不意に間近で名を呼ばれて腕を掴まれ、月森はハッと我に返る。慌てて自分の腕を掴んだ人物に視線を向けると、心配そうな表情の月森の母・美沙がそこには立っていた。
「……お母さん」
「物思いにふけっているなんて、珍しいわね。パーティはつまらない?」
苦笑する母がそう言って首を傾げる。「いえ」と否定して首を横に振ったけれど、母はその月森の言葉を鵜呑みにはしない。
「仕方がないけれどね。私の仕事の関係者ばかりだから、貴方と同じくらいの年代の出席者なんていないし……話を聞いても、面白くはないでしょう?」
「いえ。……コンサートのことや、楽曲のこと……主にお母さんの演奏についてですが、聞いていれば俺の身になる話はたくさんあります」
これは、嘘じゃない。
パーティという場が苦手なのは元からで、それはこのパーティがどうと言うのではなく、月森自身の気質によるものだ。だから、パーティがつまらないかと問われて否定したのも嘘ではない。
つまらなくはない。身になることはたくさんある。
だが、どうしようもなく。とにかくただ、月森はこういう場が苦手なのだ。
……それはもちろん、美沙にも分かり切った事ではあるのだが。
「でも、こういうところで貴方が居心地悪そうにしていることはしょっちゅうだけれど、全く別の事を考えているというのは、珍しいわ。……何か、気になることがあるんでしょう?」
にこにこと楽しそうに笑う母が、「さあ、話せ!」というオーラを醸し出している。……風貌は自分によく似ているが、この好奇心旺盛な性格は、残念ながら自分は譲り受けることが出来なかったらしい。
「……本当に、大したことじゃないんですが」
さすがに母に嘘をつく気はないし、どうせついてみたところで、自分の下手な嘘など看破されると最初から分かっている。
だが、母が聞いて楽しめるほど、面白い話ではないはずだから、月森は一応そう前置きをしておく。
「今、俺がヴァイオリンの練習を見ている人がいるんです。いつも週末はその人の練習に付き合っているんですが、俺の都合でその練習を反古にしてしまったので、きちんと練習が出来ているかどうか……気にかかってしまって」
「あら」
途端に、美沙の目がキラキラと輝いた。
「貴方が人にヴァイオリンを教えるなんて、更に珍しい話ね。……さては、女の子でしょう? そう言えば以前、茶葉の紅茶を飲み慣れていない人が飲みやすくて好みそうなフレーバーティを探していたわね。その相手も、その子なの?」
「……ええ、まあ」
母の食い付きっぷりに、何故だか居心地が悪くなる。
熱くなる頬を自覚しながら、それでも月森は何でもないふうを装って、端的に母の言葉に答える。
滅多に見ることのない、照れくさそうに俯く息子の様子に、美沙は驚いたように微かに目を見開いて。……そうして、その目を優しく細めた。
「じゃあ、ここ最近の休日はその子と一緒にヴァイオリンを弾いている訳ね。……貴方が練習を見てあげる気になるくらいだから、上手なんでしょう?」
……哀しいけれど、自分の息子を取り巻く環境は、美沙達が願うほどには優しく息子の音楽を見守ってはくれなかった。
ヴァイオリンで生きる道……音楽で生きる道を選ぶ以上、その道の先にいる自分達を、ないものにすることは出来ない。だからこそ、この目の前の愛する息子が、自分達の影で息苦しい思いをしないよう、音楽を、ヴァイオリンを心から楽しんで、自分の音楽を自由に演奏することを、言い含めて来たつもりだった。
だが、その思いが息子にきちんと届いていたとは、到底美沙には思えなかった。
技術は飛び抜けていると思う。我が子であるという欲目を差し引いたにしても。
それでも、彼の音は不自由だ。……音楽一家のサラブレットして彼の姿を見る世間の目が、彼の本来の音を雁字搦めにする。
……彼が通う高校の、学内音楽コンクール。
テーマだけを統一して、楽器も楽曲も自由に選べるこのコンクールに参加したことで、少しずつ、彼の音は『らしさ』を取り戻しつつあるとは思うのだけれど。
「……それが」
毋の言葉に応じる月森の、その表情に。
……美沙はまた、驚きで目を見開いた。
少しだけ、呆れたような。
困ったような。
小さな、小さな。……優しい微笑み。
「技量だけを見れば、全く未熟です。まだまだ素人の域を出ていない。……だが、時折びっくりさせられるような音を出すことがあって」
そして月森は、何かを思い出したように「ああ」と息をつくように呟いた。
「お父さんや……お母さんの音を思い出します。もちろん、レベルの差は歴然としていますが、彼女の音の優しさと穏やかさが……貴方達の音を思い出させる」
そう告げる月森の、穏やかな……母親の美沙ですら恐らく滅多に見ることの出来ない微笑みに。
美沙は、半ば確信に近い感情を抱く。
「……ねえ、蓮?」
「はい」
「貴方が言ってるのは、学内コンクールに出ていた、貴方と同じヴァイオリンの……確か、日野香穂子さんという名前の女の子。……その子、でしょう?」
「……ええ」
言い当てられて驚いた表情の月森が、戸惑ったように頷いた。
「……そう」
何もかもが、すとんと腑に落ちた気持ち。
