螺旋階段

My confidence mucic 第31話

 口に合わなかったらごめんね、と恐縮しながら二人並んだベンチの真ん中で香穂子が広げたお弁当は、おにぎりを主食とした、卵焼きやソーセージ、からあげなどを詰め込んだ、ごくありきたりのメニューだった。
「何が好きなのかな?って考えてたんだけど、お昼食べてるところじっくり見てるわけじゃないし、それで思い出す限りって、月森くんって、洋食が多いしね」
 ここ最近、学校では一緒に昼食を取ることも多くはなってきたと思うのだが、香穂子の記憶にある限り、月森はサンドイッチやカフェテリアでパスタなどをよく食べていた気がする。香穂子は御飯がメインの和食が多いお弁当を食べているので、いつもの調子で弁当箱におかずを詰めていて、改めて考えるとそういう月森の嗜好を全く把握していないことに気付いたのだ。
「嫌いなものを食べさせるわけにはいかないし、電話で聞いてみようかとも思ったんだけど……あの、どうせならびっくりしてもらいたかったって言うか」
 香穂子がお弁当を作ってくるなんて全く考えていないだろう月森に、サプライズ的に喜んでもらいたかったのだ。……無論、普通の付き合い初めのカップルのように、月森が『彼女』の手料理を喜ぶタイプかどうかすら、はっきり言えば香穂子には分かっていなかったのだが。
「そうだな……極端に甘いものとかでなければ特に好き嫌いはないが」
 香穂子に差し出された箸と取り皿とを受け取り、重箱の中を覗き込む月森は、至極真面目な顔で呟く。
「……あまり、馴染みのない昼食だな……」
「……ちょっと待って。どういうセレブ?」
 ……ほんの少しだけ、頭の隅で予想していた事態に、香穂子は思わず頬をひきつらせた。

「……美味しい」
 箸使いは丁寧に、香穂子の作った卵焼きをひとかけら口に運んだ月森は、何だかとても意外そうな声でぽつりとそう言った。
「そう? 甘いのか、そうじゃないのかで味付け悩んだんだけど、お出汁で味付けして正解だったかな~」
 水筒の蓋にお茶を注ぎながら、香穂子がどこか嬉しそうな声音でそう言った。はい、と差し出されたお茶を受け取り、月森が尋ねる。
「いつも、君は自分の弁当を作っているのか?」
「ううん。料理は出来るんだけど、朝起きるのが辛くて……お母さんの方が料理上手だし、ついつい甘えちゃう」
 それじゃ駄目なんだけどね、と香穂子が苦笑する。そうか、と、ちょっとだけ残念そうに肩を落とした月森に、はっと何かに気付いた香穂子が身を乗り出す。
「あ、でも! 月森くんが食べたいって言うなら、私作るよ! 毎日、月森くんのお弁当!」
「え……」
 勢い込んだ香穂子に、戸惑ったような表情の月森が、ぱちりと瞬きをする。その彼の反応に、先走った感を覚えた香穂子は、恥ずかしさで赤くなりながら、しおしおと元の位置に座り込む。
「あ、あの……そういうことじゃないんなら、いいんです……ハイ」
「……いや」
 身を縮めてちらりと月森を仰ぎ見た香穂子に、労るような優しい声の月森が、微笑みかける。
「毎日でなくていい。君が無理をしなければならないのなら、どうしてもとは言わないから……君の、準備ができる時に。また君の弁当を食べさせてくれると嬉しい」
「う……うん!」
 ぱっと香穂子の表情が明るくなる。作れる時にはメールするから、お昼の準備しないでね、と朗らかに香穂子が笑った。

 のんびりと御飯を食べながら。
 二人で、少し冷たい、穏やかな風に吹かれ。
 青い空を仰ぎ見て。
 ……幸せな時だと、思う。
 だけど、その幸福を噛み締めるとそこには、確実な別れの気配が見え隠れしていて。
 そういう不安を今だけは忘れていたいのに、幸せだと思えば思うほど……怖くなる。
 これほどに贅沢な幸せは、もうすぐ味わえなくなるのだと。

 明るく笑って振る舞う彼女からは、こんなぐるぐると巡って、複雑に絡み合う感情は見えて来ない。……もう今では、彼女が何も感じていないとは、さすがに思わないけれど。
 ……触れたいと。
 彼女をもっと深く知りたいと、心の奥底で燻る欲望は、こんな複雑な愛情から生まれて来るのかもしれない。
 どんなに願っても……願っても。
 やがては本当に、願いだけで終わってしまう瞬間が訪れることへの焦燥感。
(……俺は、俺だけの勝手な希望で、君の未来を縛ることは出来ない……)
 未来は不可視で。
 漠然と……混沌としていて。
 希望だけでは形作られない。その裏には、どんなに否定しても、振り払っても拭えない不安がある。
 ……この愛おしさが、お互いに未来永劫変わらないという保証なんて、どこにもないのに。
 離れていく自分は、彼女に待っていろと告げてもいいのだろうか。
 ……今はいい。こんなに甘く優しい愛情を返してくれる彼女は、月森の我侭を笑って受け入れてくれるだろう。
 だが、それがいつか重荷になる日が来たら。
 いつ彼女の元に帰るのか。その期限もはっきりとは告げられないのに。
 どこまで続くか分からない離れ離れの日々を耐えてくれと、自分は言えるだろうか。
 彼女が待てるだけの価値が自分にあると。
 何よりも月森自身が、そんなふうに自分を信じられるだろうか?

