午後のリビングのソファにゆったりと腰掛け、紅茶を味わっている母が呆れたような溜息と共にそう月森に話しかけ、そこでようやく月森は、自分が先程から落ち着きなく部屋の中を歩き回っている現状に気が付いた。
「……すみません」
恐縮して詫びながら、母の向かいのソファの上に腰を下ろすが、どこか居心地悪げにそわそわと、月森はテーブルの上に置いたままの携帯電話を見つめる。
もう、香穂子のコンクールは終わった頃だ。結果が出れば、きっと彼女はまっ先に月森に連絡をくれる。午後を回った頃から、月森は逸る心を抑えつつ、その彼女からの連絡を待っているのだ。
自分がコンクールに出場する時にすら、こんな緊張の仕方はしない。本番まで充分に準備を整えて、自分の最善を尽くす。……それに見合った結果が必ずもたらされると分かっているから、その結果が例え不本意なものであっても、特に気にすることはない。
だが、彼女の事になると話は別だった。
ほぼゼロに近い地点から、コンクールに参加するまで、彼女がどれほど努力をして来たのかは、傍で彼女を見ていた月森が一番良く分かっている。だが、コンクールはその瞬間、ステージ上で奏でられる音楽が全てだ。緊張でミスをしようが、体調不良で普段通りの演奏が出来なかろうが、審査する人間はそんな裏事情を考慮しない。
昨日彼女の作り上げて来た音を聴く限り、誰に聴かせても恥ずかしくはない音に仕上がっていると思った。もちろん、月森自身の贔屓目はあるのかもしれないが、できるだけそういう感情は排除した上での評価だ。だが、彼女は学外でのコンクール経験が皆無だ。全てが以前参加した星奏学院の学内コンクールと同じ形式なのだと思ったら、大きな勘違いだ。
(やはり、俺も行けばよかった)
今回は、引率の教師しか舞台裏には入れず、会場も狭いため、一般客はあまり入れないと聞いていた。
だが、こんなに落ち着かないのであれば、例えずっと一緒にはいれなくても、少しでも傍にいれるよう、会場までは行けば良かった。金澤から番号を聞き出した土浦の携帯に電話して、気を配ってもらうよう伝えはしたが、土浦だって参加者なのだから、香穂子ばかりに気を使ってはいられないだろう。
そんなことを考えながら、イライラと空を睨んでいる月森の目の前のテーブルで、その時ついにマナーモードの携帯が振動を始めた。弾かれたようにそれを手に取ると、小さなウィンドウに表示された発信者の名前は、待ち続けていた香穂子の名前だった。
すぐさま応対しようとふと目線を上げ、月森は母と視線を合わせた。
にやにやと面白そうに笑いながら、母が自分を見ていた。
わずかに頬を染めて小さく咳払いをし、月森は携帯を片手に立ち上がる。自室へと戻りながら、携帯を耳に当てる。
「……面白いわ」
一部始終を眺めていた美沙は、リビングのドアを閉め、二階の自室への階段を昇る息子の姿をドアの硝子越しに見つめながら、半ば感心したように、しみじみと呟いた。
「もしもし、香穂子か?」
階段を昇りながら、月森が携帯に向かって話し掛ける。相手が香穂子だというのは初めから分かり切っているのだが、つい確認してしまう。「うん」と答えた彼女の声は、辺りの喧噪に混ざって小さく月森の鼓膜に届く。きっと、ごった返す会場のロビーからかけているのだろう。
『連絡、遅くなってゴメンね。最後にミーティングとかいろいろあって、なかなか解散にならなくて』
「いや、それは構わないが……」
思わず月森は口籠る。結果を知りたいが、迂闊にこちらから聞いていいものなのかどうか躊躇われた。きっと、優勝したならば彼女は開口一番結果を伝えてくれる。
事務的なことから彼女が話を切り出したことで、何となく不本意な結果なのかもしれないと直感したのだ。
『あ、あのね。結果なんだけど』
落ち着いた彼女の声が、月森の焦燥を見透かしたように、一番知りたかった情報を伝えてくれる。『3位入賞だった』と、香穂子が告げた。
「……3位」
呟いて、月森はその後に続く言葉を無くす。
月森は、いつだって頂点を目指して来た。彼女が自分と同じような価値をヴァイオリンに求めているとは、今ではもう思っていないのだが、これは簡単に「おめでとう」と告げていい結果なのだろうか。
