やがて来る未来

My confidence mucic 第28話

 一度繋がっていたものが離れてしまうと、その後はもうどんな反応をしていいのか分からなくなる。
 とても自然に、当たり前に。そうなるべくしてなったという気持ちなのだけど、触れていた唇が離れて、背伸びして浮いていた踵を床について。
 縋り付いていた腕を解いて、数歩後ずさってみたら、後は何を告げればいいのか分からない。
 もしかしたら、月森も同じ気持ちなのかもしれない。先程までしっかりと香穂子を抱き締めていてくれた両腕はすっと身体の線に沿って下ろされていて、彼は何一つ、言葉を発しない。こういう時、世間一般の彼氏彼女と呼ばれる関係の人達はどうしているのかなあと考えながら、香穂子は恐る恐る、上目遣いに月森の方へ視線を向けてみた。
 月森は、香穂子を見ていた。香穂子が視線を上げるとばっちりと視線が合ってしまい、息を呑んだ月森の頬が朱に染まった。
 意外な反応に、自分が照れることも忘れて、香穂子は思わずまじまじと月森を見つめてしまう。香穂子が凝視するのに耐えられなくなった月森が、溜息混じりに視線を足元へと落とした。
「……あまり、見ないで欲しいんだが」
「あっ、ご……ごめん」
 反射的に恐縮した香穂子が、慌てて視線を外し、月森に倣うようにしてじっと自分の爪先を見つめる。
 そうして、お互いに照れながら向かい合っている自分たちの様子を顧みて……何だか急に、笑い出したくなってしまった。
「……香穂子」
 思わず本当に笑い声を零した香穂子を、諌めるように月森が呼ぶ。ごめん、ともう一度謝りながら、それでも香穂子はくすくすと笑い声を上げた。
「二人して照れまくって。何やってるんだろ、私たち……」
「それは……そう、なんだが」
 呆れたように笑いながら呟く香穂子に、困ったような声で月森が応じる。
 何だか、そういう些細な、くだらないことも。
 ……同じ気持ちで経験をするのなら、幸せなことなのだと香穂子は思った。
「……練習、しなきゃね」
 切り替えるように、香穂子が言って顔を上げる。
 下から覗き込むようにして月森の様子を伺うと、ぱちぱち、と瞬きをした月森が、まだ頬に赤味を残したまま、苦笑した。
「……ああ、そうだな」


 ……それでも、この恋は幸せなことばかりだけが存在するのではないと、香穂子も……そして月森も、きっと充分に分かっている。
 コンクールまでは一ヶ月弱。その後数週間もすれば、月森は香穂子の傍からいなくなる。……長い長い時間、二人は離れ離れになる。
 幸せな今は見たくはない。……だが、やがては。
 必ず二人の目の前に来る未来。

 枷を外した二人の心は、二人の想像以上のハイペースで成長をする。
 月森が言っていた通り、一つの段階を越えて、二人でいること、出来ることの些細な幸せを味わって。それに味をしめて、次の幸せや甘さを求めるうちに、お互いの気持ちにギャップを覚えることもあるのかもしれない。
 それも今、この二人が立っている場所からは、想像でしか語れない未来だ。


「月森くん……あのね」
 数十分、ヴァイオリンの練習を重ねて。
 二人でああでもないこうでもないと楽曲について言い合って。
 その話の流れのついでみたいに軽い調子で、香穂子は月森に話しかける。
「駄目な時は、ちゃんと駄目って、言うよ。月森くんの気持ちがどうであっても、そこで無理強いしたり、私の反応を変に曲がった解釈して、理不尽に怒る人でもないって知ってるし」
 突然の香穂子の話題転換に、今の今までヴァイオリンのことだったはずの話の方向性を一瞬見失い、月森は面食らう。だが、香穂子の言葉を脳内で反芻してみて、それが先程の……キスの前の話の続きなのだということに気付いた。
 そう言えば、こんなふうに。
 いつも、月森が予想していない方向へ飛び跳ねていく香穂子との会話が、彼女に惹き付けられた原因の一端だったことを思い出す。
「だけど、覚えててね。多分、月森くんが想像している以上に、女の子も充分に欲しがるものだから」
 にっこりと。
 屈託なく笑って告げられた香穂子の爆弾宣言に。
 月森は、思わず息を呑んで絶句し。
 それから、盛大な溜息をついて、がっくりと肩を落とす。
「……君という人は、全く……」
 ……おそらく、香穂子の『欲しがる』と言う言葉の意味と、自分が持つものの意味は、全く異なっている。
 簡単に、気負いなく口に出せるのが、その証拠だと月森は思う。
「えっと……なんか、マズかった?」
 月森の落胆っぷりに、香穂子が首を傾げて、おずおずと月森の様子を伺う。そんな香穂子にちらりと視線を上げ、月森はもう一度、大きな溜息をついた。
「……むしろ、少しは自重してくれた方が俺としては助かる。君は、あまりにも無防備過ぎだろう」
「ええ~……」
 不本意だとばかりに、香穂子が拗ねて唇を尖らせる。
 先程の発言といい、そういう……可愛らしい態度も充分に危険だと自覚して欲しいと思うのだが、おそらく行動に裏表のない香穂子には、言うだけ無駄なのだろう。
 仕方ない、と本日何度目かの溜息をつく月森に、がらりと雰囲気を変えた香穂子の声が、ぽつりと落ちるように響く。
「……でも、本当だよ」
 その香穂子の変化に驚く月森が、微かに目を見張る。
 視線を向けると、その月森の視線の先で。
 香穂子は、少し前の無邪気さが嘘のように。
「本当に。……月森くんが思うほどの、差なんてないんだよ」
 視線を落として、大人びた表情で。
 ただ、小さく微笑んだ。



 やがて、必ず訪れる。
 離れ離れになる未来。
 きっと、明確な夢を追う月森よりも、まだ手探りで自分の歩む道を探している香穂子の方が、ずっと、不安で。
 ……ずっとずっと、確かなものを、欲しがっている。
(きっと、月森くんは知らない)
 ようやく、恋をするという気持ちを実感した彼には、分からない。


 あの時。
 月森の家で抱き締められた、あの瞬間に。
 ……今の月森よりも随分と先に。

 やがて来る、未来の中に。
 彼に愛される自分が、存在していたらいいと。
 叶わないからと、この恋を諦めようとしていた建て前の裏側で。

 ……このまま、彼の腕の中で。
 彼のものになってしまえたらと。

 漠然とながらも違えることなく月森を欲した。
 香穂子の穢れた本心を。




あとがきという名の言い訳 【執筆日:10.1.19】

連作なので、あとがきは最後の作品で!

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