秋が深まると、日没の時間も早くなる。
最終下校時間ギリギリまで練習をして、校舎を後にする頃には辺りの風景は群青の夜の色に包まれていた。
ふと空を見上げれば、澄んだ冷たい空気の向こうに満天の星。授業終了と同時に帰宅していた頃には見る事のなかった贅沢な風景。
思わず香穂子が声を上げると、同じように月森が、香穂子につられるように夜空を見上げる。綺麗な横顔からは彼がどんなことを考えているのか、想像がつかないけれど、何だか今初めて空の存在に気付いたような、無邪気な子どもみたいな眼差で、月森は黙ったまま香穂子の隣でしばらくの間、空の小さな光の明滅を見つめていた。
「月森くん、流れ星って見たことある?」
香穂子を家に送り届けるために、普段の自分が歩くところとは異なる道……それでも、彼女を送るうちにそれなりに慣れてきた道を、二人で肩を並べて歩く。香穂子の話はいつも唐突だけれど、ここ最近ヴァイオリンやコンクール以外の他愛無い話題を彼女が口にすることは少なくなっていたから、月森は驚いた。弾かれたように彼女を見下ろすと、きょとんと月森を見上げた香穂子が、何事かに気付いたように、その大きな目を瞬かせた。
「……ごめん、また急に、どうでもいい話題で……」
「……いや」
月森は視線を伏せて小さく首を横に振る。
謝られることではないと、月森は思う。
久し振りに彼女らしい話題の転換で、想像以上に安堵している自分に気が付いていた。
「随分昔……幼い頃に見たことがあるくらいだな。ここ最近は、夜空を見上げる余裕もなかったし……」
「えっ」
香穂子が驚いたように声を上げる。「……何だ?」と月森が訝しげに尋ね、香穂子が慌てて「ううん」と首を横に振った。
……おそらく、こんなヴァイオリンにもコンクールにも関係のない問に、月森が文句一つ言わず素直に答えてくれたのは初めての事だ。
「……君は?」
「えっ」
また香穂子が同じような反応をする。目を丸くして自分を見つめる香穂子に苦笑した月森が、もう一度同じ問を繰り返す。
「君は、流れ星を見たことがあるのか?」
香穂子は唇を引き結び、思わずまじまじと月森の顔を見てしまう。……問を返されることも、おそらくは初めてのことだろう。
「日野?」
自分をただ見つめている香穂子の名を、困ったような月森の声が呼ぶ。はっと我に返った香穂子が、「私、……うん、私ね!」と慌てて言った。
「ええと、……残念ながらないの。割と流星群とかチャンスはあるんだけど、ああいうのって真夜中だから、起きてられなくて」
「なるほど。……君らしいな」
「どうせ、私は夜更かし出来ない人ですよーっだ」
小さく笑う月森が、ぽつりと呟く。反射的に香穂子がいつも通りの拗ねた態度で言葉を返し、二人でふと、驚いてその場に足を止める。
……あの、気まずくなる前の自分達の会話だと、二人同時に気が付いたのだ。
(意識しないように、意識しないようにって、何度も自分に言い聞かせたのに)
それが上手く出来ていないと、香穂子自身も気が付いていた。それを、おそらく月森が不思議に思っているだろうことも。
でも、元々自分の態度を何事もなかったかのように偽るという高度で難易な芸当は、香穂子には出来なくて。
月森に、自分の恋心を悟らせないために、ヴァイオリンとコンクール、この二つに集中して、他のことを見ないようにすることが、精一杯だったのだ。
そんなふうに、例えヴァイオリンの指導する側とされる側としてだけで終わる関係でも、もっともっと気まずくなって話も出来なくなる関係に変わってしまうよりずっといいと、自分を納得させていた。
でも、関係性がどうであろうとも。
ただ、何気なく、気負いなく話せるということは。
これほどまでに嬉しくて、幸せなことなのだと、香穂子は改めて知った。
(どうしていいのか、分からなかった)
あの日以来香穂子に、心の中の何処かに何か一線を引かれてしまったことには気が付いていても。
その境界線を踏み越える術を、月森は知らなかった。
これまでの17年間という短い月森蓮という人間の辿った人生の軌跡の中に、人と人との境界を取り払わなければならない局面など、なかったから。
どうしていいのかは分からないけれど、それでも今までのように、諦めて切り捨てることも出来なくて。
