レーゾンデートル

My confidence mucic 第34話

(……どうしよう)

 もう、今更考えてみても仕方のないことではあるが、あまり馴染みのない隣町のコンサートホールの片隅で、香穂子はこれまでに感じたことのない緊張感に苛まれていた。
 元々、コンクールなどというものにこれっぽっちの縁もなく、唯一参加したことのあるコンクールが星奏学院の学内音楽コンクールであるのだから、香穂子が戸惑うのも無理はない。そもそもあの学内コンクールこそが異質であることを香穂子は知らなかったのだ。
 テーマだけを唯一共通のものとして競われる学内コンクールと違い、学外のコンクールはきちんと楽器別に分けられていて、予選と本選とがある。課題曲を含めた数曲を演奏しなければならないコンクールもあるそうだが、今回香穂子が参加したコンクールは町が主体となった小さなコンクールということもあってか、エントリーした一曲のみで選考が行われる。ただ、きちんと予選と本選と、二回の演奏が求められ、午前中に行われた予選を、何とか香穂子は通過していた。
 だが、学内コンクールで一発勝負という感覚に慣れていたせいか、どうにも予選で力を出し尽くしてしまった感がある。本選では更に上質な演奏が求められると思うのに、午前中以上の演奏が自分にできるのかと問われると、はいと答えられる自信が香穂子にはない。
(あんまり気負うなよ。別にここで成績が悪くたって、それでお前がどうこうなるわけじゃないだろ?)
 同じようにこのコンクールに参加し、余裕でピアノ部門の予選を突破した土浦などはそう言う。
 確かに、土浦の言うことももっともだ。もう香穂子はこのコンクールの成績に自分の何を左右される訳ではない。自分がどんな環境に置かれようと、ヴァイオリンを続けていくという自分の心はもう決まってしまっているから。だけど、この緊張はそういう結果ばかりを考えて生まれて来るわけじゃないのだ。
(……月森くんも、いつもこんな気持ちなのかな)
 ふと、そんなことを考える。
 学外のコンクールでいつも好成績を修める月森。いつか、学内コンクールで緊張していた香穂子が、普段と変わりないように見える月森に「緊張しないの?」と問いかけた時、月森は「それをコントロールするのも実力のうちだ」と答えていた。
 緊張をしないわけじゃない。だけどその緊張感すらモチベーションに変えて演奏ができるから、きっと月森という演奏者は、確かな結果として、自分の演奏への好評価を残していけるのだろう。
(怖いよ)
 何度か、荷物の中の携帯を握り締めた。
 香穂子から、コンクールの結果が知らされることを待っているはずの月森は、香穂子が電話をして弱音を吐けば、きっと不器用ながらも、彼なりの精一杯で励ましてくれると思うのだけれど。
(でも……いつまでも月森くんに頼ってばかりじゃいけないんだ)
 甘えるために、彼に教えを乞うたわけじゃない。
 香穂子を重荷にするために想いを通わせたわけじゃない。
 もうすぐ月森は香穂子の傍からいなくなる。その後も、香穂子がしっかりと地に足を付けて自分の行くべき道を歩んでいくために、今日のコンクールは香穂子に与えられた試練のようなものなのだ。
 緊張に震える指先を、ぎゅっと握り締める。こんなに震えていたのでは、きちんと弦が押さえられないかもしれない。ヴィヴラートも上手くかけられないのでは。……そんなふうに、マイナスの要素だけが香穂子の胸の内を占めていく。
 不安で、怖くて。思わず香穂子はぎゅっと目を瞑った。無意識のうちに、心の中で何度も月森の名を呼んだ。
「……日野!」
 突然名前を呼ばれ、結構痛い手刀が頭の上に降り下ろされる。深い眠りの最中に大音量の目覚ましを鳴らされたような心持ちで悲鳴を上げた香穂子が、弾かれるように身を起こした。
「ぼうっとしてんなよ。ヴァイオリン部門の本選出場者、コールかかったぜ」
「……土浦くん」
 ぱちぱちと瞬きをして通り魔のような攻撃を仕掛けて来た犯人を見ると、それは正装姿の土浦だった。呆れたような顔で指し示したスピーカーからは、繰り返しヴァイオリン部門の出場者をステージ脇へ召集するアナウンスが流れている。
「あ、わ、私、行かないと」
「日野」
 慌てて立ち上がり、ヴァイオリンを手にしてステージ脇へ急ごうとする香穂子を、落ち着いた土浦の声が呼び止める。何事かと振り返った香穂子に、少しだけ複雑そうな顔で、土浦は告げた。
「……お前の事、心配してたぜ」
「え?」
 意味が分からず、香穂子が目を丸くする。何故か居心地が悪そうに視線を反らす土浦が、月森だよ、とぼそりと呟いた。
「わざわざ金やんから俺の携番聞き出したらしくてさ、今朝電話がかかってきた。『日野に直接励ましを言ってもプレッシャーになるだけだろうから、君が少し気を配ってやってくれないか』だとさ。俺も参加者だってのに、お構いなしだよな」
 実際、「俺には応援も励ましも何もなしかよ」と愚痴は零したのだが、「君にそういうものが必要なのか?」とあっけらかんと返された。……無論、土浦だって、月森からの労りなど頼まれたって受け取りはしないのだが。
 そして、もちろんこんなやりとりは香穂子に教えてやる必要もない。
「……お前だけじゃないぞ」
 色々な意味合いを込め、土浦はそう告げる。
 緊張をするのは香穂子だけではない。
 そして……。
「……うん」
 まだ緊張の残る表情ながらも、何かを一つ切り替えたように香穂子がしっかりと頷いた。
 きちんと背筋を伸ばし、ステージへ向かう香穂子の背中を、やれやれ、と苦笑する土浦が、穏やかな眼差しで見送った。