彼女の経験値を振り返れば、充分に評価に値する成績なのかもしれない。だが、優勝ではないということは、確かに彼女は、誰かに『負け』ているのだ。
『……あのね、月森くん』
ちょっと出て来れる?と。
月森の戸惑いを感じ取ったのか、少しだけ苦笑するような気配を見せる香穂子が、そんなことを尋ねた。
「月森くん、こっち」
待ち合わせた場所……二人の想いを確かめ合った、あの堤防へ行くための駅の改札前で、制服にコートを羽織り、ヴァイオリンケースを抱えた香穂子が改札を抜ける月森の姿を見つけて、片手を上げた。
どういう言葉をかければいいのかと、電車の中でも月森はずっと悩んでいたけれど、実際に香穂子の顔を見てみると、彼女の表情は随分と晴れ晴れとしていて、ここ数日間自分を苛み続けた緊張から解放されて、安堵しているように見えた。だから、月森は少しだけホッとする。
「……お疲れさま」
今、言ってもいい言葉を考えて、月森はそう告げる。嬉しそうに香穂子が笑った。
二人で肩を並べて、自然と爪先はあの堤防へと向かって歩き出す。しばらく黙ったまま歩いていると、香穂子の方がふと口を開いた。
「……ごめんね、せっかく教えてくれたのに、優勝出来なくて」
「そんなことを、謝らなくていい」
申し訳なさそうに言った香穂子に、慌てて月森は首を横に振る。香穂子を見下ろすと、ぱちりと瞬きをした香穂子が小さく笑った。
「でもね。私は満足してるの。優勝は出来なかったんだけど、入賞は出来たんだもの。あんなに下手だった私が、規模が小さいとは言ってもコンクールで入賞だなんて。全部、月森くんのおかげだと思う」
予選を通っただけで、充分だと思っていたのに、3位入賞を果たせた。
一緒に参加した土浦はもちろん追随を引き離しての文句なしの優勝だったけれど、ある意味それは皆当然と思っていたのだろうか、土浦の優勝よりも、香穂子の3位入賞の方を、土浦も引率の金澤も、喜んでいたように思える。……それは、香穂子の勝手な思い込みかもしれないけれど。
「……俺の力なんて、些細なものだ。全ては君の努力の成果だろう」
「でも、月森くんが『諦めないで欲しい』って言ってくれなきゃ、頑張れなかったかもしれない。何よりも、忙しい合間を縫ってヴァイオリン教えてくれなかったら、入賞なんて絶対できなかった」
香穂子がそこまで告げたところで、二人は堤防へと辿り着く。
二人で堤防の上に登って、広がる海を見つめる。今日は天気が良くて、陽射しも優しく、暖かくて。遠くに見える海面がきらきらと光を反射して輝いていた。
「……月森くんに支えられて、ここまで来たよ」
穏やかに笑む香穂子が、そんな遠い水平線を見つめながら、そう小さく呟いた。
……初めは、今後ヴァイオリンを続けていくための指導者が欲しくて、臨んだコンクール。
だけど、月森と心を通わせ、自分にとってのヴァイオリンの意味を見つめ直すうちに、香穂子にとってのこのコンクールに参加することの意義は、少しずつ変わって来た。
このコンクールで、結果が出せたら。
何かが掴めたら。
ずっと、月森に言いたいと思っていたことを、告げる自信になるんだ。
……そのことに、香穂子はあのステージ上で気が付いたのだ。
「私は、月森くんのように、あのステージ上で大きく開く花にはなれないの」
望めば、……心の底から願えば、叶う夢なのかもしれない。
だが、どれだけ思い直してみても、香穂子の夢は月森のように高い場所を目指して芽吹き、育ち、いつか開く大輪の花になることではない。
(ただ、弾き続けていたい)
初めて手に入れた、夢中になれる楽しいこと。
香穂子の人生に彩りを与える、ヴァイオリンという存在。
香穂子は、それに支えられて生きていく。
高い場所、誰の目にも留まる場所で綺麗に大きく花開くことはなくても。
路傍の片隅、誰の目にも留まらない場所でも、確実に小さく咲き誇る花になる。
「多分、私はそれでいいの。ヴァイオリンの音色が好きで、弾くことが好きで。ただ、それだけで支えられて生きていける。心が強くなれる……だから」
香穂子が、ふと月森を見つめる。
