逃げ水のよう

My confidence mucic 第15話

 あれは、確かに少し距離のあった海から打ち上げられた波の飛沫なんかじゃなくて。
 人の温度を持った、暖かな一雫。
 制服のジャケットにその温度は、宿りはしないけれど。
 あの日から何度も何度も、その存在を確かめるように、月森は無意識に自分の肩に指先で触れる。
(……どうして、泣いた?)
 自分に向ける彼女の表情は。
 思い返す限り、いつでも笑っているから。
 ……月森には、彼女の哀しみの意味が、分からない。


「月森くん?」
 おーい、と目の前で小さな掌がひらひらと揺れる。
 はっと我に返った月森が顔を上げると、視線の下から覗き込むように月森を見ていた香穂子が、安堵したように息を付いて笑った。
「大丈夫? また遅くまで練習して、夜更かししたんじゃないの?」
 屈託のない彼女の笑顔を目にするたび、月森はあの日のことが単なる自分の勘違いだったのではないかと思い直す。確かにシャツに染み込んだ水滴の気配はあったけれど、場所が場所だから、風に運ばれてきたテトラポッドに打ち付けた波の飛沫を、そうだと思い込んだのではないかと。
 だが、そう思おうとするたびに、あの時の確かな熱を思い出す。
 確かに熱く、月森のシャツを濡らした、その一雫。
 彼女が笑うたび、あれがただの思い過ごしだったのだと自分に言い聞かせて。
 その後、やっぱりあれは彼女の涙だったのだと確信を繰り返す。その根拠は、あの日以来どこかよそよそしくなってしまった彼女の態度。
 相変わらず、休日で予定がない時には月森の家に来て練習をしているし、学校に来ている時でも、時間が空いて、お互いの都合がいい時にはこうして練習室で共に時間を過ごしている。それでも、確かにあの日以来、彼女は心の何処かに一線を引いて、月森と距離を置くようになった。
 月森は、あまり他人の心の機微に興味を持つことはないし、それを読み解くことが得意ではないけれど、彼女のことは、何となくだけど分かる気がする。……彼女もまた、そういうごまかしや隠し事が不得手だから。
 あんなに月森から注意されていた『ヴァイオリンの練習に関係のないこと』の話題を、彼女は口にしなくなった。月森と会っても、ただ懸命にヴァイオリンを練習して、質問事項を尋ねて、確認をするだけ。月森の家に来た時にもそうで、用件が終わってしまえばそそくさと帰宅してしまうから、彼女のためにストックしているストロベリーのフレーバーティは一向に分量を減らす気配がない。
(……全てを含めて、居心地が良かったんだな)
 煩わしく感じていた、彼女の脈絡のない、他愛のない会話も。
 無駄なように思えていて、全部が彼女と過ごす時間を心地よく過ごすために必要なものだった。
 彼女に距離を取られて……月森が望んだことを全て突き付けられて。
 そうして初めて、月森はあれもこれもを望んでいた自分の貪欲さを知る。
「つーきーもーりーくん?」
 もう一度、今度は少しだけ拗ねたような口調で香穂子が月森を呼び、ぱちんと両手を月森の目の前で打ち鳴らす。反射的に月森が目を見開いて後ずさるのを見て、悪戯っぽく笑いながら「ネコだましってやつですけど」と呟いた。
「さっきから聞いてるのに、ホントに心あらずなんだからなあ。……ここからここへの流れがどうしてもつまずいちゃうの。私、何が悪いのかな?」
 楽譜を片手に指先で音譜と音譜の繋がりをなぞる。ああ、と曖昧に答えながら、月森が香穂子の指先が示す箇所を覗き込んだ。
「もう一度、ここだけ弾いてみてくれないか?」
 月森が言うと、うん、と素直に頷いた香穂子が苦手な部分の旋律をさらりとなぞる。彼女の言う通り、流れるような旋律が、途中で段差につまずくみたいにつんのめった。
「……ここからここに移る時、もう一拍溜めて次を弾いた方がいい」
 香穂子に楽譜を示し、音譜を指差して、すっと月森が次の音譜まで指先を滑らせる。その動きを確かめるために楽譜を覗き込んで、頷いた香穂子の。
 その女の子らしい、ふわりとした甘い香りが。
 不意に、月森の鼻孔を掠めて。
 突然蘇る、あの時の彼女。

 月森の腕の中で。
 涙に濡れた眼で、真直ぐに月森を見て。
 頬を染めていた、あの時の。

(……俺は)
(本当は、あの時)
 深く、物事を考えてなどいなかった。
 ただ、バランスを崩した彼女が、危ないと。反射的に助けなければと。
 ……だけど、今になって思い返せば。
 確かに、あの時。
 自分は。

「……あ、そっか! こういうことだ!」
 目の前で香穂子が綺麗につんのめっていた部分を弾きこなし、大きな声を上げる。その声に、また月森ははっと我に返る。
「上手くいったよ、月森くん。これでいいんだよね?」
 嬉しそうに笑って、香穂子が振り返る。その勢いに押されるように、月森がぎこちなく頷いた。
「よし、この感覚忘れないようにおさらいしなきゃ。また他におかしいところあったら、遠慮なく言ってね」
 ぎゅっと弓を握り締め直す香穂子が、そう言って月森に背を向ける。『パッヘルベルのカノン』の中盤の旋律を通して弾き始めた彼女の背中は、すっと伸びて、綺麗な姿勢だった。

(俺には、君のように優しくて親しみやすい音は生み出せない)
 華奢な、背中。
 奏でる音も月森とは全く違うベクトルを持っていて。
 否応なく、彼女と自分が異なる人間であることを思い知らされる。
 ……違う性を持つことを、実感させられる。
(……分かっていたんだ)
 本当は。
 確かにあの時、自分は。
 そのことを、知っていた。
 不埒な、疚しい気持ちがなかったことも、決して嘘ではないけれど。
 彼女が『女性』だと分かっていたから。
 あの時、自分は彼女を反射的にとは言え、庇ってしまったのだ。
(君は、俺より華奢で、脆くて、壊れそうで)
 いつか触れた彼女の手は暖かくて。
 とても、柔らかくて、小さくて。
 儚い硝子細工のようで。
(……守りたいと、思ったんだ)

 彼女に出逢って。
 今までの自分では知らなかった、気付かなかったいろいろなことを、彼女が丁寧に教えてくれた。
 自分が、ヴァイオリンに没頭することで見失って、置き去りにしてきた沢山のものを、彼女がもう一度拾わせてくれたのだと、言葉にはしなくても心から香穂子には感謝をしている。
 だけど、そんなふうにいろんなことを分かったつもりでも。
 簡単に、自分は自分の心を見失う。

(……まだ分からない)
 あの時の、彼女の涙の意味。
(どうして、俺は。君の涙の理由を、こんなにも知りたいと願うのだろう)
 あの時の場面を記憶の中で何度も反芻し、その意味を知りたがる自分自身の心。それが一番、今の月森には理解し難い。

 彼女に出逢えて、不必要だと切り捨ててきたものを、本当は無駄なものじゃなかったのだと拾い上げてもらって。
 少しは、世界や人という漠然としたものを分かりかけていたつもりなのに。

 一つの疑問が解決すれば、また新しい疑問が目の前に現れる。
 納得出来る答えは、思い返してみれば、何一つ手にしていない。

 それはまるで逃げ水のように。
 明確な真実を掴み切れない。
 何よりも理解が難しい、自分自身の心。




あとがきという名の言い訳 【執筆日:09.12.27】

連作なので、あとがきは最後の作品で!

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