夢中で君を追いかける

My confidence mucic 第25話

 授業を終えて、予約をしていた練習室に辿り着くのと同時に、ジャケットのポケットに入れていた携帯が振動した。取り出してみると、メールの着信を知らせる青ランプが点滅していて、未読のメールを開いてみると、それは香穂子からのものだった。
『ちょっとだけ、練習室に行くのが遅れます』
 ……元々、香穂子が生活している普通科校舎は、月森の音楽科校舎と比べて練習室が遠く、彼女がわざわざ遅れて来る、と連絡してくるということは、何か特別な用事でも出来たのだろうかと月森は推測する。それは間違いではなかったようで、息せき切った香穂子が練習室に現れたのは、授業が終了して、一時間近くが経過した頃だった。

「お、遅くなってゴメンね!」
「それはいいが、ヴァイオリンを持っているのに走って……」
「うん、それもゴメンね!」
 月森が皆を言う前に、先回りをして香穂子がぺこんと頭を下げる。率先して謝られてしまっては、二の句を告げることが出来ず、月森は小さな溜息をつくだけに止めるしかなかった。
「……何か、急な用事でも出来たのか?」
 無理矢理に聞き出したかったわけではないのだが、他に言うこともなくて、何気なく口にした問に香穂子は少し答えに迷う素振りを見せる。不躾だったのかと月森が気付いて、答えなくてもいいと伝える前に、荷物を床にゆっくりと置いた香穂子が、月森に向き直った。
「あのね、……早乙女先生のところに行って来たの」
 思いがけない名前を聞いたことに、目を見開く月森に、香穂子は更に意外な言葉を告げた。

「コンクールの結果がどうであろうと、もう無理に、先生に指導を乞うことはありませんって、言いに行って来たんだよ」


 元々の動機が不純だったのだ、と香穂子は苦笑いした。
「月森くんみたいなヴァイオリンが弾きたくて。月森くんが幼い頃に影響を受けたっていう早乙女先生の指導が受けられたら、ちょっとくらい私にも、月森くんがずっと見てた景色が見えるかなって思ってたんだ」
 ちょうど、王崎という指導者をなくして、これからヴァイオリンを学んでいくための方向性を見失っていたということもある。いくら学内コンクールを乗り切って来たとはいえ、キャリアで言えば香穂子はまだヴァイオリンを始めて一年にも満たない。誰にも話せないことだけれど、魔法のヴァイオリンという、ある意味反則的な手段を用いて音楽の世界に足を踏み入れてしまった所為で、基礎という基礎もまともには身につけておらず、自己流でヴァイオリンを学ぶには、限界がある。
 指導者が欲しい気持ちには、今でも変わりはない。自分にどのくらいの成長が望めるのかはまだまだ未知の領域だけれど、例え月森のような実力者にはなれないのだとしても、まだスタートラインに立ったばかりの自分が、自分でここが限界と納得出来るラインに辿り着くまでの道程は、充分に残っていると思っている。
 だが、無謀にしか思えない学外コンクールでの入賞を条件にしてまで、自分の指導者を早乙女に頼みたいと意固地になったのは、ただ、彼が過去に月森の演奏に多大なる影響を与えた人物だったからに他ならない。冷静になって思い返してみれば、絶対に早乙女でなければならないというわけでもないのだ。
「しかし、コンクールはどうするんだ? そのために、休暇も惜しんで練習を重ねて来たのに……」
 困惑する月森に、香穂子はにっこりと笑い、あっさりと告げる。
「参加はね、するよ。もしコンクールに入賞して、早乙女先生が本当に指導をしてくれるなら、それもありがたいと思ってる。……でもね、『それ意外に道はないんだ』って、視界を狭めるのは止めにしようって思ったんだ」
 伝手もないし、ヴァイオリンを続けることにあまりいい顔はしてくれない家族の手前、高い授業費を払ってヴァイオリン教室に通うことも躊躇われていた香穂子にとって、新しい講師の情報は正に『渡りに船』という感じだった。それが、香穂子が憧れて止まない月森のヴァイオリンに影響を与えたという講師ならば、何としても教えを乞いたいと思ったし、今でもそう出来ればそれが最善だとは思っている。
 だが香穂子は、最近になってようやく気がついたのだ。
 ……例え、このことが上手く行かなかったとしても、自分がヴァイオリンを続けることには何の支障もないのだと。

