少しだけ重くなった荷物を大きめのトートバッグに全て詰め込んで、もう片方の手にヴァイオリンケースを握り締めて、香穂子は家を出た。
学校へ行くのとは逆の方向。ここ最近は休日には毎週歩くようになった、月森に教えてもらった、月森の家へ続く近道の路地を抜けて、待ち合わせの児童公園まで。
少しだけ待ち合わせ時刻よりも早めに家を出てきたはずなのに、公園に到着すると、既にそこには月森がいた。
「おはよう」
「あっ……お、おはよう!」
出かけようと誘ったのは香穂子だし、学校でも、彼の家で逢う時にでも当たり前のように交わされる挨拶なのに、何だかこうして外で、何の不安もわだかまりもなく、私服で待ち合わせて。辿り着いた場所に月森が待っている、ということが新鮮に思えた。
児童公園の周りに張り巡らされた背の低い柵に、身を預けるようにして香穂子を待っていた月森は、ゆっくりと体勢を起こしながら、香穂子の大荷物に目を止める。
「……随分、たくさんの荷物だな」
「え!……あ、うん。せっかくのんびりしようと思って出かけるんだから、あんまり移動したりしなくても大丈夫なように、お弁当をね……」
「弁当?……君が作ったのか?」
どこか不安げに香穂子の抱えた荷物を見つめる月森に、香穂子はほんの少し拗ねて、頬を膨らませる。
「確かに、作ったのは私ですけど!ちゃんとお母さんやお姉ちゃんに味見してもらって、御墨付きだから大丈夫です!」
「ああ……いや」
怒ったように香穂子が叫ぶと、はっと我に返った月森が反射的に口元を掌で覆い、頬を染めて視線を反らす。
「そういう意味ではなく……その、こんなふうに誰かに手作りの弁当をわざわざ作ってもらったことがなかったから……う、……嬉しい、と」
あからさまに照れる月森に、何だか香穂子もつられて恥ずかしくなってくる。頬が熱くなるのを実感しながら、足元を見つめた。
「そ……れなら、よかったんだけど……」
しばらく、二人で何も言えないで、頬を染めたまま俯いている。……土浦辺りがこの光景を見ていたら、「馬鹿ップルが!」と罵られそうだ。
「……行こうか」
少しの沈黙の後、気を取り直すように月森が告げる。
うん、と頷いて慌てて顔を上げた香穂子の肩から、すっと伸びた月森の手が、トートバッグを奪い取る。
「あっ、あの! 月森くん?」
なす術もなく奪われたトートバッグを追いかけ、あわあわと香穂子が手を伸ばす。当たり前のように自分の肩にそれを引っ掛けた月森が、不思議そうにそんな香穂子を見つめる。
「どうした? そんなに慌てて」
「それ……重いし。私が勝手に持ってきたんだから、私が持つよ」
「……だから、俺が持つんだろう?」
小さく笑む月森が、ぽん、と香穂子の頭に掌を弾ませる。踵を返し、もう一度香穂子を促した。
「……行こうか」
それは、およそ月森らしくはない。
だが、確かに心を開いていてくれるからこそ現れるはずの何気ない仕草。
だから、その優しい掌の感触が、とても嬉しくて。
「……うん!」
指先で、月森が触れてくれた髪に触れて、そこにある温もりの残滓を噛み締めながら。
香穂子は頬を綻ばせて、歩き出した月森の背を追った。
落ち合ってから数十分。
月森の家を訪れるようになる前に頻繁に通っていた森林公園とは別の、高台にある公園に二人は辿り着いた。
住宅街を通り抜けて、緩い上り坂をしばらく登っていった後に突然開けるだだっぴろい場所。おそらくはその住宅街の子供達の遊び場として用意された空き地で、特に景色がいいわけでも、何か楽しい遊具があるわけでもない。だがその分ここを訪れる人間も限られていて、たまに草野球や少年サッカーチームが練習をしていることがあるくらいで、基本的に人の量が少ない場所だ。ヴァイオリンの練習をするのにも適した場所だとは思っていたのだが、如何せんここに辿り着くまでの上り坂がネックで、来てみようと思いつつ、なかなか実行には移せなかったのだ。
「こんな場所があったんだな……」
開けた空き地に、感心したように月森が言った。ゆっくりと歩いてきたものの、若干息切れをする香穂子が、胸に手を当てながらはあ、と息をついて、呼吸を整える。
「周りの住宅地は、若い夫婦が多くて、休日は皆、遊びに出ちゃうことが多いし、森林公園に行くより、は距離的に近い、から、月森くんちに、行くようにならなかっ…たら、ここに、練習しに来てたと思うんだけど……」
不自然な場所で言葉を途切れさせながら喋る香穂子に、こちらは案外平気そうな月森が、苦笑する。
「情けないな、あれくらいで」
「……ちっちゃい頃からヴァイオリン弾いてると、体力つくものなの……?」
がっくりと肩を落としながら、香穂子はちらりと横目で月森を盗み見る。香穂子の持ってきた大荷物を抱えているのに、月森は涼しい表情でそこに立っている。意外に重労働な『ヴァイオリンを弾く』という行為を幼い頃から続けてきた体力の為せる技なのか、それとも、元々の性別間の体力の差なのか。……何にしても、負けっぱなしなので、少しだけ悔しい。
「君が落ち着いたら、練習を始めよう」
「……はーい」
ベンチに座り込んだ香穂子が、月森の言葉にげんなりとしながら、力なくそろそろと手を上げる。苦笑する月森が、その香穂子の隣にヴァイオリンケースを乗せて、愛器を取り出しながら、言葉を続ける。
「……今日は、合わせて弾いてみようか」