「……月森くん?」
 こわごわとした香穂子の声が響いて、月森ははっと我に返る。慌てて香穂子に視線を向けると、不安そうに月森を見つめる香穂子が、真剣な声で言った。
「ま……マズかった……?」
 瞬きをして、月森は自分の手元を見る。煮物を掴んだままの箸が、空中で止まっていた。
「いや、そんなことはない。……美味しい」
 小さく笑って、月森は口の奥に押し込んだ料理と共に、そんな自分の中に巣食う黒い感情を呑み込んでしまう。……今はまだ、この感情は蓋をしていても、何ら他に影響を及ぼさない。
 ……それは、いつかは直視しなければいけなくて。
 ただの逃げの行為なのだと、痛いくらいに分かっているけれど。


「わー、夕焼け綺麗だね」
 昼食を取って、その後少しだけのんびりと休憩をし、またヴァイオリンの練習を再開して。
 旋律を追うことに夢中になっているうちに、11月下旬の早い夕暮れは、ゆっくりと足元へ忍び寄ってくる。
 これと言って風景が綺麗な場所ではないけれど、開けた場所に広がる空は一面の茜色で、ふと視線を上げてそれに気付いた香穂子が、感嘆の声を上げた。
 つられるように、肩からヴァイオリンを下ろし、月森も茜色の空を見上げる。
 香穂子と時間を過ごすようになって、こんなふうに何気ない風景に目を向けることが多くなったと、改めて思った。
「あ、見てみて、月森くん。あんな場所に展望台がある」
 目敏い香穂子は、広場の片隅に設置されている、簡素な展望台に目を向ける。白い螺旋階段が設置された、味気ない場所。
「登ってみない?せっかくだから」
 悪戯を思い付いたような顔で笑って、香穂子が誘う。
「登ってみても、見える景色は大したことはないかもしれないが?」
 特別高いわけでもなく、変わった場所に設置されているわけでもない。少しだけ目線が高くなるだけで、広がる景色に取り立てて変化はないだろう。
「そんなの、実際目で見てみなきゃ、わかんないでしょ?」
 拗ねたように言った香穂子は、強引に月森からヴァイオリンを奪い取り、丁寧にケースの中に収めると、バタンと閉じて、鍵をかける。同じように自分のヴァイオリンを仕舞い込み、「景色を確認してから、ゆっくり弦緩めようね」と付け加えた。
 差し出された自分のケースを溜息混じりに月森は受け取る。受け取ると同時に、香穂子が月森の手を引いて、展望台の方へ月森を導いていく。
 ……どうせ、何も変わりはないだろうと思う心の裏側で、月森は、少しだけ期待をする。
 香穂子にこんなふうに強引に手を引かれ、導かれる場所にはいつも、月森が知ることのなかった、月森が掴み損なった大切なものが存在していたから。

 先を行く香穂子が、緩やかな螺旋を描く階段を、鼻歌混じりに登っていく。それに黙ったまま付いていく月森は、また……目の前を行く香穂子のことを想う。
 彼女を好きになって知ったのは。
 甘い感情だけじゃなく、苦しくも、哀しくも、寂しくもある。
 螺旋階段を登る途中に変わる視界のように、複雑に入れ替わっていく様々な心情。
 プラスの心だけではなく、その裏側にいつもマイナスの感情が張り付いているから、どうしていいのか、分からなくなる。
(……実際、目で見てみなきゃ、わかんないでしょ?)
 ……そう、香穂子はいつだって。
 月森の知らない真実を語る。

 何度も入れ替わって、複雑に絡み合う感情が最後に辿り着くものがなんなのか。
 最上に辿り着いてみなければ、きっと分からない。

「到着~」
 明るく言って、螺旋階段の最上に設置された、畳数枚分の狭い空間に足を踏み入れて。
 ふと、そこに広がる風景を目にした香穂子が、何だか勝ち誇ったような笑顔で、くるりと月森を振り返った。
「……ほら、来てみてよかったでしょ?」
 満面の笑みの彼女の、小さな指先が指し示すのは。
 下からでは見えなかった、連なる住宅街。……その向こうに見える。
 夕陽の光を反射する、遠い遠い海の輝き。
「……ああ」
 応じる言葉のような。
 感嘆の溜息のような。
 そんな言葉が唇から漏れて、月森は。
 遠い海面が反射する光の眩しさに、思わず目を細める。

 そうだ。
 複雑に絡み合って登る螺旋階段を、登り切ったその場所に、いったいどんな景色が見えるのかなんて。
 足を踏み入れてみなければ、絶対に分からない。
 ……あるかもしれないんだ。
 存在しないと諦めているその場所には。
 微かな、微かな。希望の欠片が。

「……ありがとう、香穂子」
「お礼を言われるようなこと?」
 月森の言葉に、呆れたように香穂子が笑う。
 そんな彼女に探るように手を伸ばし。
 ……その片手を掴む月森は。
 突然手を繋がれたことに驚いて、顔を上げた香穂子に、優しく笑いかける。
「いいんだ。……ただ、そう君に、言いたいだけなんだ」

 希望を信じよう。
 二人の想いが。絆が。
 未来永劫、続いていくという希望を。

 プラスの感情、マイナスの感情。
 複雑に絡み合う感情の螺旋階段を登っていったその場所には、幸福が待っているという。
 まるで夢のようにも思える、輝ける希望こそを。




あとがきという名の言い訳 【執筆日:10.1.24】

連作なので、あとがきは最後の作品で!

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