平坦なように見えても

My confidence mucic 第21話

 駅に着いてタクシーを降り、月森はずっと片手に握り締めたままだった携帯電話のフリップを開く。指先で短縮番号を呼び出して、発信のボタンを押す。……ここ最近では、幾分慣れた行為。呼び出すのは、いつだってたった一つの番号だけ。
 コールすること数回。回線を繋ぐ音がして、慌てた様子の声が応じる。
『は、はい!日野です!』
 月森くん?と、表示から発信相手が予め分かっていたのであろう香穂子が、少しだけ自信のなさそうな声で尋ねた。
「……ああ」
 応える自分が、自覚しないうちに微笑んでいることを、月森は知らない。
『え? ど、どうしたの? 今日は、用事があったんでしょう?』
 香穂子の声に混じって聞こえる雑音。室内にはいないことが分かる。
「そうだな。用事があったんだが、急遽時間が空くことになったんだ。俺が出先からかけているから、今日は俺の家で、というわけにはいかないが……君は、今どこにいる?」
『えっとね。……臨海公園か、森林公園に練習に行こうかなと思ってて、今から電車に乗るところ』
 そうか、と答えながら、月森は駅の構内に入り、時刻表を確かめる。時間もまだ遅くない。どこにでも行ける。
「……日野。君がこの間、行っていた堤防があっただろう」
『う、……う、ん』
 香穂子の声が不自然に揺れるが、月森はそれに気付かない。
「そこで、落ち合えないか?」
『え?』
 驚いたような香穂子の声が、耳元で響いた。
『だって、あそこ潮風凄いし。練習には向かないよ?』
「……どうしても、練習をしなければいけないか?」
 香穂子の言葉にぶつかって来るような、およそ月森らしくない問に、戸惑う香穂子の気配が携帯越しに伝わってくる。
『……どうしてもってことじゃないけど。練習が出来なくちゃ、私と月森くんがこうして休みの日に逢う理由がない、よね?』
 静かな香穂子の言葉に、月森は微かに息を呑む。
 ……そう。確かにそれが、二人で同じ時を過ごすための最大の理由。
 だけど。
「……話したいことが、あるんだ」
『え?』
 低い声で呟いた月森に、先程と同じように驚いた香穂子の声が響く。
 ……ここに来て、自分が勢いだけで何もかもを乗り越えようとしていたことに、月森は気がつく。
 香穂子の言葉一つ一つで、我に返って。
 ……突然、緊張が襲って来た。
「君に、話したいことがあるんだ。できれば、あまり他人には聞かれないような環境で。……本当は俺の家が一番好都合なんだが、ここからだと、あの堤防に行く方が近いと思うから」
 あの堤防に行くために降りなければならない駅は、今から乗ろうとしている電車の沿線にある。家に一番近い駅で降りてみても、そこから十数分歩かなければならないし、香穂子も既に駅に向かっているのであれば、引き返すよりも効率がいいはずだ。
『……分かった』
 月森の真剣な声に、何を読み取ったのか。
 しばらく黙り込んだ後、香穂子がそう言った。
『月森くんは、どこから乗るの?』
 香穂子の問に、月森は視線を巡らせ、看板に表示された自分のいる駅の名前を香穂子に告げる。今から七分後に発車する電車に乗り込むと告げると、じゃあ、私の方が着くのが早いね、と香穂子は小さく笑った。
『先に行って、待ってるね』
「ああ。……寒い中、待たせてしまって済まないが」
 大丈夫だよ、と香穂子が明るい声で告げる。そうして、じゃあまた後でね、と言われて、通話を切って。
 月森は、盛大な溜息をついた。


 本当は。
 彼女に逢って、自分が何を言えばいいのかなんて、月森はまだ良く分かっていない。
 ただ、母に言われたあの言葉が、月森の背中を押している。

(大切なものを……必要なものを、間違えては駄目よ。)

