流した涙の温度

My confidence mucic 第14話

 時間にすれば、二十分弱の短い時間。
 だが、月森を待つ香穂子にとっては、それは酷く長い時間のような。
 反対に、あっさりと瞬間で過ぎていった時間のような、そんな不思議な感覚だった。
 何度か逃げ帰ろうかと移動を試みかけたのだが、これまでの月森から受けた恩恵の有難さと、今日のこの時を逃れても、同じ学校で、ヴァイオリンを教わる身で。関わりそのものが綺麗さっぱり断ち切れるわけではなく、そんなことになってしまった方が余程辛い思いをする。そういう思考に辿り着いて、結局縫い止められたようにこの場で月森の到着を待つ事しか出来なくなってしまったのだ。
 やがて、人気のない秋の海沿いに辿り着く乾いた足音。
 遠くから微かに聴こえただけで、もう『そうだ』と分かっていたけれど、振り向く勇気がなくて、コンクリートの堤防の平らな部分にジーンズのまま両脚を抱えて直に座り込んでいた香穂子は、息を呑んでその足音が自分の背後に辿り着くのを待っていた。……そうして、もうどうにもそのままでいるのが耐え難くて、くるりと後ろを振り返る。
 ちょうど、香穂子の視線が斜下方に下る位置に辿り着いた月森が、突然振り向いた香穂子に、驚いたように目を見開いて足を止めた。
「……日野」
 電話口の勢いはどこへやら。どこか戸惑い気味の月森の声が、静かに香穂子の名を呼ぶ。
 応えなければいけないけれど、何を言っていいのか分からなくて、香穂子はコンクリに座り込んだまま俯いて、自分のジーンズの膝頭を見つめていた。
「……その」
 いつも、端的に物事を言う月森が珍しく口籠り。
 そして、波と風とにかき消されそうな小さく不安定な声が、「すまなかった」と香穂子に告げた。
「……え?」
 香穂子は思わず目を見開く。
 上手く顔を見て話せないと思っていたのに、反射的に顔を上げてしまい、じいっとこちらを見つめていた月森と、真正面から目が合う。
「すまないって……」
 何で、月森から謝られてしまうのだろう。
 月森はただ、バランスを崩した香穂子を庇ってくれただけで。
 勝手に意識して、醜態を晒して、逃げ出したのは香穂子の都合で。
「……どうして」
 月森くんが、謝るの?
 そう問おうとした香穂子の言葉を遮るように、月森がその形のいい薄い唇を開いた。
「……近くに行っても構わないか?」
「え?あ、うん……」
 良く分からないまま、反射的に香穂子が答える。大きなストライドで少し背の高い堤防に歩み寄った月森は、予想外の行動力でよいしょと堤防をよじ登り、香穂子の傍に膝を付いた。強い海風が、月森のさらりとした癖のない長い前髪を泳がせて、ぼんやりとそれを見つめる香穂子は、彼の事を綺麗だと思う。
 そんなふうに、一瞬の心の隙に、月森が入り込んで満たされてしまったから。
 月森から告げられるはずの言葉に対応する心の準備が、遅れてしまった。
「……決して、疚しい気持ちがあったわけじゃないが。……もう少し、俺は君のことを大事に考えなければならなかった、と、……思う……」
 辿々しい、月森の言葉。
 細い声は時折強い海風のノイズにかき消されて。
 それでも、真摯に香穂子を見つめる月森の目は反らされることなく。
 精悍な頬が、ほんの少し赤味に染まっている。
「……君は、女性だったのに。練習の為とはいえ、不躾に俺しかいない自宅に呼びつけてしまって、本当に申し訳なかったと思っている。もう少し、配慮をするべきだった」
「そ、んな……」
 ……どんなふうに、答えればいいのか分からない。
 ちゃんと、理解していたはずだ。月森にとって、香穂子はちょっと手のかかる教え子で。
 それ以上でも、以下でもなくて。
 ヴァイオリンの指導を引き受けた以上、無下に放り出すわけにも行かなくて、強い責任感から香穂子に気を配ってくれているだけだって。
 だけど、改めて月森本人の口から、『疚しい気持ちも下心もなく、純粋にヴァイオリンの練習のために自宅に呼んだ』と言い切られてしまうのは、香穂子にとってはひどく痛いことだ。……女性として、恋愛対象として、全く眼中になかったのだと、念を押されてしまったようなものではないか。
 ……でも、それも。
 どんなに胸が痛くても、ひどく心が傷付いても。
 香穂子が月森を責めるようなことではない。
「……謝らないで。ちゃんと、分かってるから」
 香穂子は小さな声でそう告げる。
 分かってる。
 香穂子はただの手のかかる月森の教え子で。
 それ以上でも以下でもない。
 ……そんなふうに、これ以上傷付かない……気まずくならない関係を、香穂子自身が既に選んだ。
 だから、こんなちくちくと胸を刺すトゲのような痛みも。
 全部、甘んじて受け止めて、呑み込まなければならない。
「ちょっといきなりだったから、驚いて。どうしていいかわかんなくて、逃げちゃっただけなの。……私の方こそ、ごめんね。吃驚させて」
 懸命に笑って、何もないふうを装って、平気な顔で、声も揺らさないで。
(……でもちゃんと、上手く笑えているかなあ)
 嘘を付いたり、誤魔化したり。
 そういう上辺だけの対応が、香穂子はとても、苦手なのだけれど。
 月森は、この香穂子の内にある切ない想いに気付かずに。
 香穂子の拙い嘘に、騙されてくれるのだろうか。
「……日野」
 香穂子の反応を何一つ見逃さないように、じっと見つめていた月森がふと視線を自分の手元に落とし。香穂子の名を呼んで、躊躇って。何度か唇を開きかけて、また閉じる。そんなことを繰り返して。やがて、思い切ったように顔を上げた。
「君には、本当に嫌な思いをさせてしまったかもしれない。……それでも、また。これからも君は、俺の家へ訪ねてきてくれるだろうか」
「……え」
 意外な月森の言葉に、香穂子はぽかんと口を開く。
「……その。本当に疚しい気持ちはないし、君に不埒な事をすることもない。それは約束するから……怖がらせたりはしないと誓うから」
 家に来て欲しい、と。
 月森は香穂子に告げた。
「……それ、は」
 分かっている。
 期待は、するだけ無駄なのだ。
 香穂子が想うように、月森が自分の事を想ってくれるわけがない。
 ヴァイオリンも未熟で。見た目も至って平凡で、これといった取り柄もなくて。
 月森に釣り合うような女じゃないと、香穂子が一番よく理解している。
「イチゴの紅茶。……飲んでもらうため?」
 だから、思い付いた理由は。
 少しだけひねくれた、そんな答えしか見つからなくて。
 ……だが。
「……違う」
 思いがけずはっきりと。
 月森は香穂子の言葉を否定した。

