土曜日、香穂子は何度か訪れたことのある月森邸の玄関先に立っていた。
天羽に上手く乗せられた感はあるものの、5日間自分でもよく考えた結果、あえて天羽の提案に便乗してみようと思った。……関係が曖昧なまま、月森と離れ離れになるのは、どう考えても嫌だった。もちろん想いは通じているのだけれど、香穂子はまだ、はっきりとした返事を月森に言っていない。彼が香穂子の気持ちを真逆に捉えていて、自己完結している可能性だって無きにしもあらず、だ。
月森に逢いに来る口実はあった。……一緒に出掛けてもらう口実も、香穂子なりに準備している。若干、ぶっ飛んだ口実だとは思うけれど、とにかく月森と二人きりでゆっくり話せれば問題ない。だが。
(……どうやって呼び出そうかな)
背の高い柵越しに敷地内を覗き込み、香穂子は小さく溜息をつく。もちろんインターフォンを押してしまえば、誰かしらが応対してくれることは分かっているが、月森本人が応対するかどうかは分からない。ここに来て改めてそんな現実に直面し、香穂子はつくづく携帯の番号を月森に聞いていなかったことを後悔した。
ヴァイオリンの指導をしてもらって、あんなにお世話になったのに、学校に行けば会えた頃だったから、そんな基本的なツールも手に入れていなかったなんて。
(お母さんとか、いらっしゃるのかなあ)
学内音楽コンクールの際に、一度だけ顔を合わせた月森の母のことを思い出す。
どちらかといえばクールな印象を持つ月森の風貌と、確かによく似た女性だったが、穏やかな笑顔でいることが多かったせいか、香穂子の中であまり月森本人との印象は合致しない。
(あ、でも)
月森が微笑むと、やはりよく似ていたのだと思い直す。
……そして、そんな月森の極上の笑顔を見たのがあの告白の時だったので、その時のことを思い出した香穂子の体温が、また急上昇した。
(駄目だ……)
柵を握って、脱力したように目を閉じた香穂子が、金属部分に額を押し付ける。ガシャンと音を立てて小さく揺れる柵が、火照った額に心地よい冷たさをもたらした。
その時。
「……日野?」
どこか困惑したような、聞き覚えのある声が頭上で響いた。
「えっ……!?」
慌てて目を開き、顔を上げると、そこには月森本人がいた。……何だか、香穂子が月森邸を訪れる時は、いつもこんなシチュエーションになるなあと、頭の片隅でのんびりと思う自分がいた。
「……どうかしたのか? わざわざここに来るなんて」
静かな月森の声。どこか優しいように聞こえるのは、香穂子の勘違いなんだろうか。
いざ月森を目の前にすると、数日前のあの夜のことが思い返されて、まともに彼の顔を見ることが出来なかった。
「あ、あの……その」
おどおどと視線を反らし、自分の爪先を見つめながら、香穂子は小脇に抱えた『ここに来る口実』の存在を思い出す。ぎこちないのも、唐突すぎるのも自覚した上で、香穂子はそれを月森へと差し出した。
「これ!……ずっと、返さなきゃって思ってて!」
それは月森が留学する日、ドレス姿のまま月森を追いかけた香穂子に、彼が羽織らせてくれたジャケットだった。いつかまた再会する日が来るのなら返そうと、きちんとクリーニングして、いつでも返せるようにラッピングしていたもの。
月森が帰国した際にすぐ渡すつもりだったのに、いろんなことがあり過ぎて、香穂子はまだそれを月森に返却できていなかったのだ。
「……ああ、そうか。わざわざ済まなかった。ありがとう」
思いがけずあっさりと納得した月森が、香穂子の手からジャケットの入った紙袋を受け取った。……そして、しばらくの沈黙が満ちる。
(こ、ここからが本題……っ!)
月森の顔を見るのが怖くて、香穂子は顔が上げられない。彼の表情が見えないから余計に、月森が今思っていることは、香穂子には分からなかった。
家まで押しかけて、迷惑に思われてないだろうか。
いつまでも玄関の前でうろうろしていて、変に勘ぐられてはいないだろうか。
そんな不安な気持ちばかりが渦巻く中で、香穂子の背中を押すのは、あの日の月森の一言だ。
(そんな君だから、俺は惹かれたんだ)
そう。……嫌われてない、大丈夫。
(行けっ!)
ここにはいつも強引に背中を叩いてくれる天羽はいない。だから香穂子は心の中で、自分自身でGOサインを出した。勢いをつけて、顔を上げる。
「あっ、あのね、月森くん。……今日、時間空いてないかな?」
「え?」
驚いたように目を丸くして、月森が香穂子を見ている。
頬に熱が集まって、赤くなるのが分かったけれど、踏み出した以上は走り切るのが香穂子の信条だ。
「よ、よかったら一緒に出掛けないかなって。……ほら、せっかくの一時帰国だし。例えば……そう、遅ればせ、もしくは早めの誕生日祝いに、お茶とかどうかなーなんて」
それが、香穂子が一生懸命に考え出した、無理矢理なデートの口実。
思いついたのは、ほんの数週間前に後輩の冬海の誕生日パーティを天羽と3人で、馴染みのカフェで開いたからだ。
「誕生日?……君のか?」
真顔で月森が尋ねる。……香穂子の誕生日は、まだ半年近く先だ。
「つ、月森くんのだよ……」
「……俺の誕生日は、4月だが?」
増々困惑の表情で、月森が首を傾げる。あちゃー、と香穂子が内心頭を抱えた。
もう11月だ。何となく秋生まれのイメージはなかったので、おそらく月森の誕生日は過ぎているのだろうと勝手に思ってはいたのだが、そんなに前に終わっているとは想定していなかった。
やはり、あまりにも無理矢理な理由付けだったかと、香穂子が口ごもっていると、ふと頭上で月森が小さな溜息を付いた。
「……月森くん?」
「出かける用意をしてくる。5分ほど待っていてもらって構わないか?」
「え……い、いいの……?」
思いがけず、あっさりと承諾がもらえたことに、逆に困惑する香穂子が、つい尋ねてしまう。
苦笑する月森が、諦めたようにひらりと片手を振った。
「君に振り回されるのには、少しだけ耐性が付いてきたから」
ある種、悟りの境地に至っているかのような月森の台詞に。
心当たりのあり過ぎる香穂子は、思わず「スミマセン……」と恐縮して、身を縮めるのだった。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:11.5.3】
連作なので、あとがきは最後の作品で!


