ジャケットを羽織った月森が丁寧に門扉を閉じ、そう尋ねてくる。少し考え込むように空を睨み、香穂子が顎に指先を当てた。
「月森くんは、行きたいところってないのかな?」
「……俺?」
月森の困惑する気配が伝わる。確かに、誘いに来たのは香穂子なのだから、香穂子が目的地を決めていないと可笑しな気もするが、元々『月森の誕生日祝いをする』という無茶苦茶な口実でここを訪れているのだ。それを最後まで押し通すのであれば、月森の希望に沿う方が香穂子には理に適っている気がした。
「うん。……何かこれまで月森くんと何処かに行く時って、私に合わせてもらってばっかりだった気がするから。今日くらい、月森くんの希望優先で」
「……と、言われても……」
月森が本気で困っている。
改めて考えてみれば、確かに月森の口からアミューズメントパークだの、ショッピングセンターだの、香穂子が余暇を過ごすような場所が出てくるとは思えなかったのだが、香穂子はあえて黙り込んで、月森の答えを待ってみる。
初めはそんなつもりではなかったのだが、何だか月森の返答を聞いてみたくなったのだ。
じいっと彼の顔を見つめ、その返事を待っていると、どこか居心地が悪そうに顔をしかめる月森は、やがて溜息と共にこう告げた。
「……どうしても俺が決めなければならないのなら。……海でも見に行こうか」
「海?」
香穂子が尋ね返すと、月森が小さく頷いた。
「特に何があるというわけでもないし、もう寒いかもしれないが……君がそれでいいなら」
「海かあ……。うん、いいよ。行こう」
言って、香穂子と月森は肩を並べてゆっくりと歩き出す。
(海かあ)
心の中で、香穂子はもう一度繰り返す。
……ヴァイオリンについて、いろんなことを教えてもらって。
月森とは、同じ時間をたくさん過ごして、距離を縮めてきたつもりだったけれど、彼が好きな場所という基本的な事すら、まだまだ自分は知らなかったんだと、香穂子は改めて思う。
そして、そんなささやかな事でも、知って嬉しいと思えている自分自身が、少し気恥ずかしい気がした。
月森が香穂子を連れてきたのは、海は海でも、波打ち際ではなく、海が見える展望台の方だった。
長い長い坂を上り、息を切らす香穂子の隣で、こちらは全く平気そうな月森が呆れたように溜息を付いた。
「体力がないな」
「男の子の体力と一緒にしないでよお」
香穂子が情けない声を上げて、天を仰ぐ。月森が小さく笑った。
「何か、飲み物でも買ってこようか。そこのベンチにでも座って休んでいるといい」
「あ、わ、私が行くよ?」
仮にも月森の誕生日祝いを口実に来ているのだから、月森に何かをさせるということは躊躇われたのだが、月森は全く意に介さない様子だった。
「何がいい?」
「あの、えっと……じゃあ、暖かいミルクティーで」
有無を言わさぬ口調の月森に押し切られ、香穂子はおずおずと注文する。軽く頷く月森が、爪先を自販機へと向ける。その細いなりに均整のとれた背中を見送って、香穂子は深い溜息を付いた。
(あの様子じゃ、勘付かれてるのかなあ……)
月森がそこまで他人の心情の機微に聡いとは思わないが、少なくとも誕生日祝いが本題などではないことは気付かれているのではないかと香穂子は思う。
だいたい、月森と逢うのはあの告白された夜以来だというのに、彼のあの普段との変わりなさは何なのだろう。
(夢だったとか、言わないよね?)
