昨日は母の海外ツアーの成功と帰国を祝っての関係者を集めたパーティ。今日は、その関係者達を対象としたコンサートが、月森一家が一泊したこのホテルの大ホールで開かれる。
月森はその合間の余興のような形で、母とのデュエットを予定していた。だからこそ泊りがけで、両親と行動を共にすることになった。
慣れ親しんだ自宅ではないとは言え、家族3人揃って食事をしたり、話をしたりすることは久し振りで、それなりに楽しくはあったが、月森はどうしても香穂子のことが気にかかってしまう。
パーティでの母との会話のせいもあるのかもしれないが、何だかベッドに横になっていても彼女の事を考えてしまって、熟睡することが出来なかったのだ。
(……コンサートは午後からだから、少しヴァイオリンを弾いて指慣らしをしたら、休息を取っておいた方がいいかもしれないな)
元々朝は弱いのだが、良く眠れなかったせいか、いつもより早めに目が覚めた。シャワーを浴びて、身支度を整えて。朝食を取るために泊まっている最上階から1階のレストランまでエレベータで降りると、ロビーで新聞を手に一人掛けのソファに座っている美沙に会った。
「おはよう、蓮。随分早いのね」
既に朝食を終えたらしい美沙は、食後のコーヒーのカップを手に取り、首を傾げて微笑みかける。おはようございます、と挨拶をした月森が、苦笑しながら小さな溜息をついた。
「夕べ、あまり良く眠れなくて……目が覚めてしまったんです」
「あら……それはいけないわね」
新聞をテーブルの上において、美沙は少しだけ表情を曇らせ頬に指先を当てる。慌てて月森が口を開いた。
「朝食を済ませたら、少し練習をして、きちんと休息を取るつもりです。午後のコンサートは万全の体制を整えて演奏しますので……」
「その必要は、ないわよ」
にっこりと美沙が笑う。
は?と目を見開く月森に、あっさりと言ってのけた。
「元々、貴方との演奏は一部の関係者の我侭みたいなものよ。無理をして弾くことはないわ。……うちへ、お帰りなさい」
「お母さん!?」
思わず月森が大声で叫ぶ。ロビーにいた全員の視線が一気にこちらに注がれて、慌てて月森は小さな咳払いをして、その場を誤魔化した。
「……どういうことですか、お母さん」
抑えた声で再度月森が確認すると、美沙は底の見えない笑みのまま、はっきりと言った。
「寝不足で、体調は万全じゃないのでしょう? そして、これはコンクールでも大勢を楽しませるためのコンサートでもないわ。貴方がどうしても弾かなければならないわけじゃない。一部の人達が喜ぶだけの余興みたいなもの。……だったら貴方は、本当に貴方を必要としている人を優先するべきではない?」
月森は、微かに目を見開く。
……母が、香穂子のことを言っているのだと分かった。
「……ですが」
「蓮」
月森の言葉を遮るように、美沙が息子の名を呼ぶ。
その声の強さに、反射的に月森は唇を引き結んだ。
「……また次があると思っていても、もうそれほど遠くはないうちに、その『次』が来なくなってしまうわよ」
「……」
「大切なものを……必要なものを、間違えては駄目よ。失くしてからでは、遅いのだから」
「……お母さん」
帰りなさい、と母は優しく笑って告げる。
……まだ己の心をよく理解していないままの不器用な息子に。
彼の複雑に絡まった心を解きほぐしてやることは簡単にできるけれど、月森自身が自分の心の在り処を見つけなければ意味がない。
助ける手を差し伸べることは必要だが、過保護は本人の為にはならないのだ。
「……ありがとう、ございます。朝食を取ったら、俺は一足先に家へ戻ります」
しばらく何事かを思い悩んだ後、きっぱりとした口調で月森は美沙に告げた。
軽く一礼をすると、食事をするために美沙に背を向け、レストランへと入っていく。
息子の背が見えなくなって、美沙は小さな溜息と共にソファにどさりと背中を預ける。目を閉じて天井を仰ぐと、ふと視界が急に陰ったのが分かった。
目を開いてみると、夫が自分の事を覗き込んでいた。
「やはり、蓮は帰すのかい? スポンサーの御老人達が、君と蓮とのデュエットをとても楽しみにしていたんだけれどね」
