理屈ばかり並ぶ

My confidence mucic 第32話

 香穂子のヴァイオリンの音色は、理屈で言い表わすことが難しい。
 これまで月森は、自分や誰かの演奏を評価する時、ひどく理論的に評価していたから、それが出来ない香穂子の音色に興味を持ったのかもしれないと、思い返す。
 両親や祖父母の演奏についても、月森は評価する言葉を知らなかったのだが、それは単に、彼らが自分にとっては雲の上のような……尊敬に値する演奏者ばかりだったから、評することは烏滸がましいと考えていたのだ。
 ……そう、思っていた。これまでは。
 だが、ここに来て改めて思い返すと、もしかしたら自分は、家族の演奏だけはひどく感覚的に捉えていたのかもしれないと思うのだ。
 優しくて、暖かく。
 心に染み入る音色。
 いつだって、一人息子への愛情に満ちていた、両親が月森の為に弾いてくれる、そんな音色。それを理屈で表現しようという試みの方が、間違っていて、無駄なことだったのかもしれない。
 ……香穂子の音色を聴いていると、特にそんなふうに思う。
「……月森くん?」
「……!」
 突然呼び掛けられて、月森は反射的にびくっと身を震わせる。その反応に驚いた香穂子が、大きく目を見開いた。
「……ああ、すまない。少しぼんやりしていた」
「うわ、ここでぼんやりするなんて、薄情だなあ。今、私必死なのに」
 コンクールまで、もう1週間を切っている。
 だから香穂子の嘆きも、あながち理不尽なものではない。
 もう一度、「すまない」と詫びて、月森は苦笑する。
 ……香穂子が本気で怒っている訳ではないことは、分かっているのだ。
「うん。……いいんだけどね。別に」
 香穂子も同じように苦笑して、一人頷く。
 月森と関わるようになって、……付き合い始めて知ったこと。
 月森は、香穂子が思っていた以上に、頭の中で様々なことを考えて、悩んでいる。
 言葉にはしない分、香穂子が脳に収めている、おそらくは何倍もの事柄を。
 当然、今考えていることだって、結局巡り巡って香穂子の音色のことになるのだろうから、決して月森が香穂子を蔑ろにして全然別の事を考えている訳ではないことくらい、香穂子にも分かるのだ。


「君の演奏が、どんなふうに審査員に評価されるのだろうと考えていて……」
 始まりはそこだった。
 だけど、今まで誰かの演奏を聴いて浮かんできていた、ヴィヴラートがどうの、運指方法がどうの、どの音階の強弱がどうの、という、そういう感想が、香穂子の演奏からは浮かんで来ない。
 当然の事ながら、技術的な未熟さで指摘するべき箇所は、たくさんあるのだが、彼女の音色に包まれていると、そういう一切が、何故だかどうでも良くなってしまう。
 心地よい、素直な音楽だ。
 それが香穂子の持ち味で、その演奏の全て。
 もう、月森にはそんな評価しか出来なくなっている。
 彼女を愛おしく思うが故に。
「冷静に、理屈で君の音を判断しようとしても、どうやら俺にはそれがもう、出来ないらしい」
 指導者失格だな、と月森が苦笑して俯く。
 拙い音、ぎこちない音。
 そんな不完全な音すら、今ではもう、愛おしさの欠片。
「……うーん、それって別に、悪いことじゃないと思うんだけどな……」
 理屈ばかり並べられて。
 自分の音が「こうだ」と分析されても。
 多分、香穂子には理解が出来ない。理解が出来たとしても、だからなんだ?と首を傾げてしまうだろう。
「今、月森くんが言ってくれたことで、充分に嬉しいし、励みになるよ」
 月森がただ、香穂子の音を、「好きだ」と言ってくれる。
 例え理屈ばかりで、技術のあれこれを誉められてみたって、こんなに嬉しい気持ちにはなれないだろう。
「コンクール近付いてきて、すっごい緊張してるんだけど……月森くんがそう言ってくれるから、頑張れる。大丈夫だよ」
 えへへ、と香穂子が笑う。
 頬を染めて、溶けてしまいそうな満面の笑みで。

 その可愛らしい甘い笑みに、鼓動が一つ大きく跳ねる、その理屈も。
 きっと、月森には分からない。説明が出来ない。

(感情的に、曖昧なことを言うのは、責任感がなくて、いい加減なことだと思っていた)

 だが、今になって思い返せば、ちゃんと分かる。
 そんなふうに、感情的になることを恥じて、疎ましがって来たから、月森は壁を越えられなかった。
 ただ綺麗なだけ、技術力が高いだけの、味気ない音。
 心の奥底で、本当は嫌悪すらしていたかもしれないその音は、感情的になることを拒み続けた月森の、限界の末の成れの果て。
 拾い上げて、暖めて。
 愛してくれたのは、香穂子。
 理屈ではない、感情的な部分で。
 月森の音が好きだと言ってくれたから。
 どこにもいけなくなっていた八方塞がりの音色は、解き放たれて、月森の手の中にある。


 隣を歩く香穂子の手を、ふと月森の手がぱしっと捕まえる。
 きょとんとして月森を斜めに見上げる香穂子に、月森は小さく笑った。
「……キスしていいか?」
「え!」
 香穂子が驚いたように、口を開いて目を丸くする。何でどうして、と焦る香穂子を近くへ引き寄せて。
 月森は、その耳元に低く囁く。
「あまりにも可愛い、君が悪い」
「……って、何を言い出すのかなあ、この人は!」
 真っ赤になって怒鳴る香穂子は、それでもちらりと辺りに視線を配って。
 誰も周りにはいないことを確かめた上で、おずおずと月森を仰いで、目を閉じる。
 その素直さに思わず吹き出しそうになりながら、月森はそっと香穂子の髪に掌で触れて。
 そっと、頬を寄せる。

 互いの唇が触れた途端に溢れ出す、言葉には出来ない、熱い想い。
 理屈ばかりを重視して、目の前に並べて、それこそが正しいと信じていた頃には知らなかったけれど。

 こんなふうに、感情に突き動かされて振る舞うことは。
 とても、楽しくて。
 そして、きっと。
 とても幸せなことなんだ。

 そのことを。
 このキスによって、心に満ちた幸せな想いが教えてくれている。

 ……そんな気がした。




あとがきという名の言い訳 【執筆日:10.2.7】

連作なので、あとがきは最後の作品で!

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