真直ぐに月森を見つめる目が、不安げに揺れた。
「月森くんの事を、ずっと待っていてもいい……?」
離れ離れになるのが怖いのは、傍にいない人を想い続けることが、どれだけ辛いのかが予測出来るから。
逢いたい時に逢えない。傍にいなければ、その瞬間に相手が何をしているのかが分からない。
……知らないうちに、相手は自分ではない誰かを好きになってしまうかもしれない。その不安を抱えることが辛いから。
だけど、香穂子にはヴァイオリンがある。
月森が傍にいなくても、きっと彼が一生抱き続けていくであろう夢に、寄り添って生きていくことができる。
きっと、その事実に香穂子は支えられる。
生まれてから17年の間に、出逢いは無数に在った。
だが、こんな想いを抱いたのは月森が初めてだ。
どうしても失いたくなくて。手に入れたくて。……それなのに。
失うのが怖くて、手を伸ばせなかった。そんな、矛盾した想いがあることを知った。
今後、月森がいなくなって。香穂子は同じ気持ちを、別の誰かに抱けるのだろうか。
そんなことを考えていると、どうしても否としか香穂子には思えない。
こんなに愛しくて、大切で。
甘く、そして苦い気持ちをくれる人には、きっと二度と出逢えない。
「あ、あの、駄目なら駄目って言ってくれていいから。ずっと待ってるっていうのも結構ウザいって言うか、重いって言うか。月森くんの迷惑になりたいわけじゃないからその辺は遠慮なく」
全部が言えないまま、香穂子は反射的に息を呑み込む。
突然、何だか息苦しくなったのは、強く強く、月森に抱き締められたからなのだと、一瞬後に気が付いた。
「……君が落ち着いたら、言ってみようかと思っていた」
俺を、待っていてくれ、と。
その言葉は、抱き締められて触れる身体の全部から、優しい振動になって伝わる。
「ヴァイオリンに関することで妥協はしたくない。だから、留学からいつ戻れるのかは分からない。……でも、俺はどうしても、君を手放したくない」
これは、ただの我侭だ。
最初から、香穂子ではなく夢を選ぶことを決めているのに。
それでも、香穂子も失いたくはないのだと。
勝手な願いだと分かっている。
それでも、同じことを彼女が願っていてくれるのなら……。
「何年後と明確な約束は出来ない。……だが、必ず君に胸を張って会える姿で、君を迎えに来る。……俺を、待っていてくれるだろうか?」
優しい言葉に、香穂子の目に涙が浮かぶ。
コンクールが終わっても、自分の想像以上の結果を残しても、泣きやすい自分なのに浮かぶこともなかった涙。
……もしかしたら、この時の為に。
神様が取っておきなさいと言ってくれていたのかもしれない。
「……待ってる、ずっと。私は私のやり方で、ヴァイオリンを弾きながら」
そして、香穂子は躊躇いがちに。
小さな小さな……海風にかき消されそうな声で。
「……蓮」と。
月森の名を呼んだ。
月森が小さく目を見開いて、身を起こす。
腕の中の香穂子は、これ以上にないくらいに真っ赤になって、照れて俯いている。
そんな彼女が、可愛くて。いじらしくて。
月森は、ちょっとだけ、意地悪をしてみたくなる。
「聴こえなかった。……もう一度」
「駄目駄目、恥ずかしくて絶対無理~~~!」
ふるふると激しく首を横に振る香穂子に、苦笑して。
そして月森は、そっと香穂子の頬に触れる。
顔を上げた香穂子の瞼に一つ、そして、頬に一つ、口付けを落とす。
「入賞おめでとう、香穂子」
ようやくそう告げると、香穂子が頬を染めたまま、幸せそうに微笑む。
そして、唇に、唇で触れる。
少しだけ慣れて来た口付けは、先を求めて、ちょっとだけ深くなる。
「……名前を呼ぶより、余程恥ずかしいことをしていると思わないか?」
繰り返す口付けの狭間に、ふと思い付いて、ぽつりと月森が呟くと。
うっとりと甘いキスに酔っていた香穂子が、思いきり我に返って。
小さな指先が、痛くない力で月森の頬を軽くつねるのだった。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:10.2.20】
連作なので、あとがきは最後の作品で!


