濡れた地面に映る空

My confidence mucic 第16話

 当たり前のように、初めからそこに存在していたのに。
 視点を、角度を変えなければ、気づけないものがあって。




 夕べの嵐が嘘のように、その日は朝から晴れ渡っていた。
 空には雲一つなく、地面にところどころ残存する大きな水たまりだけが、昨日の嵐が夢ではなかったことを物語っている。
 降ったのが夜中でよかったと月森は心の底から安堵し、足元の水たまりの飛沫を蹴り上げないように気を使いながら、まだ湿って色を濃くしたままの、学校までの見慣れた通学路のアスファルトの上をゆっくりと歩いていく。
 丁寧にヴァイオリンの練習を重ね、香穂子の演奏はそれなりのものに仕上がりつつある。それでもまだ、コンクールで入賞出来る演奏かと問われれば、是とは言い切れないが、本番まではもう少し猶予が残されている。彼女が今の調子で練習を積み重ねていけば、他の参加者に見劣りのしない演奏に完成させることができるだろう。……どこか楽観的で鵜呑みにしやすい彼女には、気を抜かせないために、まだそんなことを伝えたりはしないけれど。
(一度、別の誰かに聴かせてみた方がいいのかもしれないな……)
 彼女との時間を共にし過ぎて、月森の耳には慣れが生じ、彼女の演奏の細やかなマイナス点に気付かなくなっているかもしれない。技術的なミスを月森が捕らえ損なうことはないが、彼女の演奏を心地いいものだとプラス傾向に認識しているのは事実だ。自分では意識していなくても、贔屓目に見ているかもしれないことは否定出来ない。だが、コンクールで香穂子の演奏に評価を下すのは、彼女の音を知らない人間達だ。
 冷静に厳しく判断の出来る耳のいい人物に、第三者の立場から一度通して聴いてもらう方がいいのかもしれない。
(受験勉強中の三年生に負担をかける訳にはいかないし、日野という人物に偏見を持っている人間でも困る。となると、学内コンクールの関係者……志水くんか、それとも金澤先生か……)
 考えながら、月森はふと視線を上げる。
 月森の進行方向の先に、赤味の強い、癖のある長い髪。
 交差点に差し掛かろうとしている、通学中の日野香穂子の後ろ姿が見えた。
(……丁度いい)
 今、自分が考えていたことを彼女にも提案してみようと、早足で彼女との距離を縮めながら、その背中に声をかけようと身構えて。
 急ブレーキを踏むみたいに、月森の動きがぴたりと止まる。
 ……彼女は、一人ではなかったから。

 交差点の信号待ち。月森の視線の先で香穂子は、傍らにいる人物に何事かを話し掛けられていた。
 香穂子より頭一つ分は優に高い……彼女と同じ色調の制服に身を包む土浦梁太郎を、仰ぎ見るようにして顔を上げて、車の流れも、目の前の信号の色を気にすることもなく、彼女はただその土浦の言葉に楽しげに何事かを返して、弾けるように笑う。
 声は届かない。何を話しているのかは分からない。
 ……ただ、楽しげな様子だけが遠く離れた月森にも伝わってくる。

(……ああ、そういえば)
(最近君は、俺の前で、あんなふうには笑わない)

 いつも、笑顔を絶やさずに。
 悩んだり、苦しんだり。……そういうマイナスの要素を感じさせない雰囲気の持ち主だけれど。
 ここ最近、月森の前で彼女が屈託なく、声を上げて笑ったことがあっただろうか。
 少しだけ困ったように。
 寂しそうに、心の奥底に何かを隠したまま。
 それを誤魔化すようにして、彼女はぎこちなく笑う。

 その笑顔の不自然さには、漠然とながら気がついていたけれど。
 どう対応すればいいのかは分からないから、結局月森は何も出来なかった。


 そういえば。
 土浦は、彼女が好きなのだと月森に告げたことがある。
 自分ではない誰かを好きになる気持ち。
 ……恋という気持ち。
 未だ、誰かを愛した経験がない月森には、それがどんな感情なのか、良く分からない。……だけど。
 香穂子を見下ろす土浦の優しい眼差。
 彼女の屈託のない笑顔に、どこか嬉しそうに小さな笑顔を返す土浦の姿に、月森は知る。
 ……人を好きになるということは、ああいうことを言うのだと。
 『好き』という気持ちは分からなくても。
 『恋』というものが分からなくても。
 土浦が、彼女を大切に想っている。
 そのことだけは、月森にも分かる。

 朗らかに、屈託なく。
 今はもう、月森には見せなくなってしまった彼女らしさで、土浦に笑いかける香穂子と。
 そんな香穂子を優しく見つめる土浦。
 ……もう少し過去の自分だったら、そんな二人の持つ雰囲気なんてどうでも良くて、自分の用件が最重要だと判断すれば、彼らの反応なんて気にすることなく、声をかけることが出来ただろう。
 だけど、今は。
 とても、何事もないかのように声をかけて、あの二人の間に割って入るなんて真似は出来なくて。
 思わず、月森はその場に立ち尽くした。なす術もなく呆然と二人の背中を見つめていると、交差点の信号が変わり、動き出す周囲の人達の流れに沿って、目の前の二人も学校へ向かって歩き出す。

(……寂しい)

 ふと、胸に去来する。
 初めて感じる、射すような痛み。


 落とした視線の先のアスファルトの窪みに。
 昨日の嵐の、その名残り。
 波立つこともない水たまりの表面が、澄んだ冬という季節の入口の、綺麗な青空の色を映している。

 晴れ渡る空は青いものだと、最初から知っているのに。
 別の場所に映るその姿を見て、改めてその鮮やかな色を理解した。
 ……そんな気持ち。

(……俺は)
 一緒にいると、心地が良くて。
 彼女の一挙一動が、心に留まる。飽きなくて、ずっと見ていたくなる。
 そんなふうに、唯一誰にも気を使うことなく過ごせる休日を共にしても、全く苦にならないような。
 初めて深く関わった気の許せる『友人』だから。
 彼女という存在は、そういうものだと思っていたのに。
(きっと、それだけじゃないんだ)

 あの時、彼女が泣いた訳も。
 少しだけ、境界線を引かれてしまったように思う心の在り処も。
 彼女の立つ場所と、自分がいる場所と。
 その距離感が、気になるのも。
 きっと、彼女が。
 『友人』とだけ呼べる関係性に置いていて、納得出来るような存在ではないから。

 本当は。
 『好き』という気持ちも。
 『恋』という感情も。
 自分は未だ、何一つ理解は出来ていないのだけれど。

 それでも。
 今、彼女の隣、土浦が立つあの位置にいるのは。
 他の誰でもなく。
 ……この、自分であって欲しい。
 それだけが、今の月森に分かる。
 たった一つの偽らざる自分の想い。


 雨に濡れた地面に映る空を見て、その空の色の鮮やかさに気付くように。
 彼女の隣にいる土浦に、自分の姿を照らし合わせて。

 もし、あの場所に。彼女の隣に。
 自分が立っていたのなら、と考えてみる。

 気付かなかった空の色に。
 理解出来なかった自分の感情に。
 視点を、角度を変えて。
 月森は、ようやく気付く。

 おそらく、あの土浦と同じような。
 幸せそうな、嬉しそうな、……そんな微笑みを浮かべて。
 自分は彼女の隣に、立っているんだろうなと。

 そんなことを、漠然と考えた。




あとがきという名の言い訳 【執筆日:09.12.29】

連作なので、あとがきは最後の作品で!

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