もう1週間も経ってしまったから、確かにあの日の記憶はどこかおぼろげになりつつある。……そもそも、自分の身に起こったことそのものが、まるで夢みたいな出来事だったわけなのだし。
……だけど、あの時の。
月森の笑顔と、抱きしめられた腕の感触と、ぬくもりとが。
それだけが……鮮明で。
「……日野?」
「うわっ!?」
唐突に声を掛けられて、驚いた香穂子が大声を上げる。買い込んできた飲み物を片腕に抱えた月森が、目を丸くして香穂子を見ていた。
「……驚かせたなら、すまない」
「う、ううん。私もぼーっとしてたから、ごめんね」
(……危ない、危ない)
うっかり気を抜くと、すぐにあの幸せだった記憶の中にもぐりこんでしまう。
(気をしっかり持とう……)
改めて決意して、香穂子は赤くなった頬を冷ますべく、ひらひらと掌で頬を扇いだ。
展望台は、遠くに海が見える景色以外に特に何というものもないので、香穂子たちは出来るだけ眺めのいい場所にあるベンチを選んで腰かける。……人ひとりが間に入る距離を保って。だけど何故か、隣にいる人物のぬくもりがほんのりと伝わってくるような気配がした。
(……落ち着いた)
月森から受け取った缶のミルクティを一口含み、ほうっと香穂子は息を付いた。それは、坂を上り切った後の激しい動機が落ち着いたからなのかもしれなかったし、甘いミルクティの暖かさに癒されたのかもしれない。
だが、もしかしたら、一番の原因は。
(月森くんのおかげなのかな)
沈黙が苦にならなかった。普段の香穂子ならば、こういう時には何かを話さなければと焦りに焦っているところだろうと思うのだけれど、月森がとても落ち着いた雰囲気を持っているせいなのか、不思議とこの静寂が心地よかった。
「……つまらないか?」
ふと、隣に座っている月森が、ぽつりと呟いた。
香穂子が視線を向けると、やっぱり月森はどこか困惑したような表情をしている。……何だか今日は、月森を困らせてばかりいるような気がする。
「君は、きっと賑やかな方が好ましいのだろうと思うが……俺はあまり好きじゃなくて」
「え? あ、……う、ううん」
香穂子は慌てて首を横に振る。
「確かにあまり、こうやって静かに過ごすことってないけど。これはこれで、すごく落ち着くなって思ってたんだよ」
「……ああ」
なるほど、と月森が何かを思い出したように小さく笑う。
「……いつも、騒がしいって思ってるんでしょ」
つい口をとがらせて香穂子が拗ねると、月森はあっさりと首肯した。
「そうだな。君の周りは、いつも賑やかだ。……俺には少し、馴染みにくい雰囲気でもある」
その月森の口調が、少し寂しげで。
香穂子は小さく息を呑んだ。
(何で、寂しそうにするのかな)
月森は、これまで香穂子の前で自分の感情を露わにすることは少なかった。いつも不機嫌そうで、あまり笑うこともなくて。
……そんな感じだったから、香穂子はずっと、自分は彼にとって迷惑な存在なのだと認識してきた。いつも彼から何かを貰うばかりで、何も出来なくて。
(本当は、違ったのかな)
……あの夜、惹かれていると言ってくれた月森は。
月森の想いにこれっぽっちも気付いていなかった香穂子の態度に、いつだって傷ついて、寂しがっていたのだろうか。
(月森くんの気持ちだけじゃない……)
香穂子は、自分自身の気持ちにすら気が付いていなかった。
そう、今思い返してみれば。
月森が留学することが、あんなに哀しかったのも。
留学する日を教えてもらえなかったことが、あんなに辛かったのも。
もう今では遠い過去に遡って、魔法のヴァイオリンで学内音楽コンクールに参加していた自分の姿勢を、「認められない」と月森に拒絶されたことが、あんなに痛かったことも。
きっと、香穂子が心の奥底で、ずっとずっと、月森のことを好きだったから。
香穂子は、視線を上げる。
月森もまた、香穂子のことを見ていた。少し、困惑したままの表情で。
その端正な顔立ちが、……不器用な表情がとても好きだということを。
香穂子は今、確かに実感している。
(頑固で、融通が利かなくて。時々辛辣で、容赦なくて)
だけど、誰よりも真っ直ぐに、ヴァイオリンと音楽とを愛している人。
生きることに不器用で。
でも、きっと。
とても、優しい人。
(こんなに未熟な私のことも、見捨てないでいてくれた人)
いつか、簡単にはたどり着けない目指すべき困難な場所に、香穂子が必ず到達する奇跡を。
ただ一人、心の底から信じてくれている人。
「日野?……どうかしたのか?」
黙り込んだ香穂子に、心配そうに月森が尋ねてくる。香穂子は小さく首を横に振って、それから小さな声で尋ねた。
「月森くん……ウィーンにはいつ戻るの?」
月森は、ふと唇を引き結んだ。しばらくの沈黙の後、静かに答える。
「……二、三日中には戻るつもりだ」
(天羽ちゃん、ビンゴ)
この週末を逃したら、本当に何も答えを出さないまま、再び月森と離れ離れになるところだった。
「月森くん、あのね」
勢い込んで名前を呼んで、ふと香穂子は急ブレーキをかけたみたいに、言葉を止める。
月森はただ、静かに香穂子のことを見つめている。
……それは、たとえ受け入れられることが分かっていても。
口にするのは、勇気が必要な言葉だ。
「あのね」
深呼吸を、ひとつ。
大切な、大切な言葉だから。
間違うことのないように、ゆっくりと。
「……月森くんのことが、好きです。だから、私と付き合ってください」
もう一度、離れ離れになる前に。
一つ区切りをつける物語の、その後へと続いていく新しい物語の、始まりの言葉を。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:11.5.5】
連作なので、あとがきは最後の作品で!


