星屑が降るように

My confidence mucic 第22話

 遠くに見える水平線が、白くけぶって霞んでいた。冷たいコンクリートに直に座り込んでそんな海と空との境界線を見つめながら、雨が降っているのかな、と香穂子はぼんやりと考えた。
 赤のダッフルコートに包んだ身体は、海沿いの風に晒されて冷えている。ブラウンのショートブーツに押し込んだ爪先も、冷えきって感覚が鈍い。だけど不思議と、それを不快には思わなかった。
 今日は逢えないと思っていた月森に、明日を待たずに逢える。
 ……彼が言っていた『話したいこと』の内容がなんなのかは全然想像がつかないけれど、ただ予定外に逢えるというだけで、こんなにも嬉しい。
 恋って凄いな、と香穂子は折った膝に頬杖をついて、そんなことを呟いて微笑んだ。



「……日野」
 落ち着いた、低い声。頬から手を離して声の方を振り返ると、片手にヴァイオリンケースを抱えた月森が、長い黒のコートの裾を海風にはためかせて、そこに立っていた。
「あ、おはよう。月森くん」
 朝一番の挨拶だからこれだろうと、反射的に口を開き、香穂子はふと、先程の電話の時にこの挨拶をすべきだったことに気付く。「……今更ですが」と付け加えると、面白そうに月森が笑った。
「……隣に、行っても?」
 低い位置にいる月森が、香穂子の隣の空間を指差して問う。うん、と香穂子が頷いて、必要がないのにわざわざ身をずらして月森が上がって来るのを待った。
 丁寧にヴァイオリンケースを先にコンクリートの上に乗せて。それから月森自身が、この間のように意外な身の軽さで段差を登り、香穂子の隣に膝をつく。
「……寒かったんじゃないのか? 待たせてしまって、済まない」
「ううん。多分月森くんが思うほどには長い時間じゃないし。ここに来るのは慣れてるから」
 顔の横でひらひらと片手を振って、香穂子が笑うと、少しだけ申し訳なさそうに眉根を寄せる月森がそっと手を伸ばし。
 そして、香穂子の頬に触れる。
「……だが、随分と冷たくなっている。鼻の頭も赤くなっているし」
 過去に何度か触れたことのある、月森の綺麗な掌。
 冷たいけれど、人の体温を宿すその手は、確かに冷えきった香穂子の頬を暖めるのには充分なのだけれど。
 ……それ以上に、こちらの心臓の状態を気にして欲しい。
「あっ、あの!」
 かあっと一気に頭に血が昇るのが分かる。
 月森の掌から後ずさって逃げて、慌てて視線を反らしながら、香穂子は上擦った声で叫ぶように言う。
「は、話って、何かな?」
 何の前触れもなく、いきなり本題に入るのは不自然極まりなくて、自分の動揺が手に取るように分かるだろうなと理解はしていても、その時の香穂子には他になす術がなかった。
 そして視線を反らしてしまった香穂子には、その視界のほんの片隅にしか月森が映らないから、今、彼がどんな表情で、どんな気持ちで香穂子を見ているかなんて、分からない。
 とにかく、彼が何かを言って、この事態を動かしてくれるのを待つ。視界の隅に確かに存在する月森は、しばらくの間、動く気配もない。ただ沈黙だけが満ちて、遠い波の音だけがその沈黙を更に埋めていく。
「……日野」
 静かな月森の声。そこには、わずかだけれど緊張が溶け込んでいる。
「俺の方を、向いてくれないか?」
 顔を見て、きちんと話がしたい。と月森は言う。
 俯いた香穂子は内心「どどど、どうしよう!」と明らかに狼狽えているのだが、頑に「そちらを向かない」とは突っぱねられないし、その理由を聞かれても非常に困る。
 仕方なく、恐る恐る月森に視線を向ける。黙ったまま真剣な眼差で香穂子が自分の方を向くのを待っている月森と目が合って、小さな溜息と共に、観念した香穂子が、身体ごと月森の方に向き直る。ちょこんとその場に正座して、カラータイツの膝頭に握った拳を押し付けた。
「……一つ、君に確かめておきたいことがある」
 香穂子と同じようにその場に座り込み、何か言葉を探すように灰色のコンクリートの地面に視線を落とした月森が、ふと口を開く。小さく首を傾げて言葉の続きを待つ香穂子を、再び真直ぐに見つめ返す。
「この間、君をここに迎えに来た時。……君は、泣いていたんだろう?」
 月森の言葉を理解するのに、数秒の猶予を要した。その言葉の意味を正しく理解した香穂子が息を呑んで、ゆっくりと目を見開いた。
 そんな香穂子の反応を一つも見落とさないように、月森はじいっと香穂子を見据えている。
「……それは、俺の所為なのか?」

