家の中にいつも通りの声を残して、これもまたいつも通りの行ってらっしゃい、気をつけてねという母の声を背に、玄関を後ろ手に閉める。
そうして、門扉を押し開いて低い階段を降りたその瞬間の景色だけが、いつもとは違っていた。
「……おはよう」
少しだけ照れたように微笑んで、塀に寄りかかるようにして香穂子を待っていた月森が言った。ぱちりと大きく瞬きをした香穂子が、ぼんやりとしたまま反射的に「おはよう」と言葉を返した。
「どうした? 何か驚いているようだが」
香穂子の反応に、小さく首を傾げる月森が尋ねた。
慌てて首を横に振る香穂子が、頬にかかった髪を指先でかきあげながら、呟く。
「あ、あの。ごめんね。……夢じゃないんだなあって、思っちゃって」
昨日、夕方まで月森と二人で時間を費やして。
夕闇が迫る頃、家まで香穂子を送り届けてくれた月森が、「明日から、一緒に学校に行かないか?」と誘ってくれた。二つ返事でそれを承諾して、何だか落ち着かないままベッドに横になって、浅い眠りの淵を漂ってみたけれど、全てが、目が覚めると跡形も消えてなくなってしまう夢の中の出来事のようで。
でも、玄関から一歩外に出て、そこに約束通り月森が待っていてくれたことで、昨日の一連の出来事が夢ではなかったのだと、思わず感慨にふけってしまったのだ。
「……行こうか」
香穂子の言葉に、小さく笑う月森は何も言わない。
ただ、そう促されて、香穂子はうん、と素直に頷いた。
「この時間で、早過ぎたりはしないか?」
「ううん、大丈夫」
迎えに来る、と月森が提示した時間は、香穂子が通学していた時間と比べて、少しだけ早めの時間だったけれど、それはいつものんびりと朝を過ごしているためだし、特別無理をするような時間帯ではない。
「そうか。だったらコンクールに向けて朝練が出来るな。もう本番まで残り少ない。金澤先生に言って、朝から練習室が使えるように申請しておこう」
「……あー」
そういうことか、と香穂子は苦笑する。
確かに、自分を取り巻く急激な変化にすっかり忘れていたけれど、まずは目前に迫ったコンクールを乗り切ることが香穂子に課せられた重要な案件だ。どんな結果であろうと、自分が納得出来る結果を残さなければ、忙しい時間をやりくりして練習を見てくれている月森に申し訳がない。
「それと……昼休みに、時間はあるだろうか?」
「うん、今日の5限は移動教室じゃないから大丈夫。……えっと、練習室に向かえばいい?」
昼休みも休息返上で練習なのかと思い、香穂子がそう尋ねると、苦笑する月森が小さく首を横に振る。
「……予定がないなら、一緒に昼食を取ろうと思っただけだ。……その」
少しでも、一緒の時間を過ごしたいから、と。
香穂子から視線を反らした月森が、どこか照れたような口調で言った。
「あ、……う、うん」
つられるように赤くなった香穂子が、辿々しく頷く。
ぎこちなく会話を紡ぎながら十数分間の通学路を歩き切り、その間に、昼休みが始まった頃にエントランスで待ち合わせることを、とりあえず約束した。
「じゃあ、俺はこっちだから」
校門を過ぎたところで、音楽科校舎の方に爪先を向けた月森が、香穂子を振り返ってそう言った。
「……また、後で」
「……うん!」
また後で、と香穂子は月森にひらひらと片手を振る。
とても他愛無い約束。それでも。
当たり前に交わされるその小さな小さな約束が、たまらなく嬉しかった。
そして、そんな香穂子達の他愛無いやりとりを。
遠くから、見つめている人影があった。
「……日野!」
普通科校舎の廊下で、授業間の10分程度の休憩時間に、香穂子は呼び止められた。振り返ると、廊下の混雑の間を縫うようにして、長身の土浦が香穂子に歩み寄って来た。
「あれ、土浦くん。どうしたの、こっちの教室まで」
何か、用があった?と香穂子が首を傾げると、ちらりと周りに視線を巡らせた土浦が、指先で香穂子を招く。
「ちょっとさ、お前に確認したいことがあるんだよ。……時間、取れるか?」
「休み時間で、足りる?」
「……分かんね」
土浦の様子に、簡単に終わる話ではないのかもしれない、と香穂子は直感する。慌てて傍にいた仲の良いクラスメイトに次の授業の板書を頼み、サボりを覚悟で、香穂子は土浦に導かれるまま、屋上へと向かった。
「……お前、さ」
鉄製のドアを鈍い音を立てて閉じるなり、土浦が切り出した。
「月森と……何か、あったか?」
通学時、並んで歩いている二人を遠目に見た。
香穂子が月森からヴァイオリンの指導を受けていることは知っているし、顔見知りならば、偶然通学時に顔を合わせれば、目的地は同じなのだし、一緒に登校することは別段不思議なことじゃない。
だが土浦は、一目で二人の関係が、休み前とは変わってしまったことに気付いた。どこがどう、と表現出来るわけではない。強いて言うのならば、直感だ。
……彼女を好きな男としての、直感。
土浦の問に、香穂子は一瞬目を見開き。
頬を染めて俯くと、小さな声で「付き合うことになったの……」と。
土浦にとっては、残酷な一言を告げるのだった。
「お前……っ!」
怒鳴りかけて、土浦はすぐにこれは彼女を怒鳴り付ける場面ではないのだと気付く。真直ぐに自分を見つめている香穂子から目を反らし、頭に血が昇りそうになるのを必死で堪えた。
「お前、分かってんのかよ。付き合うって言っても、アイツは……」
土浦が全部言ってしまわなくても、香穂子はその言葉の辿り着く先に気付いたらしい。少しだけ哀しそうな笑みを浮かべ、香穂子は頷いて、視線を足元に落とした。