ただ、その境界線に気付かぬ振りで、何事もなかったかのように彼女の近くにいることしか出来なかった。
でも、彼女がこうしてほんの少しだけでも歩み寄ってくれるだけで。
自分の心がこんなにも楽になるのだと、月森は初めて知った。
「……流れ、星」
二人の間にふと降りてきた沈黙。
それをかき消すように、月森の静かな声が響く。
「観たいのか?」
「……うん」
素直に、香穂子が頷く。
と同時に、止めていた足をまた再び二人で踏み出す。
「願いごとが、叶うんだよね? 流れ星が流れ切ってしまう前に、3回願いごと唱えると」
「ああ……そう言えば、そんな話を聞くな。試したことはないから、真偽のほどは分からないが」
言って、月森はふと思い付いたように香穂子に視線をやる。
「……さしずめ、君の願いごとはコンクールの成功、だろうか?」
「えっ?」
予想外の事を言われた、という様子で、香穂子が目を丸くして月森を見上げる。穏やかな月森の眼差が、香穂子を見ている。
「何か、願いごとがあるんだろう? だから、流れ星が観たい。……そんなふうに思ったのだが」
……月森の意外な鋭さに、香穂子は内心息を呑む。
本当は、そこで一つ頷いていれば簡単に済む話なのだと分かっていたけれど。
隠し事は出来ても、こんなふうに真摯にヴァイオリンに向き合う誠実な人に、嘘を付くことは出来ないから。
香穂子は小さく首を横に振る。
「……コンクールの結果は、よくも悪くも私の練習次第なんだもの。お星様に願うようなことじゃないよ」
でも、と。
香穂子は少しだけ哀しげに笑って、視線を伏せた。
「流れ星に祈りたい願いごとは……やっぱり私にはあるよ」
月森という存在を知って。
その存在を好きになって、そうして教えられたこと。
自分の手にしたいものを手に入れるのは、自分次第なのだと言うこと。
月森のヴァイオリンの音色も。
進むべき道も。
月森が自分自身の努力という名の代償を支払って掴み取ってきた、とても価値のあるものだ。
彼の音に憧れるものとして。
彼に学ぶものとして。
彼のそんな真直ぐな生き方に恥じない生き方を、香穂子も選び取りたい。
だから、手の届かない場所にある遠い存在から落とされる施しを、香穂子は期待しない。
既に充分過ぎるほどの奇跡を、自分はリリから与えられているのだから。
これ以上のものは、香穂子は決して望まない。
それでも、香穂子が『人』である限り。
願いは、無限に生まれて来るのだろう。
何かが欲しい、何かをしたい、……そんな、時には欲望と蔑まされる本能こそが。
人が生きていくために、必要な原動力だと思うから。
実現可能な願いごとなら、己の覚悟と努力とで、どれだけの時間がかかっても、掴み取ればいい。
だから、遠い手の届かない場所にある星に。
祈る、願いというものは
「……そう、だな」
香穂子の言葉に応じて。
遠い空の、明滅する星を再び見上げる月森は。
まるで祈るように、そっと目を閉じる。
「……俺にも、あるのかもしれない。……流れ星に願わないと、叶えられない願いというものが」
夜空の球面を走る星の軌跡は、ほんの瞬きほどの刹那に刻まれる。
願いごとを叶えるためには、その刹那に3回同じフレーズを心の中に描くことが必要で。
どうしても、叶えたい願いであればあるほど、そのフレーズも単純明快なものにはならなくて。
……きっと本当は、初めから不可能に近い。
叶えるための願いごとを、流れ星に託すこと。
だからきっと。
どうにかすれば叶えられる願いなら。
人は、流れ星には最初から頼らない。
実現不可能に思える、壮大過ぎる願いであればあるほど。
流れる星の奇跡に、その行く末を委ねたくなる。
(だからこそ、私は)
(だからこそ、俺は)
今の自分には到底叶えられない願いごとを。
胸の奥底に、静かに抱き締めている。
……今、自分の隣にいる存在と。
未来永劫、ずっとずっと、一緒にいたい。
互いに抱く願いは同じものでも。
間違いなく願いを叶えてもらうために、星が流れる一瞬に、このフレーズを3回唱え切ることは不可能であろうから。
どれほど、切実に願ったとしても。
……きっと、この願いは永久に叶わない。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:10.1.2】
連作なので、あとがきは最後の作品で!


