「うーん……幾つか候補はあるんだけどね」
休日の月森邸。
毎週というわけではないけれど、香穂子は割と頻繁に、休日には月森の申し出に甘えてヴァイオリンの練習をしに、月森の家を訪れるようになった。
最初はもちろん、いろいろな葛藤はあるし、月森に迷惑をかけたくないという気持ちがあったのだが、どうやら月森の方がそんな香穂子の心情を見透かしていたらしく、何度か『指摘した箇所が直っていないから』と月森の方から呼び出されて彼の家に通っているうちに、香穂子の方に抵抗感がなくなってしまったのだ。
結局、最後に痛い目を見るのは自分だから、心のどこかに何かちくりと刺さったままのものはある。
だが、その痛みを凌駕するものが香穂子にはあった。
……何のことはない。
指定されたコンクールに参加して、上位に入賞しなければ、師が得られないと言う本来の目的に立ち返ったのだ。
当然、香穂子の自主練習でコンクール参加者として見合うほどの実力が付くはずもなく、休日返上で月森に教えを乞わなければどうしようもない。月森の家に通うことになったのは、言わば必然なのだった。
「もう決めて、集中して完成させなければいけない頃だと思うが」
「う、うん」
月森のもっともな言葉に、香穂子が恐縮して頷く。月森が小さな溜息を付いた。
「……何故そこまで悩むんだ。君のレパートリーなんて、悩むほどの量はないだろう」
「痛いとこ突くなあ、もう!」
更に的を射た月森の指摘に、思わず香穂子が地団駄を踏んだ。
「あの……やっぱりコンクールに出る人って、難しい曲を弾いてるよね?」
おずおずと香穂子が上目遣いに月森を伺う。そういうことか、と月森が苦笑した。
「それはそうかもしれないが、何よりも実力に合った楽曲の完成度をきちんと上げることの方が余程有益だろう。……何と、何で迷っている?」
「『シチリアーノ』と、『パッヘルベルのカノン』……」
香穂子の答えに、月森が考え込んで空に視線を巡らす。
「……君の音の雰囲気だと、俺としては『カノン』の方が似合っているような気がするが」
「実は私もそんな気がする……。好きな曲だし」
軽く頷いて、月森は本棚の方に視線を向ける。綺麗に整頓されている楽譜の背表紙から、『カノン』の楽譜を探し始めた。
「確か、どこかに持っていたと思うのだが……」
「えっと……」
月森に倣うようにして、香穂子も本棚を見上げて、『Canon』の文字が入っている背表紙を探す。高い場所の楽譜の文字は見えづらくて、香穂子はぽかんと口を開けたまま、後ずさりつつ本棚の上の方を背伸びして眺めた。
「あ、あれ……!」
最上段の端の方に、『C』から始まる短い文字の羅列の楽譜を見つけ、香穂子は指差して声を上げる。何気なく香穂子を振り返った月森が、血相を変えた。
「日野……っ!」
「え?……あ、うわ……っ!?」
がくん、と突然膝が折れ、香穂子は身体のバランスを崩し、後ろに卒倒しそうになる。背後にあった月森のベッドに気付かずに後ろに下がり過ぎて、ベッドに膝の辺りをぶつけたのだと気付いたのは、その後の事で。
(倒れる……!)
思わず、香穂子はぎゅっと目を瞑る。所詮ベッドなので、怪我をすると言うことはないのだろうが、いきなり横倒しになるというショックに備え、わずかな時間で心の準備をしたつもりだった。
(……あ、あれ……?)
確かに、身体は横倒しになった。ベッドのスプリングに合わせて、身体が微かに揺れている。
だけど、思った以上に衝撃が少ない。
(あ、……何か、いい匂い?)
不意に鼻孔に満ちた。
何だか、心が落ち着くような。
爽やかで、優しい香り。
「……大丈夫か?」
聞き慣れた、月森の声。
だが、その声に香穂子は息を呑んだ。
その声が。ひどく近い場所から。香穂子の身体を微かに振動させて、響いてきたせいで。
恐る恐る目を開いてみた。
ぱちぱちと瞬いてみても、ちっとも視界が明るくならない。そうっと目の前の暗がりに沿って、目線だけを上げてみる。
すぐそこに。
月森の端正な顔があった。
香穂子と月森は、月森に抱きとめられる形で。
二人仲良く斜めに彼のベッドに転がっていた。
声にならない声で香穂子が叫ぶ。その狼狽は、月森までは届いていない。
咄嗟に身体を起こそうとするが、バランスが悪いのと、突然の状況に身体の力という力が一瞬抜け落ちてしまったせいで、上手く起き上がることができない。月森の方が肩肘をついて、ベッドの上に身を起こした。
「全く……何をしでかすか分からないな、君は」
呆れたような、困ったような。
何にも動じていないような声。
そうなんだ。月森にとって、香穂子はおそらく目を離すと何をやらかすかわからない、行動の危なっかしい、そんな教え子でしかなくて。
分かっている。けれど、香穂子は。
香穂子にとってこの状況は……!
「……日野?」
何も答えない香穂子を訝しんだ月森が、香穂子を見下ろしてその名を呼ぶ。
そうして月森は。
微かに息を呑んだ。
ベッドに倒れ込んで、真っ赤に染まった頬を両手で押さえて。
月森を見上げる香穂子の目に。
今にも溢れそうな涙が、溜まっていたから。
「日野……?」
「あっ、ごめ……私、ドジで……、ごめん、今日は……帰るね!」
一息で言い切って、香穂子は勢い良くベッドから身を起こし、慌ただしくヴァイオリンを片付けると、部屋の隅に置いていた荷物を引っ付かんで、部屋を飛び出していく。
楽器を持っている時は走るな!と注意すべきなのに、香穂子の突然の行動の意味が分からない月森は、呆然としてベッドに座り込んだまま、香穂子の一連の行動をただぽかんと眺めている。
「……一体、どうして……?」
訳が分からず、反射的にきちんと身を起こそうとした月森の掌が、ベッドの一部分に触れる。
微かな、微かな。
優しい彼女のぬくもりを宿している布地。
体全体で受け止めた、羽のように軽いように思える彼女の重みとその身体の柔らかさと。
不意に鼻孔に滑り込んだ、甘い香り。
ここに来て、ようやく。
月森にも状況が呑み込めた。
「……!」
頬に一気に血が昇っていく心地がした。
反射的に、月森は自分の口元を掌で覆った。
(……俺は)
(ただ、彼女のヴァイオリンを向上させる為に、できる限りの事がしたいと思っただけだが、俺は)
(もしかして、彼女にとんでもないことを要求していたのでは)
……他には誰もいない男である自分の自宅に、女である彼女を呼びつけること。
もちろん、疚しい気持ちはこれっぽっちも、欠片ほどもなかったけれど。
それでももう少し、自分はしっかりと考えるべきではなかったのか。
自分が男で。
そして、彼女が女であることを。
ただ、彼女と過ごす心地よい時間が欲しくて、何気なく提案したことではあったけど。
その心地よさを追求し過ぎて、曖昧になっていた不鮮明な視界。
そして、お互いの性の違いを認識した途端。
これが、決して万人に誉められるような状況ではなかったことに気付く。
突然開ける、鮮明になる視界。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:09.12.14】
連作なので、あとがきは最後の作品で!