 月森には、気付かれないと思っていた。
 元来、人のそういう心の機微には無頓着な人だと思っていたし、何よりも月森には、今彼が一番気にかけなければなけない事柄があるのだから。
 自分の夢の為に、選んだ留学という道。
 ……彼の脳裏は、そのことだけで埋め尽くされていなければならない。
 香穂子という些末事が、うっかり入り込んでいいわけがないのに。

「……違うよ」
 反射的に、香穂子は何度も首を横に振る。
「違う、泣いてない。月森くんの所為じゃない……違うよ!」
「日野!」
 取り乱す香穂子の名を、叱る勢いで月森が叫ぶ。強い力で両肩を掴まれて、香穂子の華奢な身体がびくりと震える。
「……責めているんじゃない」
 先程の声量が嘘のような小さな声で、月森が呟く。
「確かめたいと言っただろう。……あの時の君の涙が俺の気のせいでないのならば、俺にも希望が持てると思っただけだ」
「……え?」
 意味が分からずに、香穂子がぽかんとして月森を見上げた。彼女の肩からそっと両手を離して、月森は軽くその手を拳に握りしめる。
「……今から俺が君に告げることは、随分と自分勝手なことなのかもしれない。君の気に触るのであれば幾らでも謝るから。……しばらく俺に、言いたいことを言わせてくれないか?」
 ぱち、と香穂子の大きな目が瞬きをする。じいっと何かを伺うように月森の顔を見つめて。それから唇を引き結んだ香穂子は、こくんと大きく頷く。
 ありがとう、と月森が安堵したように微笑んだ。


 始まりは、どこだったろうと思う。
 いつの間にか、心の奥底に自然に息づいていた想いだ。
 ……『そう』だと気付いたのは、もう本当に、ついさっきなのかもしれないけれど。
 だけど、数日かそこらで芽生えた想いじゃない。
 きっと、ずっと『そう』だったのだ。
 
 彼女のヴァイオリンの指導を引き受けた時?
 今までの自分なら選ぶことのなかった穏やかで優しい曲を最終セレクションに選んだ時?
 彼女の、ヴァイオリンに対しての葛藤を知った時?
 閉じ込められた自分を探しに来てくれた彼女が、自分の演奏を心待ちにしていてくれると知った時?
 伴奏者に背を向けられて絶体絶命の彼女が、それでも逃げ出さずにステージ上に登った時?

 今になって考えてみれば、きっかけはたくさん存在していた。
 輝きを放つ優しい欠片が、彼女と過ごした日々の中に、無造作に散らばっていた。
 始まりは。
 ……そう、始まりは、きっと。
 初めて月森のヴァイオリンを耳にした彼女が、興奮した面持ちで、懸命に、嬉しそうに。
 ヴァイオリンって、こんなに綺麗な音が出るんだね。と。
 無邪気に月森に語った、あの瞬間。


「……俺は、君が好きだ」
 迷いない声で、はっきりと。
 月森は、香穂子から目を反らさずに、そう告げた。
「……月森、くん」
 呆然と目を見開く香穂子が、震える、掠れた声で月森の名を呼ぶ。
「君が好きだ。友人ではなく、同じヴァイオリニストとしてではなく……一人の女性として。……もうすぐ君から離れていくだけの俺のこの想いは、……君にとっては迷惑なだけものにしかならないだろうか?」
 ならば、切り捨ててくれてもいいから、と。
 少しだけ哀しそうに笑って、月森は双眸を伏せた。

「……ずるい」
 海風にかき消されそうな小さな声で。
 香穂子が、ぽつりと呟いた。
「ずるいよ、月森くん。そんな言い方って……」
 責める香穂子の言葉に、月森は自嘲的に笑って溜息をつく。
「そう、ずるいのかもしれないな、俺は。……こういう時にどういうふうに気持ちを伝えればいいのか、よく分からない」
 もうちょっと、セオリーとか手順とか、月森がよく知らない暗黙の了解と言うものがあるのかもしれない。だけど、月森はこんな想いを自分ではない誰かに抱くことも、それを相手に告げることも、初めての経験だから。
「そうじゃなくて!」
 香穂子が、大きく首を横に振る。
 そうして顔を上げた香穂子に、月森は微かに息を呑んだ。
 彼女の柔らかな曲線を描く頬に流れる、大粒の涙。
「ずるいよ、月森くん。……迷惑、だなんて、言えるわけ、ない……」
 しゃくりあげて辿々しく紡がれる香穂子の言葉の意味を、月森は最初、捉え損なって。
 とにかく、慰めようとその肩に手をかけて。
 不意に目が覚めるみたいにそのことに気がついて、彼女の肩を強く掴んでしまう。
(……迷惑、ではない?)

