目覚めの瞬間

My confidence mucic 第26話

「ああ、そうだ。暇な時間にお前がコンクールの時に弾いた演奏の録音を聴かせてもらったが」

 授業合間の移動時間。偶然廊下で出会った早乙女静講師は、先を急ぐ月森の都合に頓着することもなく、前触れもなく話しかけて来た。
 小脇に教材の類いを抱えて廊下を歩く月森は、まさかかつての恩師を邪険に扱うわけにもいかず、気付かれないように小さな溜息をついて、のんびりと歩く早乙女の歩調に合わせて、少しだけ前に進む速度を緩めた。
「お前、音が変わったな」
「……は?」
 意外なことを言われたとばかりに、目を見張って月森は大柄な早乙女の顔を凝視する。前を見据えたままの厚い眼鏡のレンズの奥にある恩師の表情は変わらなくて、彼が何を思って突然そんなことを言うのかが、月森には分からない。
「昔は上手いだけで楽譜通りの、つまらん音しか出さなかったが、ちょっとは人間らしい音を出すようになった。いくらソリストが最終目標とはいえ、昔のままの面白みのない演奏のままなら、留学しても無駄なだけだと思っていたが……」
 今なら、留学して得るものがきちんとあるかもしれないなと、一人頷いた早乙女の表情は、相変わらず飄々としたままで分からなかったけれど。
 その口調から、彼が月森の変化を喜んでくれていることだけは、何となく伝わった。
 ……もしかしたら、どうしても早乙女の言うことを理解することが出来なかった幼い頃の月森を知っているからこそ。
 過去には見つけられなかった『自分にとって、ヴァイオリンは何なのか?』という早乙女の問の答えを見つけた、今の月森の変化を、早乙女は単純に面白がっているだけなのかもしれないけれど。


(上手いだけのヤツなら、掃いて捨てるほどいるんだよ)
 月森が別教室に辿り着くまでの間、何故かずっと月森にくっついて来た早乙女は、過去に一度月森に告げた言葉を、もう一度繰り返した。
(ただ楽譜通りに、世間一般周知の解釈で曲を弾くのであれば、人間がヴァイオリンを弾く必要はない)
 個性があるから、面白いんだろ。と。
 早乙女が言った言葉の意味が、今の月森には確かに理解ができる。

 誰からも愛される、両親、祖父母……偉大な家族達の音楽。
 あんなふうになりたいと、……上手くなりたいと、必死で練習を重ねていた、少し前までの自分。
 どうして『そう』なりたいのかすら見えないまま、優秀な成績を残していれば、いつか彼らのような音が弾けるようになるのではないかと、迷走していた自分。
 ……自分が、道を間違っていると教えてくれたのは、香穂子だった。
 周りにいる自分以外の演奏家は皆ライバルで。
 隣に立つ者よりもより先へと、互いを振り落とし、押し退けて進むのが当たり前だと思っていた。
 だけど、そんな中で彼女は。
 ライバルである自分の演奏を、楽しみにしていると言ってくれた。
 その一言は、月森にとってとても衝撃的な言葉で。
 そして、自分自身にとってのヴァイオリンを見直すための、きっかけをくれた。

 他には、何も出来ないから。
 ヴァイオリンで音楽を作り上げることだけが、月森に出来る、自分自身を曝け出す方法だから。
 ヴァイオリンも、音楽も。
 自分にとって、何よりもかけがえのないものなのだ。

 初めて、そんな自分自身の『想い』を込めて弾いた、学内コンクール、最終セレクションの演奏は。
 曲目は、難易度的にはそう難しいものではなかったと思うのに、何故か今までにない高評価を得たのだった。



 6限が移動教室だったため、ホームルームの時間が少し押してしまった月森の方が、珍しく練習室に辿り着くのが遅くなってしまう。予約を入れていた練習室に近付くと、防音の扉の向こうから聴こえて来る、微かなヴァイオリンの音色。
 技術的には拙くて、弾いている楽曲もそれほど難しくはない音で。
 音楽科の生徒ならば、眉をひそめてしまう演奏だろう。……だが、今の月森には何よりも愛おしい音色。
 優しくて、暖かい。
 彼女の人柄そのままの、素直な音色。
 上手くはなくても、確かに人の心を惹き付ける音色というものを。
 彼女の音色に出逢って、月森は初めて知った。
 そして、自分が幼い頃から目指していた音も。
 ……原点は、こんなところにあるのだと。

 そっと、扉を押し開く。
 入口に背を向けて、演奏に集中している香穂子は、月森が辿り着いたことに気付かない。後ろ手に、音を立てないように扉を閉めると、室内に彼女の拙い、優しい音色が満たされる。
 決して、それは月森の『理想』の音色ではない。
 何かを学んで、吸収して、糧にしていくための音にはならない。
 それでも。
 確かに頑な月森のこれまでの演奏に、プラスの影響を与えていく。

