金曜日の夕方。
練習室で何度か言いにくそうに口籠った後、月森が思い切ったように香穂子にそう告げた。マフラーをぐるぐると首に巻いて帰り支度を整えていた香穂子は、一瞬ぴたりと動きを止めて月森の方に視線を向ける。
申し訳なさそうな表情で香穂子の反応を伺っている月森に、香穂子は思わず苦笑した。
「うん、何か用事があるんだね? 月森くんの都合に沿って、駄目な時は駄目って言ってくれていいんだし、そもそも私がしょっちゅうお邪魔してるのが図々しいんだから、そんなに気にしなくていいのに」
「だが、練習の事は元はといえば俺が言い出したことなのだから……」
「本当に、大丈夫だよ。月森くんから指摘されたところ、まだ万全じゃないし、明日は公園にでも行って練習してくる。休み明けにはばっちりにしておくからね!」
香穂子は屈託なく笑ってそう言った。
それでようやく月森に安堵の表情が戻る。
「明日は、何か留学関係の用事?」
夕闇の中を二人で肩を並べて歩きながら、香穂子が尋ねる。月森は小さく首を横に振った。
「母がツアーから戻ってきているんだ。それで、土日は関係者を混じえた食事会に、俺も顔を出さなければならなくて」
「……そっか。じゃあ、尚更週末は私のことを気にしないで行って来ないと」
練習室でヴァイオリンを教えてもらっている時にはそこまで感じることのない彼との生活環境の違いを、こういう時に香穂子は感じてしまう。
……おそらく、月森が留学をするしないという話だけではなく。
香穂子が生活の中で当たり前に思うことが月森には当たり前ではなく、その逆もしかり。
そんなふうに、元々月森とは生きる世界が違い過ぎるのだと思わずにはいられない。
(……って言うのも、本当は多分、私が逃げてるだけなんだけど……)
ここ最近、「どうせ駄目だから」「無理だから」と、彼との恋が上手く行かない理由を必死で並べ立てている自分自身を、香穂子は知っている。
月森と過ごす時間は、どんなに自分の心をガードして、ただヴァイオリンを教える者と教わる者の関係でしかないのだと言い聞かせてみても……居心地が良過ぎる。
月森が、口で言うほどに突き放す人ではないと分かっているから。
……出逢った頃に抱いた印象より、ずっとずっと優しい人だと言うことを、知ってしまったから。
恋じゃなくても。……香穂子と同じ想いではないとしても。
月森も、せめて友人くらいの関係くらいには香穂子のことを位置付けて、少しは好意的に自分を見てくれているのではないかと思う。
そして、それは月森自身の口からも以前言われたことで。
嬉しかったし、幸せだった。だからそれ以上に、彼の事を罪深いと思わずにはいられなかった。
きっと、月森が同じ想いを香穂子に返してくれることは有り得ないと思うのに。
確かに、香穂子は月森にとって少しだけ特別で。親しく、居心地良く過ごせる存在で。だからこそ、月森もあまり心に壁を作ることなく、親しげに香穂子に関わってくれる。
だから、もしかしたら。
ひょっとしたら。
そのうち、月森が香穂子と同じ気持ちを、抱いてくれるようになるのではないかと。
……勘違いを、してしまいそうになる。
「じゃあ、済まないが。今度はまた休み明けに、練習する時間を作るから」
「うん、分かった。ちゃんと注意されたところ、練習しておくね。……今日も、送ってくれてありがとう。気を付けて帰ってね」
香穂子を玄関先まで送り届け、月森が香穂子を振り返ってそう告げ、香穂子も頷いて、ひらひらと片手を振った。
そんな香穂子を、一つ瞬きをして見つめ、月森が自分の革靴の爪先に視線を落とした。
何かを考え込むように口籠る月森を、香穂子が首を傾げて見守る。
「……その。何か、分からないことや、聞きたいことがあったら……すぐには応対出来ないかもしれないが、着信には気を付けておくから……遠慮なく、携帯に連絡を入れてくれ」
「……え?」
「君は、意外に内に溜め込むだろう? 俺に迷惑がかかると分かっていることは、俺にはなかなか見せてくれない。……ここ最近、ずっとそうだ。何かを我慢して俺に気付かれないようにしている」
「そ……んなことは……」
香穂子は驚きで目を見開く。
隠し事が出来ない自分と言うのはそれなりに理解していたつもりだが、あまり他人の事に興味を抱かないように見える月森にまで、ここまで筒抜けになっているとは思わなかった。
「ない……けど」
辿々しく否定しつつ、それでも香穂子は月森の目が見れずに、視線を反らす。静寂の中に、小さな月森の溜息が聞こえた。