「うん……すぐに、留学しちゃうね」
「だったら、何で……!」
月森は、香穂子よりもヴァイオリンを選ぶ。
それが、最初から分かっているのに、どうして。
それでも、と。
香穂子がはっきりした口調で土浦に告げる。
「……私が、月森くんを、好きだから」
俯いた、視線を上げて。
まっすぐに土浦を見据えてそう告げる香穂子の眼差は。
土浦が初めてみる、芯の強い、誰かを愛する女性の眼差だった。
いつから、好きになったのかは分からない。
おせっかいで、危なっかしくて。
手を伸ばさずにはいられない、不安定さ。
その反面、否応なく土浦を巻き込んでしまう影響力の強さを持っていて。
どんな逆境にも、決してめげない。
凛と顔を上げて、いつだって前を見る。
……そんな姿勢に、恋をした。
……本当は、分かっていた。
そんなふうに、真摯にまっすぐに。
音楽や、目の前に立ち塞がる困難に、彼女が立ち向かっていくのは、彼女しか持ち得ない、彼女だけの目標があるからだって。
その彼女の目指すものが。
……憧れて止まないものが。
土浦がどうしても相易れる事の出来ない、あの不器用でプライドの高い男の持つヴァイオリンの音色だと、初めから知っていた。
「……それで、いいのか?」
それでも、最後の悪足掻きで。
土浦は、香穂子の真意を問う。
「離れ離れになるのに。置いていかれるのに、お前はアイツで、いいのかよ」
香穂子の大きな目が、数度瞬く。
土浦の言葉に、彼女が何を読み取ったのかは分からない。それでも。
一度瞼を閉じた香穂子は、目を開いて、真直ぐに土浦を見つめ。
迷わない口調で、告げる。
土浦の想いを完膚なきまで叩きのめす。
……最後通告を。
「月森くんでなきゃ、いらないの」
(……あーあ)
そこまで言うか?と、土浦はもう、呆れて笑うしかない。
彼女は土浦の想いを知らない。だから、責めることも出来ない。
土浦が彼女にしてやれることはたった一つ。
「だったら、いい。……月森がいなくなっても、めそめそすんなよ」
慰めねえからな、と土浦が悪態をつく。
大丈夫だよ、と香穂子は。
躊躇いなく、……屈託なく笑った。
彼女の揺るぎない想いを知ってしまった以上。
土浦に出来ることはもう。
彼女の他の男との幸せを、祈ることだけ。
本当は、分かっていた。
初めから、彼女の気持ちがどこを向いているのかなんて。
それが分かる程度には、自分は彼女の事をずっと見ていたのだから。
月森の想いにも気付いていた。
同じ想いを持っている自分からすれば、『隠す』『誤魔化す』という器用さを持ち合わせない月森の気持ちは筒抜けだった。
ただ、その不器用で鈍感な男は、なかなか自分の気持ちにすら、向き合うことが出来ないみたいだったけれど。
明らかに通い合う想いを、ただ見ているだけでいることは辛くて、自分が彼女に何かを告げることで、動かすことができればいいと。
……そんなふうに考えていたのだけれど。
(無駄足かよ)
土浦の予想よりずっと早く。
あの二人の距離は縮まってしまった。
だけど、それこそが、この不毛過ぎる想いに終止符を打ってしまいたかった。
土浦の、待ち望んでいた答え。
「……土浦」
屋上に香穂子を残し、階段を降りていると、下方から階段を昇って来ていた人物の声が、不意に響く。
今は、壮絶に聴きたくねえ声だったなと、土浦は舌打ちをする。
「授業中だろ、何でこんなところにいんだよ」
「自習なんだ。……それに、今ここにいる君に言われる筋合いはない」
不機嫌を隠さずに土浦が月森を見下ろすと、同じように不愉快そうに月森が応対する。ふい、と土浦が顎で上階を示す。
「……日野がいるぜ」
「……!」
月森が息を呑む。
この男に自分の想いを宣言したのは、つくづく間違いだったなと、今更土浦は後悔する。
「……初めから、分かってたことだったんだ」
言い訳のように聞こえるかもしれないけれど。
強がるのが、土浦の最後の意地だ。
「だから、間違ってもお前が俺に謝るんじゃねえぞ」
低い声で告げ、土浦は月森の横をすり抜けて、階段を降りていく。すれ違いざま、「……泣かすなよ」と釘も刺して。
「……土浦!」
慌てたように月森が名を呼び、踊り場で足を止めた土浦が肩越しに月森を振り返る。そんな土浦に、何かを言いかけて、口籠って、やめて。
そして月森は一つ吹っ切るように、小さく首を横に振った。
「そうだな。……俺は、謝らない」
きっぱりと告げた月森は、手摺に片手を乗せ。
珍しく、土浦に強気に笑いかける。
「……もし、俺が逆の立場だったら。君に謝られたら、腹立たしいことこの上ないだろうから」
言って、月森は階段を足早に昇り始める。
思わずぽかんと口を開けた土浦は、なす術もなくそんな彼の背中を見送った。
「……いけすかねえヤツ!」
誰もいない踊り場に、反響の残る言葉を吐き捨てながら、土浦は、屋上に背を向ける。
……そこにいるはずの、二人に。
大丈夫。
まだ、立ち上がれないほどに叩きのめされたりはしない。
これは、自分が次へと進んでいくために。
待ち望んでいた答え。
だから、意地なら張れる。
……行き詰まっていた自分の道を切り開いてくれた。
誰よりも、好きだと想っていた彼女の。
幸福を、願うくらいの意地ならば。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:10.1.11】
連作なので、あとがきは最後の作品で!


