、君がそこまでやる気があるのなら」
 香穂子は、こくこくと頷く。
 住宅が密集した香穂子の家では、幾ら昼間とは言えど一日中ヴァイオリンの音を響かせていれば近所迷惑になるし、かと言って、わざわざ学校や海近くの公園まで出かけるのは、結構難儀だ。
 月森が教えてくれた月森邸までの近道を通るのなら、学校へ行くよりも随分移動時間は短縮されるし、彼の家は防音がきちんと施されているそうだから、近所や人の目を気にする必要がない。
 何より、休日でも月森の指導を受けられる。……彼と一緒に、同じ時間を過ごせる。
 そんな誘惑に、香穂子が逆らえるはずもない。
「あ、あの。私がお家に行ってダメな時には、遠慮なく言ってもらっていいから! 月森くんの御家族に迷惑かけないようにするから……よろしくお願いします!」
 香穂子が深々と頭を下げる。月森が困惑する気配。
 慌てたような様子の月森の片手が、香穂子の肩に触れる。
「顔を上げてくれないか、日野。……君にそんなことをさせるために提案したのではないのだから」

 月森が自宅での練習を提案したのは、全くの思い付きだ。
 人付き合いが苦手な自分が、せっかく一人で心穏やかに過ごせる休日に、第三者を立入らせるなど、考えたこともなかった。
 だが、今日ほんのわずかな時間を共にした彼女の存在が。その時間が。
 自分が予想していた以上に、とても居心地のいいものだったから。
(……もっと、一緒に過ごす時間が欲しいと)
 ただ、そう思ってしまっただけなのだ。


「休日に、君が来れる時には、午前中のうちに連絡をくれるといい。はっきりと用事がある時には事前に知らせるから、それ以外はおそらくいつ来てくれても構わない」
「あ、うん。ありがとう!」
 自宅の玄関先に到着して、月森の言葉にお礼を香穂子は、月森からずっしりとした重さの、沢山の冊子を受け取った。月森が軽々と持っていたので失念していたが、受け取った途端、重力に従ってバッグは下に落ち、地面に届きそうになったので、やはり相当にこれは重かったのだ。
「あの……本当に、ごめんね。手、大丈夫だった?」
「……ああ」
 香穂子の声に応じて、何度か掌を握ったり開いたりした月森は、平気だ、と事も無げに呟いた。
「それから、日野」
「はい?」
 香穂子が小さく首を傾げる。
 そんな香穂子の視線の先で、街灯に照らされる月森の綺麗な顔が。
 ふわりと、甘く笑った。
「……君が今日の紅茶の香りを気に入ったのなら。是非、今後俺の家に来る時には、あの紅茶を飲んでくれないか」
「あ、イチゴの香りのやつ? うん、すっごく美味しかったし、飲ませてくれるのは嬉しいんだけど、……わざわざ、どうして?」
「他に、飲む人間がいないから」
「……え?」
 月森の言う意味が良く分からずに。
 きょとんとした香穂子が、目を丸くする。

「……あれは、君の為に選んだ葉だから」

 普段は、フレーバーティなど、月森は飲むことがない。
 だが、珍しく自分の持つ楽譜やテキストを整理している月森を訝しんだ母に追求され、楽譜などを譲りたい人がいるから、と告げた時、からかうように笑った母が助言をしてくれた。
(もし女の子を呼ぶのなら、きちんと女の子が好むようなお茶を出してあげなさいね)
 貴方がいつも選んでいるようなものは、味気ないでしょう?と言われ、良く分からないながらも、馴染みの店で相談をして、女性に人気の茶葉を選んだのだ。
「ヴァイオリンの練習のついでに、消費してくれると嬉しい。もし君が自分で入れられるようなら、譲っても構わないのだが」
「えっ……あ! う、ううん!」
 何となく展開に付いて行けず、頭が真っ白になった香穂子は、慌てて首を横に振った。
「私、美味しく入れられないと思うし。月森くんが入れてくれた紅茶が美味しかったから、また、月森くんちで御馳走になりたい……かも」
 言いながら、随分図々しい話だな、と思い香穂子が口をつぐんで月森の様子を伺っていると。
 先程の笑顔のまま佇む月森が、軽く頷いた。
「……じゃあ、俺はこれで」
「うん。……気を付けて。また、学校でね」
 軽く片手を挙げて背を向ける月森に、香穂子は彼には見えていないと知りながらその姿が見えなくなるまで、懸命に手を振り続ける。月森の足音が途絶え、闇にその身体が完全に呑み込まれて。
 香穂子はのろのろと、挙げていた手を下ろす。

(……優し過ぎるよ)
 無愛想で、そっけなくて。
 ヴァイオリンのことしか頭にない。……そんな人だと思っていたのに。
 好きになってしまった欲目なのか。
 それとも、月森が密かに隠し持っていた本当の彼の姿なのか。
 親しくなればなるほど、月森は優しく、甘い人になっていく。
 ……増々、好きになる。
(我侭を言えば、叶えてくれるような気になっちゃう……)
 あまりに、月森が優し過ぎるから。
 「行かないで」と。
 そんなふうに、香穂子がすがれば。
 その希望を叶えてくれるような錯覚をしてしまう。

(そんなわけ、ないのにね)
 苦笑しながら、香穂子は小さな溜息を付く。
 ……そう、香穂子は知っている。
 たとえ、月森がどんなに優しくても。
 どんなに、人の我侭を退けられない人でも。
 それでも。
 彼という存在の中にある、ヴァイオリン……音楽に、並び立てる存在なんて、いるわけがない。

(私が傷付くだけだ)

 遠くへ行かないでと。
 傍にいてと。
 いくら香穂子がすがっても。
 香穂子に対して、月森が例えどんな気持ちを抱いていたにしても、香穂子のその願いは絶対に叶えられない。
 ……彼のヴァイオリンへの情熱には、勝てない。

 幸せの欠片は、確かに彼と過ごす時の中に、無限に無造作に、幾らでも転がっているのに。
 それをいくら丁寧に拾い集めてみても、

 遠くはない未来に、月森の存在は香穂子の目の前からいなくなる。
 その喪失だけは、目を反らしようがない現実だった。




あとがきという名の言い訳 【執筆日:09.12.13】

連作なので、あとがきは最後の作品で!

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