小さく呟いた美沙が、微笑んで双眸を伏せた。
あの、学内コンクール以来。
自分の内にあるヴァイオリンと音楽とにしっかりと目を凝らして。
本来の自分の音を。
……何にも束縛されない、自由な音を。
この不器用な息子が掴めたのは、新しい『出逢い』があったため。
見慣れた白基調の音楽科の制服ではない、目新しい普通科の制服を着ていた、澄んだ瞳をしていた少女の顔を、美沙はおぼろげながら思い出す。
……今までに出逢ったことのない、上へ上へと高い場所を目指す自分の音楽と、異なるベクトルを持つ新しい音に彼が触れたから。
……きっと、彼は自分の音を別の角度から見ることが出来た。
「蓮。……その日野さんは、貴方の留学の事を知っているの?」
「……ええ」
頷く月森が、何故か。
少しだけ、表情を強張らせた。
「……彼女は、何て?」
静かな声で美沙が問うと、少し息を呑んだ月森は、小さな声でぽつりと呟いた。
「『頑張って』……と」
「……そう」
この言葉を告げることは、自分の息子にとって。
良いことなのかどうかは、分からないけれど。
「……よかったわね」
はっきりと、そう告げた美沙に。
月森は、少しだけ戸惑ったような視線を向ける。
「『よかった』……んでしょうか?」
「応援してもらえたのでしょう? 嬉しくは、なかったの?」
「いえ……嬉しいとは、思ったんですが」
最初に月森が留学の事を告げた時。
短期だと勘違いした彼女は、無邪気に喜んでくれた。
その後、長期の留学で、しばらくの間月森がこちらには戻って来ないことを知って。
……少しだけ、ショックを受けているように見えた。
前に彼女のヴァイオリンを指導していた王崎が、コンクールの準備の為に彼女の指導を断って、それを引き継ぐ形で自分が指導を引き受けたのに、また中途で指導を放り出すことになる自分の事を、怒っても仕方がないと思っていた。
だが、次の日に彼女は月森がいる練習室までやってきて。
少しだけ寂しそうに涙を浮かべて。……それでも笑顔で。
ずっと応援しているから。
自分も、日本でヴァイオリンを続けていくから。と。
頑張ってと、言ってくれた。それなのに。
……少しだけ、寂しさを覚えた。
あの時の、何とも言い表せない感情の事を、月森はいまだに分からないままでいる。
だから、応援してもらえてよかったと言う母の言葉に、素直に頷けない。
「ねえ、蓮。貴方の留学は……つまりは現状との『別れ』ということだから。寂しさや戸惑いは、あって当然なのよ」
黙り込んだ月森に、美沙は優しく諭すように、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「だけど、貴方が幼い頃から抱き続けていた夢を、その子は心から応援していてくれるのでしょう? だったらもうそれは、貴方がたった一人で見る夢ではないわ。叶うことを、一緒に願って、待っていてくれる人がいる。……それは、とても素敵で、幸せなことだと思うわよ」
息子が幼い頃から抱き続けて来た夢。
その夢に没頭するあまり、他の生きる術を学ぶことが疎かになってしまって。……生きることに酷く不器用になった。
無邪気に、他愛無く抱く夢でもなくて、最初から有刺鉄線がぐるぐるに巻かれているような、とても痛くて。……それでもそれ以外に生きる術を知らないから、離すことが出来ない夢。
彼が、一人で見続けていた夢。
それは本当に『夢』という名に相応しい、輝かしいものであっただろうか。
だけど、今の月森は。
憑き物が晴れたような、真直ぐに澄んだ目で。
……ヴァイオリンを初めて手にした時のような、キラキラと輝ける眼差で。
あの頃の夢を追い求め始めた。
それは、きっと。
彼自身に自覚はなくても。
彼一人の物だった痛みを伴う夢が叶うことを。
心から望んでくれる存在に出逢えたからだ。
人は一人では生きていけない。
夢が叶うことを、何の得もないのに、それでも一緒に喜んでくれる人がいるから。
辛いことも踏み越えて、耐え抜いて。
人は夢を掴むことができるのだろうから。
「……大切にしなさいね、蓮」
少しだけ寂しげに笑う母が、そう告げる。
どうして大切にしなければならないのか。
どうしたら大切にできるのか。
月森に分からないことはまだまだ沢山あるのだけれど。
「……はい」
大切にしたいと思っていることは、きっと間違いじゃないと思うから。
月森は、はっきりと頷いた。
(そう……俺は、彼女を大切にしたい)
月森が音楽に携わるのはある意味当たり前に見られてしまって。
誰にも月森にとってのその夢の価値を理解してもらえず、寂しがる幼い自分が、そんな痛みを覚えながらも捨てられなかった、見続けていた夢を。
彼女はきっと、遠く離れていても。
一緒に、抱き続けていてくれる。
……それは、月森の勝手な思い上がりかもしれない。だけど。
あの時、『頑張って』と言ってくれた彼女の笑顔を。……そして、涙を。
誰よりも自分こそが、嘘ではなかったと信じていたいから。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:10.1.5】
連作なので、あとがきは最後の作品で!