 ……初めは、自分にとって、取るに足らない存在だった。
 本気で取り組んでいるのかどうかも分からないヴァイオリンとコンクール。音色は拙くて、一生懸命さだけは伝わるのだが、どうにも空回っていて、それが実力には結びついていない。……かと思えば、いきなりコンクールの上位に食い込むような音色を奏でたりする。
 それは、やはり月森を脅かすような技量を持った音色とは言えなかったけれど。
 どこか、心に染みていくような。素直で暖かい、優しい音色だった。
 ……彼女の気質そのままの。

 音楽一家のサラブレット。
 それが、自分に幼い頃から与えられた肩書き。
 本当の自分は、そんな強大な檻の中で、見下されたくなくて、幻滅されたくなくて。
 ……ただ肩書きに見合うものになりたくて。
 必死に、その中でもがいていただけだ。
 確かに練習を重ねて、費やした時間に比例して技術は磨かれていって。
 人に晒しても恥ずかしくはないくらい……聴かせても自分の肩書きが汚れることがないくらいの演奏力は、身につけたつもりだったけれど。
 それでも自分は、目指していた場所をいつしか見失い、ただ目の前に伸びている道を、なす術もなく歩いていただけだった。
 人によっては、何の障害もなく平坦に伸びているように見える月森の道も。
 この自分の足が踏み締める地面が、真直ぐな一直線の道に続いていても、そこには凹凸や、曲線や、様々な幅があるように。
 決して、何の起伏もなく、疑いなく迷いなく、一途に歩いていける道などではなかった。
 誰にも知られないように。気付かれないように。
 そんな凹凸に躓いて。
 緩いカーブをはみ出しそうになって。
 狭まった道に行き詰まるたびに。
 月森だって、足を止めて、どうしていいか分からずに、途方に暮れている時があったのだ。

 きっと、彼女は知らない。
 ……月森自身も、改めて思い返すまで、気付いてはいなかった。
 いつだって、そんなふうに。
 月森がどこにも行けなくなる瞬間に。
 彼女が、道を切り開いてくれていたこと。

 月森が必要とはしていなかったはずの世界の、その大切さを教えてくれて。
 ただ疎まれるだけだった月森の音色を、楽しみだと。
 ……好きだと言ってくれた。

 その言葉が、どれほど月森にとっての救いだったのか。
 ……どれほど、愛おしかったのか。
 自分自身でも良く分かっていなかったのだから、香穂子だって、当然知りはしないだろうけれど。


(……そうだな)
 電車の心地よい振動に揺られ、月森は微笑んで目を閉じる。
 彼女を想うたび、胸の奥がどこか、暖まるような心地。
 くすぐったくて、嬉しくて。
 ……幸せな気持ちになる。
(これが、きっと……『好き』という気持ちなんだ)

 平坦なように見えても。
 実質、平坦な『だけ』の道など存在しないから。
 この恋の道行きも、幸せなものだけではないのだと。
 月森も、知っている。

 この想いを彼女に告げても、彼女は同じ想いを返してはくれないかもしれない。
 ……万が一、同じ想いを返してくれたとしても、もうすぐこの地を旅立ってしまう月森は、彼女に未来への何の保証もしてやれない。

 それでも。

(……この想いは、きちんと俺から、君へ告げよう)
 叶っても、叶わなくても。
 告げて、そしてその行き先を見極めなければ。
 停滞したままの想いは、ただ自分を腐らせていくだけになる。
 大切だから。
 必要だから。
 この想いが芽生えたことを、『哀しい』だけで終わらせてはならない。

 たとえ、哀しい結末しか迎えない恋なのだとしても。
 彼女を好きになったことを、後悔だけで終わらせたくはない。

「……勝手だな、俺は」
 自嘲的に小さく笑んで呟いた言葉は、がたんと揺れた電車の喧噪にかき消されて。

 そして、車内に響いた無機質なアナウンスは。
 彼女の待つ場所へもうすぐ辿り着くことを、月森に教えてくれた。




あとがきという名の言い訳 【執筆日:10.1.9】

連作なので、あとがきは最後の作品で!

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