 月森が留学することを知って、それまで以上に自分が焦りを覚えたことは否定出来ない。初めから遠い場所にいた月森だけれど、もっともっと頑張って、何もかもを見失うほど夢中で追いかけて行かなければ、距離を空けられる一方だと思っていたから。
 少しでも近付きたい。……追い付きたい。
 そして、できれば月森と同じ景色をこの目に映したい。
 そうしたら、自分はもっと月森のヴァイオリンの音色を……月森と言う人間そのものの事を、理解出来るのではないかと考えたから。
「だけど……」
 静かに瞼を伏せた香穂子は、ゆっくりと目を開けて。穏やかな笑顔で、月森を真直ぐに見つめる。
「今なら月森くんは……月森くん自身のことを、私に教えてくれるよね?」
 香穂子は、ただ意味もなく上手くなりたかったわけじゃない。
 月森が目指すような、遥かな高みを望んだわけじゃない。
 初めて耳にした時から魅せられた、繊細で、綺麗な月森のヴァイオリンの音色。
 ただ、その音を追いかけて。
 そこに近付くために、月森がこれまで見て来た風景を、理解したいと願っただけだ。
「今の自分の実力を試すのに、コンクールに出ることは悪いことじゃないと思ってるの。だけど、その結果が駄目駄目で、早乙女先生に教えてもらえなくなったとしても、私はもう大丈夫だよ。……指導してもらえなくたって、私が月森くんの音を目指して、追いかけていくことには変わりないんだって。それが、ちゃんと分かったから」
 もし、その香穂子が頑張ったことの結果が、あの教師の頑な心を動かせたなら、それでいい。言うことはない。
 だけど、結果が出せないのだとしたって、コンクールに参加するための理由を、そこだけに求めたりはしない。

 ヴァイオリンに……音楽に出逢うまで。
 何もなかった香穂子の日常。
 楽しいこと、嬉しいことはそれなりにちりばめられていたはずのあの頃に。
 これほどまでに夢中になれるものは、存在しなかった。

 だから、きっと。
 例えば、願うとおりにはいつまでも上手くなれなかったとしても。
 思い描いたとおりの演奏が、なかなか出来なかったとしても。
 拙く、不器用に紡いでいく旋律すら、香穂子には楽しくて。
 とても、大切なものだから。
 無理をしなくても。
 背伸びをしなくても。
 香穂子はこれからもずっと。
 ヴァイオリンを。……音楽を。
 好きなままでいられる。

 そうして、継続していくことこそが。
 目の前に確かに存在する、月森の音色という明確な目標を夢中で追いかけていくことが。
 きっと未来で、ずっと先を歩いているはずの月森に追い付くために、香穂子が許される唯一の手段だ。


 香穂子の言葉を黙ったまま聞いていた月森が、ふと小さく瞬きをする。
「……君のその言葉を聞いて、早乙女先生は、何と言っていた?」
 顎に指を当て、うーんと思い返す香穂子が、ちょっとだけしかめツラになる。
「……『それは、所詮お前の都合だろ?』って、鼻で笑われたよ」
 まあ、そうなんだけどねえと、香穂子が肩を落とす。
 その香穂子の口真似が意外にも、あの傍若無人な口の悪い講師の特徴を捉えていて、思わず月森は息をつくように笑う。

 ……そう、全ては香穂子の都合だ。
 だが、結局のところ、月森もこうして彼女の都合に巻き込まれ、振り回されている。
 素直で、野心のない。……だが、純粋な心でヴァイオリンが上達することに貪欲になる彼女は、最後にはきっと、あの頑な講師すら巻き込むことになるのだろう。

 ……奏者・指導者として名高いあの講師は、熱心に教えを乞われることは、日常茶飯事のことだろうけれど。
 『教えなくていい』と言われたことは、ほとんど経験がなく。
 彼にとっては随分と珍しく、面白い出来事であろうから。


 そして、彼女の言葉は。
 月森にとっても、嬉しくて、幸せで。
 ……ずっと、心に留めておきたいような宝物。

「……俺を、追いかけてきてくれるのか?」
 生まれて初めて、彼女が心の底から夢中になれるもので。
 遥か彼方、未来のどこかで。
 二人の道は交わるのかもしれない。
 たとえ、辿る道は違っていたとしても。
 それは、同じ『音楽』という道だから。

「……うん」
 はっきりと言葉にして。
 大きく頷いて。
 香穂子は、月森の言葉を肯定する。
「私らしいやり方で。私が持てる力全部で。……ずっとずっと、月森くんを追いかけていくよ」

 そっと伸ばしあった指先を、緩く繋ぐ。
 この指先は、永遠には繋いでいられないけれど。
 ……いつかは、離さなければならない瞬間が来るけれど。
 それでも歩いていく道の彼方でもう一度、繋ぐ時が来るように。

 その瞬間を夢に描きながら。
 生まれて初めての夢中になれるもので。
 香穂子は、ずっとずっと、大好きな音を。
 ……大好きな人を。
 追いかけて、生きていく。

 夢も目的も何もなかった過去のつまらない自分を、嫌になるくらいに覚えているから。
 今の香穂子にとって、そんな一途な人生は。
 とても充実した、幸せなもののように思えるのだった。




あとがきという名の言い訳 【執筆日:10.1.15】

連作なので、あとがきは最後の作品で!

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