夕暮れが迫る帰り道。マフラーを巻き付けながら月森を見上げた香穂子は、明るい声でそんなふうに月森を誘った。香穂子と同じようにマフラーを首に引っ掛けていた月森は、両手でマフラーの位置を調節しながら、ふと考え込むように空を睨む。
「別に構わないが。……やはり、俺の家ではいろいろと……その、支障があるのだろうか?」
あの時、『疚しいことは何もしない』と告げた自分の言葉を、今やもう、月森は厳守出来る自信がない。段階も流れもなく、ただ彼女を求めるような真似はしないつもりだが、もう既に、一つ段階を昇ってしまっているから。
ただのキス一つでも、『疚しい想い』ではないとは言えない。そういう意味では、充分に自分はあの時の誓いを裏切ることになるのだと月森は思っている。香穂子が、今更それを嫌がったり、軽蔑したりすることはない、という確信はあるものの、一度誓ってしまったことは簡単に破られるべきではないと、自宅で二人で過ごすことを逡巡するのは、月森の生まれ持った誠実さだ。
……香穂子に告白してみれば、『融通が効かない!』と一蹴されることを、月森は知らない。
その証拠に、「支障って……」と香穂子は呆れたように呟いて、それから苦笑した。
「単純に、月森くんといろんなところに出かけてみたいな-って思っただけだよ」
言って、香穂子は躊躇うように言葉を切る。少しだけ迷う素振りを見せた後、寂しげに微笑みながら、視線を足元に落とした。
「……すぐに、一緒には出かけられなくなっちゃうし……」
「……香穂子」
戸惑うような月森の声。……この幸せな時間に、現実的なことを話題にするのは二人の感情に水を差すことなのだと充分に香穂子も分かっているのだが、見ない振りが出来るほど、この現実は遠い未来の話じゃない。
目を反らしても視界に入ってしまう類いのものであるならば、いっそ自ら直視した方が、充分な覚悟もできるというものだ。
「責めてるんじゃないし、嘆いてるんでもないの。ただ、もうすぐ月森くんが留学しちゃうのは、逃げられないことだから……」
「……そうだな」
香穂子の静かな言葉に、月森も小さく頷く。
留学は、月森が自分で選んだ人生だ。……それ以外に生きる道を知らないのだから、今更その自分の不器用さからは逃げも隠れもしない。
何よりも、そんな離れ離れになる未来も全て内包して、今の二人の恋があるのだから。
「離れ離れになるから……逢えなくなるからこそ、余計にそれまでの二人の時間を、よりよく、充実したものにしたい」
「……うん」
同じ結論に辿り着いてくれたことが嬉しくて、香穂子は笑って、先程の月森と同じように小さく頷く。
「……じゃあ、手始めに」
マフラーを巻き終えて、コートをしっかりと羽織って。
帰り支度を整えた月森が、そっと香穂子に片手を差し出す。
「ふえ?」
意味が分からず、香穂子は間抜けな声を発しながら、月森の差し出した手と、月森の顔を何度も見比べる。「鈍いな」と不機嫌そうに呟く月森が、照れたように頬を染め、視線を反らした。
「……手を繋いで、帰らないかと言っている」
「……言葉では、言ってない、……ですよ」
つられるように照れた香穂子が、ぼそぼそとマフラーに唇を埋めてくぐもった声で呟き。
「……っていうか、『鈍い』なんて、誰よりも月森くんには言われたくない!」
と笑い声で悪態をつきながら、ぎゅっと月森が差し出した手を握り締めた。
「月森くんは、賑やかなところ嫌だよね」
手を繋いで歩くことの効果は、ただ並んで歩くよりもずっと、二人の距離が縮まることなんだと香穂子は改めて実感する。とても近い場所に月森の存在があるから、あまり大きな声で話す必要がない。意識して抑えているわけではないけどいつもより小音量で言葉が伝わるから、まるで内緒話をしているみたいだなと香穂子は思う。
「確かに、人込みは苦手だが」
応じる月森の声も、……もしかしたらただの香穂子の錯覚なのかもしれないけれど、いつもより落ち着いて、優しい声のように思える。
「君が行きたいと言うのなら、ちゃんと付き合う。……君が好きだと思う場所は、おそらく俺にとっては馴染みがないものだから、珍しくて意外に楽しいのかもしれない」
その代わり、ちゃんとヴァイオリンの練習をしてからだ、と月森はしっかりと釘をさす。はい、と香穂子がいい返事をした。
「とにかく、今日注意した3箇所はちゃんと改善してきてくれ。そこがきちんと弾けるようにならなければ、次に進めない」
「ハイ、師匠!」
「……だから、師匠はやめろと」
「うん、冗談」
以前にも交わしたことのある他愛無い軽口だけれど、月森にヴァイオリンを教えてもらうようになった頃の軽口と、随分気持ちが違う。
少しでも、打ち解けられたら。
少しでも、心を通い合わせられたら。
あの時の自分は、無意識のうちに、そんなことを考えながら月森に接していた。普通の友達に対して振る舞うのと同じように、月森にも、変に気を使うことなく、接しなければならないと。
(……『ならない』?)