「……ずっと、……月森くんが、好きだったの」
 月森の直感を肯定するように。
 掌で頬の涙を乱暴に拭いながら、香穂子が告げた。


 叶わないから。
 ……叶っても離れ離れになるしかないから。
 だから、想いを告げない、なんて。
 そんなのは、ただの言い訳なんだって初めから香穂子は分かっていた。
 本当に叶わないと諦めているのなら。
 どうせ終わってしまう恋だと割り切っているのなら。
 こんな不毛な想いは月森にさっさとぶつけてしまって、完膚なきまでに玉砕して、次の恋に向かう方が遥かに建設的だった。
 だけど、何よりも香穂子は今の関係を壊したくなかった。
 例えば、この想いが叶わなくても。
 想いを告げないままでいれば、それ以上離れる事はない。
 友達以上の関係にはなれないが、友達のままではいられる。
 告白して、気まずくなって、留学を期に月森との縁が自然消滅する……それが一番、香穂子には怖かったのだ。
「……あの時、庇ってもらって、抱き締められて。……凄く嬉しかったけど、月森くんは、それを気にしてないって思って……そういう状況でも、平気で一緒にいられるくらい、女の子としては見てもらえてないんだって思って……哀しくて」
 余計に、踏み出すのが怖くなった。
 一緒にいれば、どんどん好きになって想いは募って。
 もっと近付きたいという欲求だけは膨れ上がっていくのに。
「……あの時の俺は、ただ、君に距離を取られることが怖かった。……君が男としての俺を恐れて、離れていってしまうのが怖くて……今になってみれば、随分無様だったとも思うのだが」
 苦笑する月森が、そっと香穂子の頬に触れる。今度は、香穂子も逃げない。
 瞬きをするたびに涙がほろほろと降り落ちて、月森の手の甲に痕を残す。
「……俺は、近いうちに、君を置き去りにして、夢を追う」
 きっぱりと告げた月森の言葉を、香穂子はただ、月森の目を真直ぐに見つめ返して聞いている。
「それでも、俺が君を好きなことだけは、もう疑いようがない。……傍に、いてくれるだろうか? 俺が旅立つ、その時まで」
 卑怯な言葉だと、月森は思う。
 勝手だとも。
 だけど、そんなふうに胸を痛める月森とは裏腹に、香穂子は月森の言葉に、嬉しそうに微笑んだ。

「一緒にいて、いいの?」
「……ああ」
「月森くんの、彼女として?」
「……君が、俺の想いを受け入れてくれるのなら」

 紡ぐ言葉の一つ一つが。
 遠くの水平線に落ちる雨のように降り落ちて、二人の心に沈む。
 それは、きらきらと光り放って。
 暖かいぬくもりを宿して、切ない恋に傷付いていた胸の中に輝く。

 ……まるで、暗い夜空の表面を。
 星屑が降るように。


「……寒くはないか?」
 香穂子の涙が治まるのを待って、ふと思い付いたように月森が尋ねてくる。
 不思議と、彼を待つ間に感じていたほどの寒さはなくなっていた。
 泣いたり話したり、いっぱい新陳代謝促したからかな?と考えつつ、寒くないよ、と答えようと顔を上げて。
 それから、少しだけ緊張したような眼差で香穂子に見入って、その答えを待っている月森に、小さく笑った。
「……寒い、かも」
「……そうか」
 少しだけ安堵するように息をついた月森が呟いて。
 そうして、彼の腕が不意に動いて、強く香穂子の身体を抱き締める。コートの奥の肌触りのいいシャツにそっと頬を埋めて、香穂子はそこに、月森の速い心臓の鼓動の音を聴いた。
 ……告げられた言葉も。
 頬に触れた大きな掌のぬくもりも、一生忘れられないくらいに記憶の中に焼き付いたはずなのに。
 その鼓動の速さと、抱き締められた腕の強さを感じて初めて。
 ……月森からの告白が夢ではないのだと、香穂子は実感する。

 決して、ここで何もかもが終わる物語じゃないけれど。
 今だけは、この幸せに酔っていたくて。

 香穂子はただ、月森の胸に寄り添って。
 静かに目を閉じた。




あとがきという名の言い訳 【執筆日:10.1.10】

連作なので、あとがきは最後の作品で!

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