自分の奏でるヴァイオリンの音色を追いながら、香穂子はちらりと視線だけを窓際で壁に寄りかかって空を見上げている月森へと向けてみる。
特に表情を浮かべていない端正な顔は、思っていることが透けて出にくい。月森がそんなふうに感情を表には出さない人だということは、そんなに長くはない、出逢ってからの数カ月の時間の中でも、充分に理解出来るほどの基本装備なのだけれど。
……少しずつ近付いていく二人の距離を、躊躇うような素振り。
香穂子は、こういうふうな矛盾したぎこちない態度に覚えがある。
他でもない、数日前までの自分が月森に対して、取り続けた態度だ。
名前で呼んでくれて。
そっと、何気なく触れてくれて。
確かに、今までは気付かなかった、月森が自分へと向けてくれる愛情を、香穂子は実感している。
溜め込むことが苦手な自分は、月森が想いを告げてくれて、そして香穂子が月森へと向ける想いを解放することを許してくれたことで、随分と気持ちが楽になったように思う。
両想いだということが分かったから。付き合うことを決めたから、それで全てが何もかも丸く収まったわけじゃない。月森があと数カ月もしないうちにヨーロッパに長期留学してしまう事実は動かしようがなく、その時点で互いの想いがどうであれ、離れ離れになることは間違いがない。
……本当は、その後の香穂子の想いの行く先は、香穂子の中では既に確定している。離れる日が来たら、そのことをはっきりと月森に告げようとは思っている。
だけど、それはその日、その瞬間が訪れてから考えるべきことで。
今はただ、通い合う想いの暖かさや幸せを、しっかりと噛み締めることが最善なのだと香穂子は考える。……そうすることが、離れる事を知っていても、想いを告げる決心をしてくれた月森も、同じように望んでいることだと思ったから。
言いたいことが言えなくて。
心に嘘を付いて、誤魔化して、それでも捨て切れずに抱え続けなければならないことの痛みを、香穂子は身を持って知っている。
それがどれほど苦しくて、辛いものなのかが理解出来るから、月森にはそんな思いをして欲しくはない。
月森が何か躊躇する想いがあるのなら、それを受け止めるべきは香穂子だ。……自惚れなのかもしれないけれど、月森の自分を愛おしんでくれる態度が、少しだけ香穂子に自信をくれる。
香穂子が受け取るべき想いならば、きっと、受け止めることができるはずだ。
……受け止めてもらえないと諦める心の痛みを知る香穂子だからこそ。
「……月森くん」
ヴァイオリンを弾く手を止めて、香穂子は窓際に佇む月森を呼ぶ。
月森は小さく瞬き、弾かれたように身を起こす。……今更ではあるが、月森ほどの実力者が、香穂子が全く心ここに在らずで弾いていた中身のない演奏に気付かないわけがない。中断させることもなくあのスカスカの演奏を続けさせていた時点で、月森の心も、今はヴァイオリンの上にはなかったのだ。
「すまない。……何か、分からないことがあったのか?」
我に返って、そう香穂子に尋ねた月森に、香穂子は小さく首を横に振る。ソファの上に置いていたヴァイオリンケースの中に愛器と弓とを置き、香穂子はゆっくりと月森に歩み寄る。
ほんのわずかに開けた窓の隙間から、もう冷たくなってしまった秋の風が忍び込み、微かにカーテンを揺らす。それを背に受ける月森が、戸惑ったような表情で距離を詰めた香穂子を見下ろした。
「どうしたんだ?……香穂子」
呼び慣れなくて、少しだけ躊躇いがちな月森の声で紡がれる香穂子の名前。彼の声で形作られるだけで、自分の名前がひどく愛おしいものに思える。
……まだ、同じようには呼べないけれど。
「あのね、月森くん」
そう遠くはない未来に。
自信を持って、堂々と、その名前を呼べるように。
できるようにならなければならない、たくさんの事。
「……隠さずに、私に話して欲しいの。月森くんが私の為に考えてる、いろいろなこと」
簡単に、他人と他人が理解出来るなんて思わない。
隠し事をしてはいけないとも思わない。誰もが、血を分けた家族にすら言えないような、不可侵の領域を持っているものだと思うから。
だけど、それを言いたい気持ちがあるのなら。
曝け出したいと願いつつ、それでも何かを躊躇って、胸に抑え込んでしまう気持ちがあるのなら。
……話して欲しい。
受け止められるかどうかなんて分からない。結局何一つ支え切れなくて、余計に月森をがっかりさせてしまうだけなのかもしれない。
それでも、伝えてもらえれば、一緒に思い悩むことができる。
全部ができるかどうかは分からなくても、どこまでできるのかを考えられる。