 ……今まで、何にも心を動かされることのなかった自分が。
 間違いなく、揺らされてしまうから。


「……香穂子」
 ぽつりと、演奏にかき消される小さな声で、月森が呟く。
 だが、演奏に夢中だったはずの香穂子にはきちんとその微かな呟きが耳に届いたようで、部屋を満たしていた『パッヘルベルのカノン』は、中途半端なところでぷつっと途切れてしまった。
「えっ……アレ?」
 慌てた様子の香穂子がヴァイオリンと弓とを手にしたまま、くるりと月森を振り返る。そこにいる月森を見て、更に驚いたように目を丸くした。
「アレ、嘘。いつの間にいたの?」
「そうだな……2分ほど前だろうか」
 律儀に答える月森に、びっくりしたあ、と胸を押さえて笑った香穂子は、また何かに気付いたように、訝しげに眉を寄せた。
「……じゃなくて。ちょっと待って。……今」
 怪訝な表情のまま、香穂子が伺うように月森の方を指差す。小さく笑う月森が、視線を伏せた。
 今度は彼女にきちんと聴こえるように。
 歩み寄って、1メートルも彼女との距離が開いていない場所から。
 ……呼んでみる。
「……香穂子」
 溜息をつくように、優しく月森の声で紡がれた自分の名前に。
 香穂子は、呆然と月森を見上げた。
「これから君を、そう呼びたい。……迷惑、だろうか?」
「ううん……ううん!」
 慌てて香穂子が何度も首を大きく横に振る。
 恥ずかしいけど、嬉しくて。
 他に言葉が出て来ない。
「……俺は?」
「え?」
 片手を上げた月森が、指先でそっと香穂子の頬にかかる髪をかき上げる。月森に言われた意味が分からず、ぽかんと口を開ける香穂子に、月森は苦笑する。
「俺が、君を名前で呼ぶのに。……君は、呼んではくれないのか?」
「あ、そっか……」
 月森の無茶な要求に素直に納得した香穂子は、唇を引き結び、少しだけ思い悩むように空に視線を巡らせる。おそるおそる「……れ」の形に唇を開いた香穂子は何度か、声を出そうと懸命に構えるのだが、結局それ以上続けられずに、軽く握った拳を額に押し当てる。
「……あー、駄目……恥ずかしくって。ハードルが高過ぎるよ……」
 真っ赤になって俯く彼女を。
 可愛らしく恥じらう彼女を。
 ……不意に。
 抱き締めてしまいたいと、月森は思う。

(……どうして?)
 想いが届いて。
 あの堤防で彼女を抱き締めた時には、ただ幸せで。
 こんなふうに、甘い穏やかな幸せが、自分が旅立つその時まで、続いていくのだと信じていた。
 だが、たった今分かった。
 『穏やかな幸せ』など、どこにもない。
 欲望は、生まれるのだ。
 一つが叶えられれば、また次の欲望が。
 穏やかな幸せでは満たされない、焼け付くような欲望が。
 ……限りなく。

 ヴァイオリンを弾くためには。
 一流のソリストと呼ばれるためには。
 人間としての個性が……人としての感情が必要だと、恩師は言った。
 だが、こんなものまで。
 こんな穢らわしいものまで、自分は自分ではない誰かに曝け出して、ヴァイオリンを歌わせなければならないのか。
(……君が、好きで。とても好きで)
(名前を呼びたくて、……抱き締めたくて)
 そうして、いつか。
 それだけでは、耐えられなく来る日が訪れるだろうという予感がしている。
 ……しかも、それは。
 おそらく、遠くはない未来に。

 ゆっくりと、その欲望を昇華させていくには。
 自分たちに残された二人で過ごせる時間は、あまりにも短い。

「月森くん……?」
 黙り込んだ月森を不安げに見上げ、香穂子が小さく名を呼んだ。
 心配をかけないようにと、微笑んでみせたけれど。
 誤魔化すことが上手くない自分は、きっととてもぎこちない笑顔しか、返せなかっただろう。
(……それでも君には)
(まだ、曝け出すのは怖い)

 月森の心の奥底で。
 音も立てずに静かに生まれる。
 愛おしいものを求め始める。
 『欲望』の、目覚めの瞬間。

 その「触れたい」と願う穢れた感情が、『恋』だと割り切ってしまうには。
 月森はあまりにも、そんな感情に不慣れ過ぎた。




あとがきという名の言い訳 【執筆日:10.1.16】

連作なので、あとがきは最後の作品で!

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