「機会さえ作っていただければ、これから先、いつでも御披露しますと答えておいてちょうだい。……ここで息子の恋路を応援しなきゃ、私はいつまで経ってもあの子に母親らしいことをしてやれないじゃないの」
頬を膨らませて、拗ねたように美沙が言う。
苦笑する夫は、息子が去った方角へと視線を向けた。
「……しかし、あの子が恋か。ヴァイオリンの事しか考えられない不器用な子だと思っていたのに、いつの間にか成長しているものだね」
「そうなのよ」
嬉しそうに笑って身を起こした美沙は、すぐに表情を陰らせて哀しそうに笑う。
「せっかくの初めての恋なのに、辛い恋になってしまいそうだけれどね」
留学は、彼が自分の人生の為に自分自身で決めた選択。
恋をしたからと言って、覆したり、諦めたりする類いのものではない。
それでも、淡い初恋くらいは、優しく甘い想い出になるものにして欲しかったのだけれど。
「まあ、君がそんなに心配しなくても、蓮の恋は蓮自身が自分で決着をつけるだろう」
もう、十七歳なんだから、と呟いた夫の言葉に。
今そのことに気がついたかのように、美沙は大きく瞬きをする。
「……そうね、もう、十七歳なんだものね……」
彼が成長する十七年間。自分はどれくらい、彼のその成長の過程を見ていられただろう。
……誰よりもあの不器用な息子を愛しているし、ピアノと息子を秤にかけて、どちらかを選び取ったつもりもない。
それでも確かに。
息子は美沙の目の届かない場所で、美沙の知らない成長を遂げている。
分からないなりに、懸命に模索しながら自分の音を探していた幼い息子が。
いつの間にか、人に恋をする年頃になっている。
「……嬉しいけど、寂しいわ。母親の気持ちって複雑なのね」
テーブルに頬杖をついて、愚痴るように呟く美沙に、夫は声を上げて笑った。
「母親に限らず。人の感情と言うものは、複雑なものなんだよ」
どこか達観しているような夫の言葉に、美沙は彼に視線を向け。
「……至言だわ」
と、感心しきりに呟いた。
身支度を整えて、外泊をするのに必要だった荷物は父に言って一緒に持って帰ってもらうように頼んで。
薄い黒の、裾の長いコートを羽織り、ヴァイオリンケースを片手に握る。
ホテルのドアマンに丁寧に一礼をされて見送られ、玄関につけられたタクシーに、月森は身を滑らせるようにして乗り込む。
「駅までお願いします」
タクシーの運転手に行き先を告げ、月森は片手に握った携帯を見つめながら、柔らかな座席に背を預ける。
……彼女は、どこにいるだろう。
家では練習がしにくいと言っていたから、海岸通か、以前好きだと言っていた臨海公園か。
それとも、あの時のコンクリートの堤防に座って、今日もまた海を眺めているのだろうか。
月森は、今も自分の心が良く分からない。
彼女を想い、自分がこんな気持ちになる仕組みを、解き明かしてはいない。
逢いたいような、逢いたくないような。
何かを話したいような、何も言えないような。
そんな想いが複雑に絡み合って、はっきりとこれだと言い切れる答えを見つけられない。
だけど、ただ一つ。
自分が彼女に言えることは。
この国で過ごす残り少ない時間は。
どうしても、彼女の傍で過ごしていたい。
彼女の音色に寄り添って、その音を記憶に焼き付けて。
自分は、次のステージへと進みたい。
彼女の事を好きだと言う土浦達の想いと。
この自分の中に絡み合っている想いが、同じかどうかなんて分からない。
……想いは目に見えるものじゃないから。
だけど、一つ一つの名前を知ることはない、このたくさんの想いを。
全てをひとまとめに箱の中に詰め込んで、その箱のラベルに名前を記せと言われたなら。
自分はやはり。
『恋』と言う名を記すのではないだろうか。
駅に向かうタクシーの窓に、流れ去って行く景色を見つめながら。
月森はそう思うのだった。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:10.1.7】
連作なので、あとがきは最後の作品で!


