その場にしゃがみ込んでしまいたいような気持ちで、香穂子は目の前にある風景を眺めている。
冷たい空気が肌に激しく吹き付けて、決して心地よくはなかったけれど、極限状態まで昇り切って火照った頬を冷ますには都合がいい。
少し離れた場所からは、繰り返し、馴染んだ音が香穂子の耳に届いている。
無造作に敷き詰められているように見えるテトラポッドに、強く打ち付ける波の音。
香穂子のショルダーバッグの中で、マナーモードの携帯が振動した。
反射的にびくりと震えて、表面からは携帯の存在が見えるわけではないのに、恐る恐る香穂子はそのショルダーバッグを見下ろしてみる。
長い時間、携帯は振動を続けていて、一旦その小刻みな振動は途切れ。
そしてまた、数分の時間を置いて同じ振動を始める。……おそらくは、間違いない。
香穂子はバッグのボタンを外して、中からそっとオフホワイトの二つ折りの携帯を取り出す。着信を知らせる点滅する青ランプの上の小さなウィンドウに表示された名前は、予想に違わず月森のものだった。
(……出ないと、余計に心配させちゃう……)
月森は、悪くない。彼はただ、バランスを崩して倒れた香穂子の身体を衝撃から庇ってくれただけで。
疚しい気持ちも何もない。だから、あの直後も、何事もなかったかのように振る舞っていられた。
意識をするのは、香穂子の方だけだ。彼への想いを自覚している香穂子だけが、彼の行動に対して、過剰な反応をしてしまう。
至近距離で見た彼の端正な顔。
香穂子の身体を抱き締めてくれた両腕の強さ、ぬくもり。
穏やかで、静かな息遣い。
(あああああ、だからあっ!)
改めてあの時の月森を思い出し、香穂子は真っ赤になって両足をばたばたと踏み鳴らす。通りがかりの犬の散歩中のおじさんが、何事かと不可解な生き物を見る目付きで、突然暴れ出した香穂子のことを眺めやった。
(……ここで、逃げたら駄目だ)
勝手に狼狽して、逃げ出した自分の事をどんなふうに思ったのか、月森の反応を知るのが怖い。
そして、自分の狼狽の意味を気付かれないまま、この先ずっと、異性として意識されないことは辛い。
だが、そんな怖さや辛さも凌駕するほど。
このまま香穂子だけが勝手に彼を意識して。
距離を置いて、逃げ出して、気まずくなって。彼が旅立つまで、彼の音を聴けなくなることの方が。
……彼と今までのように会えなくなることの方が、よっぽど辛い。
(……電話に出なきゃ)
何事もなかったかのように取り繕って。
……きっともう、香穂子が彼を男性として勝手に意識しまくったことは、幾らそういうことには興味がなさそうに見える月森にだって、否応なく伝わってしまっているだろうけれど。
それでもまだ、香穂子の想いに気付かれたわけではないはずだから。
(思春期の女子高生としてみれば、当然の反応だったと思うし……)
まだ、修復出来る。
月森と、少しだけ仲がいい友達同士として、関係を作り直せる。
間に合うはずだ。
香穂子が、この邪な葛藤を呑み込みさえすれば。
いろいろ思いを巡らすうちに、五回目の呼び出しの振動が香穂子の手を震わせ始める。思い切って、香穂子は携帯の通話ボタンを押し、耳に機体を押し当てた。
「……も、もしもし!」
勢いづいて通話に応じたら、声が上擦った。焦ってるのが丸分かりだと慌てて咳払いをして声の調子を整えようとする香穂子の耳に、「……勝手に逃げ帰って。練習はどうするんだ?」と腹が立つくらいに冷静に香穂子の居場所を問い質すだろうと思っていた月森の、意外な声音が飛び込んできた。
「……日野!?」
焦ったような、心配そうな。
普段、落ち着いた感じの月森にそぐわない、初めて香穂子が耳にする彼の声。
香穂子は驚いて、ぱちぱちと瞬きをする。
「今、どこにいるんだ? 家ではないのだろう?」
「え、あの。……うん」
切羽詰まったような月森の問に、香穂子は思わず、素直に応えてしまった。もう一度、月森の声が「どこにいる?」と問う。