「おそらく、俺は。君と過ごしている時が一番、自分を飾ること、偽ることなく、自然に過ごせているのだと思う」
 香穂子と一緒に過ごす時間の、居心地の良さ。
 それはきっと、月森の背景にあるものに頓着しない、素直で朗らかな香穂子の放つオーラによるもの。
 今の月森に、香穂子と過ごす時間は必要不可欠で。
 ……どうしてなのだろう。
 そんな居心地のいい時間を、心から『なくしたくない』と、月森は願っている。
 月森があまり深く物事を考えず、彼女を家に呼び入れて。
 月森の想像以上に『女の子』だった彼女を驚かせて、怖がらせて。
 いくら自分に疚しい気持ちがなかったとは言え、彼女が「もうここには来ない」と言い出しても、それを無理に引き止める権利なんて、この状況では月森は持っていなくて。
 だけど。

「……君と、一緒に居たいんだ」
 そんなふうに。
 子どもが親を求めるくらいに。
 本能の部分から浮かび上がって来る、この純粋な願いを口にすることが。
 ……それを、香穂子に向かって放つことが。
 どれくらい罪深いことなのか、月森は知らない。


(……ずるいよ、月森くん)
 真直ぐに、無邪気に、何を含むこともなく。
 彼を想う香穂子には抗い難い誘惑を簡単に口にする、そんな月森を、心の何処かの愛しさの裏側で、香穂子は憎む。
 その想いは、決して香穂子が抱くものとは形も温度も違うものなのに。
 言葉にしてしまえば、二人が抱く願いは、いとも簡単に符合する。
(私だって、一緒に居たいけれど)
 そこに潜む想いは、きっと根本的に違っている。

「……月森くんの迷惑にならないなら。元々、私の為に言い出してくれたことなんだし。むしろ、私からお願いしないといけないよね」
 苦笑する香穂子に、月森がふと安堵したように小さな息を付く。
 冷たいコンクリに座ったままの香穂子は、ぺこりと月森に向かって頭を下げた。
「……これからも、ご指導よろしくお願いします」
 きっとまた、こんなふうに相容れない想いの痛みは何度も香穂子を襲うだろう。
 それでも香穂子は、一番強い願い……月森と一緒に過ごす時間を、葛藤の中選び取ることになるのだろう。

「……今日はもう、遅い。君の家まで送るから」
 月森の申し出に、うんと香穂子が頷く。
 背の高い堤防から月森が先に降りて、それに続こうとした香穂子を月森が振り返る。
 訝しげに首を傾げる香穂子に、はにかんだような表情で、月森は両腕を伸ばした。

 その意図に気が付いて、香穂子は小さく息を呑む。
 きっと、月森は今日のお詫びのつもりなのかもしれない。……でも。
 ぐるぐると思考を無駄に巡らせたのはほんの一瞬、ふるふると首を横に振ってそんな迷いを払い落とし、月森の好意に甘えることにして、コンクリの縁に腰掛けた香穂子は、スニーカーの底でコンクリの冷たい壁を蹴って、待ち構えていた月森の両腕に支えられた。
 ふわりと身体が浮いて。
 次の瞬間には、軽々と香穂子を抱えた月森は、アスファルトの上に香穂子を下ろしてくれる。
 ……その、刹那の抱擁に。
 香穂子は、ほんのひと粒の涙を零す。

(……もう、これ以上は泣かないから)
 全部分かっていて、選んだことだ。
 辛くても、哀しくても。
 想いが決して届かなくても。
 それでもいいから、月森の傍にいたいと。
 他の誰でもない、香穂子自身が願ったのだ。


「じゃあ、行こっか! 上手く帰りの電車の時間と、タイミング合うかなあ?」
 跳ねるように地面に降りた香穂子が、駅の方に踏み出しながら笑顔で月森に背を向ける。「……ああ」と心ここにあらずの曖昧な返事を呟きながら、月森はふと、たった今香穂子が触れていた肩の熱の残滓に指先を伸ばす。振り向かない華奢な彼女の背中を、その視線だけで追った。
(……日野……?)

 それは、降り出す雨の最初の一滴のように不意に染み込んだ、哀しい熱さを持つ一雫。

 触れたシャツからは、もうその熱を指先に感じることは出来なかったけれど。
 香穂子がこっそりと流した涙の温度は。

 謀らずもその時、月森の心の奥に。
 音もなく確かに。
 そっと、侵入していたのである。




あとがきという名の言い訳 【執筆日:09.12.24】

連作なので、あとがきは最後の作品で!

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