そんなふうに一人で抱え込まずに、一緒に分け合うために、短い残された時間を、二人で過ごすことを決めた。……それが出来るようになった時に初めて、香穂子は月森の名を、自信を持って呼べるような気がする。
「……君は、鋭いな」
苦笑する月森が、視線を伏せて自分の足元を見つめる。
香穂子はぎゅっと両手を拳に握り締めて、月森が出す答えを見守ってみる。
やがて、何度か躊躇いがちに口を開きかけて、閉じることを繰り返していた月森が。
ぽつりと、落とすように呟いた。
「……自分が、どんどん……欲深く、穢れていくような気がするんだ……」
好きという想いだけで。
傍にいるだけで、幸せを感じていられた頃は、そんなに昔の話じゃないのに。
名前で呼ぶことも。
触れることも。
彼女は、簡単に許すから。
一つ願いが叶ったら、いつしかその願いは、当たり前のことになってしまって。
次の願いが生まれてくる。それは、どんどんと欲深いものになっていく。
もっと、貪欲に。
更なる幸福を求めてしまう。
「今は、君の名前を呼ぶだけで。……手を繋いで、傍にいることだけで満足出来る。だが、おそらく、すぐにそれだけじゃ足りなくなる。……俺はきっともっと、君が欲しくなってしまうんだ」
今まで、そんな想いを経験したことがない月森には、それがどれくらいの速度で押し寄せて来るのかは分からない。だが確実に、一つだけ言えることは。
もう既に、自分のそんな想いが、香穂子の想いを追いこしてしまっていること。
彼女よりも一歩前へ、進み始めているということ。
……ささやかな幸せで、充分に満たされていた頃には。
もう、戻れないということ。
月森の言葉の余韻が、静かな練習室の中に残る。
香穂子の顔が見れなくて、ぎゅっと目を閉じ、自分を抱きしめるようにして壁に寄りかかったままの月森の腕に。
そっと、細い指が触れた。
恐る恐る月森が目を開くと、月森の腕にそっと両手を添えた香穂子が、嬉しそうに頬を染めた。
「……香穂子」
「あのね、月森くん。思い出してみて。……私があの時、あの堤防で泣いたのは、月森くんが私を女の子として意識してくれないって思ったからなんだよ」
抱きしめても、ただ転びそうな香穂子を助けただけなのだと。
淡々と振る舞っていた月森に、香穂子は傷付いた。
「確かにね、今の私、満たされてる。……月森くんに好きだって言ってもらえて、名前で呼んでもらって、優しくしてもらって……まだ、それ以上のことは、考えられないでいる」
だけど、と香穂子は顔を上げる。
怯えることなく、躊躇うことなく。
曇りのない笑みで、月森に笑いかけた。
「だけど月森くんが、そんなふうに私を見てくれることが、本当に嬉しいの。だから……月森くんの気持ちに、ちゃんと追い付いていけるかは、分からないけど」
願いがあるのなら、教えて欲しいと香穂子は言う。
それが、どんな願いであったとしても。
求められるのが、香穂子自身であるのならば、きっとそれは香穂子にとって。
幸せなばかりの願いごとだ。
想いの育つ速度は、男女の違いで少しばかり差が出来るのだとしても。
香穂子も、そして月森も。
お互いが『好き』だからこそ、新しい願いが生まれることに違いはないのだ。
だからきっと。
いつか、芽生える願いの種類は。
二人、同じものになる。
「……君、に」
月森の震える声が、小さく呟く。
緩く曲げられた冷たい指が、そっと香穂子の頬に触れた。
「……触れたい」
「……うん」
私も、と。
香穂子が小さく頷く。
名前では、まだ呼べないけれど。
欲しがる気持ちの速さと強さは、異性である自分たちには、いつしか差が生じてしまうかもしれないけれど。
それでも、今、この瞬間に願ったことは。
きっと、月森も香穂子も……同じ。
もう、戻れはしないから。
互いの想いを知らなかった……この焼け付くような愛おしさを知らなかった。
無垢なあの頃には。
月森と同じように、香穂子の暖かな指先が、そっと月森の頬に触れる。
身を屈める月森と、背伸びをした香穂子の唇が、風に揺れるカーテンの陰で、そっと触れ合う。
一瞬だけ、その柔らかさを感じて。
目を開いて。至近距離で、見つめ合って。
……微笑み合って。
そして、伸ばした両腕の中にお互いの存在を捕らえて。
時を忘れるくらいの。
長い、長い、優しく触れるだけの。
可愛らしい、初めての口付けを……した。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:10.1.17】
連作なので、あとがきは最後の作品で!