ふと、そんな気持ちを思い出して、香穂子は苦笑する。
(なんだ、本当に私って……)
この間の月森の言葉ではないけれど。
本当に、ずっとずっと。
……香穂子自身も気付かなかったくらい、ずっと前から。
自分は月森を、他の友達とは違う種類の人だと意識していた。
月森とは、女友達のように何もかもを全て曝け出すような『友達』にはなれない。
だけど、自分の事をどう思っていようと、ただその場限り、当たり障り上手くやり過ごせばいい『顔見知り』でも終わらない。
……月森に嫌われたくないから。
面倒な存在だと思われたくないから、他愛無い冗談を言うのにも、無意識で『変に気を使わないように』と、逆に気を使っていた。
他の誰が相手でも、こんな気遣いはしない。月森が相手の時だけ。……だから、その時には既に、月森は香穂子の『特別』な人だったのだ。
「あー、うん。だから、そうだ」
一人で納得する香穂子が、うんうんと頷く。
突然会話の流れも何もなく頷き始めた香穂子を、月森が怪訝な表情で見つめた。
「あのね、月森くん」
ぎゅっと、強く月森の手を握り返して。
香穂子が、真直ぐな目で月森を見上げる。
「さっきの話の続きと言うか何と言うか。……多分、私たちはもう、許し合えるんじゃないのかな?」
「……は?」
増々訳が分からない月森が、顔をしかめて尋ね返す。ええとね、と香穂子が言葉を整理するために足を止めて、空を睨む。自然、月森も仄かに明かりを灯す街灯の下で、足を止めることになる。
「妥協とか、諦めみたいなのじゃなくて……『ここまでなら言っても大丈夫』とか、『やっても怒られない』とか、そういう境界線、もう、ちゃんと作れるんじゃないのかなって思うの」
もう、ちょっとした冗談では、月森が本気で怒ったり嫌がったりはしないと香穂子には分かるように。
苦手な場所でも、香穂子が好きな場所ならばと、月森が許してくれるように。
……触れても触れられても。
『ここまでは同じ気持ち』と二人が、それぞれに。
無条件で、信じられるように。
「……月森くんが、留学して。……私を置いて、遠くに行くんだとしても」
視線を伏せて、静かに香穂子が告げる。
ゆるゆると、月森の目が見開かれた。
「私は、それを許せるの。……これって、すごく驕った、自己満足の感情なのかもしれない。……何よりも、許すとか、許さないとかそんなふうに言える問題じゃないのかもしれないけど」
寂しいけれど。
哀しいけれど。
……月森の人生の選択肢に、自分が何一つ影響出来なかったことは、辛いけれど。
それでも今、惹かれ合う想いが同じ強さのものであっても、躊躇うことなく香穂子よりヴァイオリンを選ぶ月森を、香穂子は許して。
……そして、そんな人だからこそ、彼を好きだと想う。
「……そんなに簡単に、俺を許して。君には、何かプラスの要素があるのか?」
香穂子の言葉を黙ったまま聞いていた月森は、ふと苦笑してそんなことを尋ねてみる。ええとね、とまた考え込んだ香穂子が、ぱっと表情を明るくして、月森を見上げた。
「月森くんのことをより一層理解して、月森くんとの絆が深まる!……とか?」
名案、とばかりに顔を輝かせて月森を覗き込む香穂子を、月森は絶句して見つめ。
次の瞬間、溜まらないとばかりに、盛大に月森は吹き出した。
「……月森くーん?」
「いや、すまない。……本当に、君は……」
頬を染めて、むう、と膨れる香穂子が月森を睨み付ける。ひとしきり笑った後、笑い涙が残る目尻を細め、月森が香穂子と繋いでいた手を離す。
そっと、曲げた指先で、香穂子の頬を撫でた。
「……許してくれるんだろう?」
「……許しますけど!」
でも、腹立たしいです、と香穂子が唇を尖らせる。小さく笑った月森が、指先を伸ばし、掌で香穂子の頬を包む。ぱちぱち、と瞬きをした香穂子が、緊張した面持ちで月森を見上げた。
「あの……月森くん」
「……何だ?」
「ここって、道路なんだけど……」
「そうだな」
「それでもって、今日……あの……」
二回目、とか?と。
か細い声で尋ねる香穂子に、月森は更に楽しげに笑う。
「簡単に俺を許す、君が悪い」
だが、と言いおいて。
月森はそっと、香穂子の顔を覗き込むように、彼女の額に自分の額をこつんと触れ合わせる。
「……俺も、君を許すから」
「……私、何か月森くんに、許されなきゃいけないこと、した……?」
「した」
端的に答えた月森は、それ以上は香穂子に告げず。
ただ、ほんのりと二人を照らす街灯の暖かな光の中で。
正確には本日三回目のキスを、彼女に送る。
目を閉じて。
互いの唇の柔らかさと、熱とを感じながら。
月森が彼女に与える、月森の都合でしか生まれない理不尽さ。
そして、無意識のうちに月森を煽る、彼女の犯罪的な可愛らしさとを。
全部、全部呑み込んで、お互いがその罪を許し合うことの意味は。
彼女の言う通り、ただ単に、自分たちの絆を深めることにあるのかもしれないと。
刹那的な幸福に酔う脳裏で、月森は考えた。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:10.1.21】
連作なので、あとがきは最後の作品で!