(……私だけじゃないんだ)
 土浦の言葉を反芻し、自分の番をステージの脇で待つ香穂子は、自分の喉元に触れる小さな石を指先で握り締める。
 幸運のお守りに、と月森がくれたラピスラズリ。一緒にはいてやれないからと、照れくさそうにこれを渡してくれた昨日の月森の事を思い出す。
 誰もが緊張の極限にいながら、ステージに上がる。それは香穂子だけに限られたことじゃなく、こういうコンクールに参加する、全ての奏者に言えることだろう。
 そして、ステージに上がるのはたった独りであったとしても。
 その心は決して、香穂子一人だけのものじゃない。
 これまで指導をしてくれた月森や、励ましてくれた土浦。かつて一緒に学内音楽コンクールに参加した先輩たちや後輩たち、香穂子の音色を好きだと言ってくれたクラスメイトの加地、取材を通して親しくなった天羽、今日のコンクールを引率してくれた教師の金澤、突然ヴァイオリンを始めた香穂子に戸惑いながら、それでも応援をしてくれる家族や友人たち。
 たくさんの人達の思いが、香穂子をあのステージへ立たせてくれる。


 初めは指導者が欲しくて。
 何度も蔑ろにされた挙げ句、このコンクールで入賞することが指導をする条件だと言われたから、負けず嫌いの性格が災いして、売り言葉に買い言葉で参加することになった。
 だけど、どうせ駄目だろうと半ば投げやりにもなっていた香穂子に、「諦めないで欲しい」と手を差し伸べてくれた月森がいて。
 一つの目標に向かって、一緒に心を揃えて、この数カ月を過ごして来た。
 傍にいる数カ月の間に、感謝や尊敬や、憧憬の心はいつしか恋心という気持ちへ変化していった。
 だから、月森が自分で決めた未来の選択を、寂しいと思うことがあった。
 想うこと、想われることが、哀しい結末を呼ぶだけなのだと思うことがあった。
 そして今、こうしてここに立つ自分は。
 確かに今は目の前にはいないたくさんの人達の心に。
 そして何よりも、今の香穂子の音色を一緒に作り上げてくれた……その優しく甘く、少しだけほろ苦い想いを教えてくれた月森によって支えられている。
(それを、忘れちゃいけないんだ)
 きっと、そのことを知るために。
 今日香穂子は、このステージに上るのだ。


 ……貴方がいないこれからを、どんなふうに生きていくのだろうと。
 どんなにつよがりを言ってみても、達観したように振る舞っていても。
 どこか心の奥底に、ずっと不安を抱えていたけれど。
 本当に今なら、心の底から言ってあげられる。
 貴方がどこにいても、何をしていても。
 私は私で、私の道を歩いていける。
 それは、きっと。
 たとえ、傍に貴方の姿がなくても。
 ……心だけは繋がっているのだと、信じていられるから。
 今、姿の見えない貴方が、たった独りステージ上でヴァイオリンを弾く私を支えていてくれるように。
 ヴァイオリンを続けていく以上、私は生涯貴方に支えられていくのだと。
 ……本当に、理解したから。

 それが、貴方と私が出逢った理由だと。
 ……貴方と私がこの世に生まれて来て、同じ時代を同じ街で生きて来て。
 今、ここにこうして存在していることの、その意味だと。
 そんなふうに、思うから。


(自惚れかなあ?)
 もう、指先は震えない。
 繰り返し、月森と作り上げて来た綺麗で優しい旋律を、香穂子の全身が生み出している。その音に身を委ね、たくさんの想いを込めてヴァイオリンの音色を響かせながら。

 香穂子は自分が辿り着いた結論の、あまりの臆面のなさに。
 自嘲して、小さく苦笑いをした。




あとがきという名の言い訳 【執筆日:10.2.14】

連作なので、あとがきは最後の作品で!

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