「……海の傍?」
くるりと辺りの景色を眺めやり、香穂子が答える。
名所らしい場所も何もない、殺風景な港の近く、灯台が見える場所に香穂子はいた。学内コンクールに参加している頃、海が見える公園でヴァイオリンの練習をした後、心を落ち着かせるためによく立ち寄った場所で、コンクリートの堤防と、数十メートルに敷き詰められた数多のテトラポッドと海しか見えない場所だけれど、その無機質さが逆に香穂子のお気に入りだったのだ。
「行き方を教えてくれないか。今からそこに行くから」
「いや、あの。でも」
戸惑う香穂子に、いつになく真剣な声で、月森は言う。
「どうしても、君の顔を見てきちんと話がしたいんだ。……頼むから」
月森の懇願に、香穂子はおずおずと最寄りの駅名と、そこからの簡単な道筋を月森に伝える。上手く電車に乗ることができれば、15分もかからない場所だった。
「俺が行くまで、そこにいてくれ。……すぐに行くから、絶対に移動をしないでくれ!」
「……ハイ、分かりました」
月森の強い口調に押されるように、香穂子は思わずいい返事をする。
耳元でぷつりと通話が切れ、ツー、ツー、と虚しい音を紡ぎ始めた携帯から耳を離し、香穂子は自分の手の中の携帯を思わずじいっと眺める。
(……一体、何を言われるんだろう……?)
月森の迫力に押されっぱなしで、良く分からないままに月森がここに来るのを待つ羽目に陥っているけれど。
よくよく考えてみれば、事態は香穂子にとって、深刻なものになり始めているのではないのだろうか。
(だって、月森くんにとってさっきのことが取るに足らないことなら、いちいち顔見て話したいなんて言わないよね……?)
香穂子の過剰な反応の意味が分からないまま、何があったんだろうと首を傾げるくらいで、休み明けの朝に、いつもどおりの冷静な態度で練習室に現れるはずだ。
(……ど、どうしよう)
月森の態度の意味が分からず、今更ながら香穂子の背中に冷たい汗が流れる。
いっそ、ここから逃げ出したいけれど、そんなことをしてしまえば増々月森からの信頼を地に落とす羽目になるし、事態が悪化するだけで、何の解決にもならない。
……今更、月森に自分から電話して、「やっぱり来ないで」と言い出す勇気もない。
(……あの時、逃げなきゃ良かった)
胸元まである背の高い堤防、そのグレーのコンクリに頬杖をついて、香穂子は若干涙目で、目の前に広がるテトラポッドが敷き詰められた無機質な風景を眺めやる。
逃げなければ良かった。
私って、ドジだねと笑いながら済ませてしまえば、おそらく物事は酷く単純に解決してしまった。
……だけど、出来なかった。
驚いて、狼狽して。今思い出しても意識し過ぎていて、恥ずかしいことこの上なかったけれど。
あの月森の腕の中にいた一瞬は。
香穂子にとって。
間違いなく、至福の一時だったから。
隠し通すと決めたのに。
月森の留学と共に、綺麗に捨て去ってしまうと決めた恋なのに。
ちょっとしたことで抑え込んだはずの想いは芽吹いて。
香穂子の心をぎゅっと強く締め付けて、その痛みに、ひどく泣きたくさせるのだ。
テトラポッドに打ち寄せる強い波と、風の音。
いつか違う場所で、似たような風景の中に身を置くことがあるのなら。
きっと、月森が香穂子の目の前からいなくなって、この恋に終止符を打つ日が来ても。
この日の自分がとても情けなくて。
でも、偶然与えられたぬくもりの記憶が、幸せで。
その幸せと情けなさの間でぐるぐる迷って、胸を締め付けたこの想いの記憶を。
繰り返し、思い出すんだろうなと。
自嘲して吐いた、小さな小さな溜息の音色は。
テトラポッドを叩く波の音と。
耳に痛い冷たい風に紛れて。
香穂子自身の耳にすら、届かなかった。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:09.12.19】
連作なので、あとがきは最後の作品で!