「え!?」
がばっと身を起こして、香穂子がまじまじと月森を見つめる。その迫力に押されて、思わず月森は半歩後ずさった。
「あ、合わせるって、デュエットで弾いてみるってこと?」
「あ、ああ。あとできちんと君が俺の音に引っ張られないかどうか、違うパートを弾いて合わせてみようとは思うが、最初は同じ旋律で」
「分かった、今すぐ準備するからね!」
今の今までぐったりと項垂れていたのに、突然水を得た魚のように顔を輝かせて香穂子が立ち上がり、自分のヴァイオリンを準備し始める。その変わり身の早さに月森は唖然とし、そして。
嬉しくて、……微笑ましくて。
は、と息をつくように笑った。
「弾き初めのタイミングは君に任せる。コンクールで弾く『カノン』を頭から最後まで、君が練習している旋律で通してみよう。俺も同じ音で弾いていくから、ミスをしやすいところは指の位置や肘の角度などを注意して見ていてくれ。俺も気がついたところがあれば、後でまた指摘をするから」
「うん」
月森の説明に、真面目な顔の香穂子が神妙に頷いた。ヴァイオリンを構え、ちらりと月森に視線をやり。月森が一つ頷くのを見て、爪先でスリーカウントのリズムを取った。
(……うわ)
タイミングばっちりで、二人の音が同じ位置に重なる。どこか不安定な香穂子と比べて、やはり月森の音は完璧な揺るぎない音なのだけれど、全く同じ音階の、同じスピードで重ねていく音色は、綺麗に違和感なく溶け合っている。
どこか辿々しかった香穂子の音が、月森の奏でる音色に強引に足並みを揃えさせられて、ちょっとだけ引き上げられて高い景色を見る。たまに取りこぼす幾つかの音を丁寧に月森の音が拾い上げてくれて、まるで自分が弾いているものではないような綺麗な綺麗な『カノン』になった。
(……ちょっとだけ、優しい?)
いつもは、香穂子の手の届かないようなところにある、月森のヴァイオリン。でも、今はまるで香穂子に寄り添うように、香穂子の音色を支えてくれている。
彼の音色に支えられることは、こんなにも心地のいいものなのだと。
彼の音色に出逢って、もう随分と長い時間が経った気がするのに、香穂子はこの時初めて知った。
(……俺にもこんな音が出せるんだな)
いつもは、孤独に高い場所を目指す音色。
今日は、香穂子の為に弾くのだと分かっていたから、頭上を見上げずに、足元をしっかりと見つめるつもりの演奏で。
理想の、レベルの高い演奏だとはお世辞にも言えない。だがどことなく暖かくて、優しい音色。
……そう、幼い頃から憧れてやまない。
あの、両親の音色のような。
(……そうか)
いつだって、両親は。
自分ではない誰かの為に、音楽を奏でていたから。
『技術ばかりでは、駄目なんだよ』
こういうことか、と今更ながらに実感する。
分け隔てなく、誰かに寄り添い。
……優しくなる音色。
それが、自分が何よりも欲しかった。
……本当に手に入れたかった音色。
もう、それだけでは満足出来ない自分を、月森は知っている。
ただ暖かいだけの……優しいだけの音楽に、自分の人生を全てかけられはしないだろう。
だが、自分はこの音を知っている。
未熟でも、不安定でも。
心にそっと寄り添って、暖めるための音色。
道を極めることは、ただ優しいだけの甘い気持ちでは許されないことも分かっていて。
それでも。……この音があるから。
香穂子が、自分にこの音を教えてくれたから。
「……君に、何かを与えるためだったんだが……」
「え?」
怪訝そうに眉を寄せる香穂子に、小さく笑って月森は首を横に振る。
そう……自分と音を重ねることで、香穂子に何かを掴んで欲しかったのに。
結局、与えられたのは。
月森の方ばかりだったのかもしれない。
「ええと、……そろそろ休憩? ゴハン食べる?」
時間も忘れるくらいに、夢中で練習を続けていると、遠い街並の何処かから正午を知らせる音楽が流れて来る。律儀に練習を中断して尋ねてきた香穂子に背を向けて、月森はそっとベンチに腰を下ろすと、香穂子を手招いた。
「昼食にする前に、少し補充がしたい」
「補充?」
何の?と、深く疑う様子もなく、首を傾げて歩み寄って来る香穂子に。
どこまで無防備なんだろうと内心溜息をつきながら。
手を伸ばし、香穂子の腕を掴んだ月森は、強引に彼女を引き寄せて、自分の隣に座らせる。「ふえ?」と驚いたように呟く彼女の肩に、そっと寄り添って。
静かに目を閉じる。
「……君の、補充」
「……月森くん、キャラが違っちゃってない?」
ぶつぶつと文句を言うけれど、少しだけ緊張をして強張った彼女の身体は、それでも逃げようとしないから。
嬉しくて。
思わず微笑みながら彼女にもたれかかって、ぎこちなく、甘えてみる。
離れ離れになる瞬間は、足音が聴こえるほどに近付いているけれど。
それでも、その離れ離れになった後にでも。
オクターヴの音階のように、歩む道こそ違っても、同じものを目指して。
……この身は遠く離れていても、その心だけは寄り添うように。
どうか、ずっと。……ずっと、同じ気持ちを抱いて生きていけるように。
……そんな、途方もない願いを。
初めて月森は、心の底から。
切に願った。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:10.1.23】
連作なので、あとがきは最後の作品で!