「……君が否定することを、根掘り葉掘り聞き出したいわけじゃない。……ただ、俺が君の指導を引き受けた理由を、もう少し分かって欲しいと思っただけだ」
「指導を、引き受けた……理由?」
月森の言葉を繰り返し、香穂子が思わず月森を見上げた。
傍の街灯が月森の姿を照らし出して、不可思議な陰影でそのバランスの取れた身体を彩っている。……綺麗な人だ、とぼんやり思う。
「……俺は、君の。……力になりたい」
技量が未熟だと分かっていて。
長年音楽と携わっていた人々と比べると、周回遅れもいいところなのだと分かっていて。
それでも真直ぐに、ヴァイオリンを好きだと言える。
好きだから、もっと上達したいと真摯に言える。
微力でも、休むことなく上を目指す、そんな彼女の確かな進む力になりたくて。
月森はおそらく、彼女の指導を引き受けた。
「月森、くんは……」
優しいね、と。
俯いた香穂子が、小さな声で告げた。月森は、小さく首を横に振る。
「……俺が、優しいわけではないと思う」
自分は、ただ巻き込まれただけだ。
香穂子がヴァイオリンに向ける情熱に。
……彼女の、引力に。
「……分かった。自分でどうにもならなくなったら、遠慮しないで連絡する。……でも、忙しかったら本当に週明けでいいから。無理はしないでね」
「ああ」
月森が頷くと、じゃあね、と香穂子がもう一度片手を上げる。
それ以上は食い下がることも出来なくて、月森も「……じゃあ、また週明けに」と一言を残し、踵を返し、帰途につく。
少しだけ、勇気を出して。
自分の気持ちを伝えると言う、あまりにも慣れないことをやってみたけれど。
……自分の『本当の気持ち』をどこまで彼女に上手く伝えられたのかは。
経験の少ない月森には良く分からなかった。
(本当に、罪作りだなあ……)
均整の取れた背中を、見えなくなるまで見送って。
がしゃんと門扉に寄りかかって、香穂子は冬の澄んだ星空を見上げる。
長く、溜めた息を吐くと、街灯の仄かな明かりに、白く目に見える形に変わった溜息が照らされた。
これが、香穂子の心を何もかも分かった上での行為なら、本当に憎らしい人だと思うけれど。
きっと、月森は何も分かっていない。
香穂子の想いも。……想いが届かない故に……仮に届くことがあったとしてもいつかは離れてしまうが故に、好意を与えられてしまえば傷付いてしまう香穂子の現状も。
ただ、親しくなれた好ましい友人の為に自分ができることを、月森は惜しまないだけ。
「……これじゃ、もっと、好きになるしかないじゃんか……」
月森と同じ時間を過ごすたびに。
……そうして親しくなって、彼がもっと自分に対して優しくなっていく毎に。
想いは育つしかないと分かっていたから。
香穂子は、意識的に月森との間に壁を作ったのに。
……遅かったのだ、何もかもが。
香穂子が月森を好きだと気付いてしまった時から、本当は分かり切っていた結末だった。
他人を否応なく突き放す、月森の外側に苦手意識を覚えて。
奏でる音に、……そこに秘められた、同じ時間を過ごすことを経て知っていく、本質の不器用な優しさに、心惹かれた。
だから、どんなに抑えても。自分の心を騙してみても。
一緒の時を過ごせばそれだけ、ただその愛おしい本質を知り続けていくだけなのに。
……想いが止まって、枯れてしまうはずがなかったのだ。
(そういえば、うちに来るようになってから、土日とも彼女と会わないのは初めてだな……)
帰り道、彼女と同じ行為なのだとは知らず、何気なく星の瞬く冬の夜空を見上げ、月森は長い溜息をつく。
ここ最近の休日は、どちらかが駄目でも必ず土曜日か日曜日かのどちらかには、香穂子が月森に教えを乞いに、家まで来ていた。
ただヴァイオリンの練習で過ぎていくだけだった月森の休日に、ここ最近はずっと彼女が、目新しい変化を与えていたのだけれど。
(次に逢えるまで……今日の夜、そして、明日。……明後日の、夜)
指折り数えて確かめる。
48時間とプラスアルファ。彼女と逢わない時間が続く。
明るく、屈託のない笑顔で。
月森の単調な休日に、確かな彩りを与えてくれていた彼女に、それだけの長い時間逢うことが出来ない。
……何故だか、そうして過ごす味気ない夜が、果てしなく長く続くように感じる寂しさを。
言い様のない感情に満たされて、上手く制御することの出来ない自分の心の在り方を。
月森は生まれて初めて、持て余すのだった。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:10.1.4】
連作なので、あとがきは最後の作品で!


