その決意は、言葉を全て言い切るまでは何とか持ってくれたが、やっぱり持続はしなかった。
香穂子は唇を閉じて俯き、足元を見つめる。
月森が、どんな顔をしているのかよく分からなかった。……沈黙。
(……だから、あのう。こう……何かリアクションを……)
次の展開を月森に求めるのは自分勝手だと充分に理解してはいるが、香穂子だってもう、既にいっぱいいっぱいなのだ。この際是でも非でもいいから、何か言ってくれないかと、ちらりと香穂子は上目遣いに月森の表情を伺う。
すると、何だか月森は唖然とした様子で香穂子のことを見つめていた。
「……月森くん?」
耐え切れずに香穂子が名前を呼ぶと、月森が数度瞬いて、我に返った。
「ああ、すまない。……少し、びっくりしてしまって」
「そ、そりゃ、ちょっと唐突だったかもしれないけど」
「そういうことではなくて……」
拗ねたように香穂子が言いかけた言葉を、片手をあげて制し、月森はもう片方の手で口元を覆い、考え込むように目を閉じた。
「……そうか、俺は、そこまで君に伝えないといけなかったんだな……」
「……は?」
今度は香穂子の方が呆気にとられる。ぽかんと口を開けて月森を見つめていると、月森が困ったように微苦笑した。
「すまない。君に自分の想いを告げたら……それで満足してしまって」
それからどうするかなんて、考えていなかったんだ、と。
月森は衝撃の真実を告白した。
「え、……な、……ちょっと、待って」
香穂子の頭の中が混乱し始めた。両手の指先でこめかみを押さえ、香穂子が唸る。
「……私の気持ちは関係なかった。私の答えは必要じゃなかったとかって、そういうこと?」
「そういうわけでもない。……君にどう想われているのかを知ることは……怖いと思っていたし」
確かに敵は多かったし、特別に親しいと言える友人もいないけれど、月森は決して人に嫌われて平気だったわけじゃないし、好んで一人を選んでいたわけでもない。
ヴァイオリン以外に、自分が自分の手の中に抱えられるものがなかっただけだ。元来の不器用な性格ゆえに。
「それに、俺は誰かに好意を持って、そのことをその誰かに伝えることが、生まれて初めてだったから……きっと、精一杯だったんだ。伝えるだけで」
自分の想いを正直に伝えること。
……それすらも、月森にとっては青天の霹靂と言っていい出来事だった。
その後のことなんて、考えることすらできないくらいに。
「君の答えが必要じゃなかったわけじゃない。……ただ、俺の中ではあの告白も本当は予定外で……君が、これからも変わらずにヴァイオリンを続けてくれることが嬉しくて」
逢えない間、ひたすらに降り積もっていた香穂子への想いが溢れて、隠せなくなっただけだ。……本当は、自分の想いを伝える気すら、なかったのだ。
「……日野」
それでも、言葉にしてしまった以上は。
自分の心を彼女に見せてしまった以上は、月森は自分の言動に責任を取らなければならない。
……最後まで。
「……君のことが好きだ。だから、俺と付き合ってくれないか?」
先ほど、香穂子が口にした言葉を、月森がもう一度繰り返す。
優しい、穏やかな微笑を浮かべて。
「……それ、私がさっき言いました」
少しだけ唇をとがらせて、拗ねたみたいに香穂子が言ったのは、照れ隠しの一環で。
何だかもう、どんな顔をしてどんな言葉を言えば正解なのか、分からない。
「そうだな。……でも、俺から言い直す方が筋なように思えたから」
少しだけ体を香穂子の方へ向き直らせて、月森がふと香穂子へと手を伸ばす。
一瞬躊躇って、しばし思い悩んで。
それから、思い切ったように月森の手が香穂子の片手を取る。
冷たい温度を持つ月森の指先は、とても優しかった。
「……付き合うと言っても、どんなことをすればいいのか、俺にはよく分からない。……傍にいることすらも、またしばらくは出来なくなるから」
それでも、と月森は低い声で、落とすように呟いた。
「それでも、君が望んでくれるなら。俺はずっと、君のことを好きでいる。君がいつか、俺と同じ道を歩いてくれる日を、信じて待っている」
それは、香穂子にとって。
何て甘くて、幸せな言葉なのだろう。
「……傍にいてくれなくたって、いいんだよ」
胸の奥に、暖かくて、ほんの少し切ない……そんな想いが込み上げてくる。
その気持ちに、どんな名前がついているのかなんて、本当はよく知らないけれど。
この胸を締め付けるような、泣きたくなるような……それでも、これ以上の幸せはない……そんな想いに名前を付ければ『愛おしい』という感情になるはずだ。……きっと。
「離れてたっていい。思うように逢えなくたって……ただ月森くんが、心だけ私の近くに置いていてくれたら」
あの日、テレビの画面に映る月森を見た時の。
置いて行かれたような……どうしても手が届かない場所に月森が行ってしまったような、そんな喪失感。
(私も、寂しかったんだ)
本当は。
月森が香穂子とは違う世界に生きるべき人間なのだと、心のどこかでちゃんと分かっていたから。
努力さえ続けていれば、月森が生きる世界にいつか香穂子がたどり着けるなんて、そんな保証はどこにもない。『頑張る』ことだけですべてが報われるような、そんな生易しい世界などではないのだろう。
それでも、その奇跡を月森がずっと待っていてくれるなら。
……たどり着ける日は来なかったとしても。遥かな距離が二人を分け隔つのだとしても、月森が香穂子のことを忘れずに、時々振り返ってくれるなら。
それだけで、香穂子の想いは報われるから。
「もう、いいんだよ」
一生懸命笑ったつもりだけれど、何だか涙が溢れてきて、上手く笑えていないかもしれない。香穂子の手を握る月森の指先に、ほんの少し力が込められたように思えた。
「……そう言えば、俺の誕生日祝いなんだったな。今日は」
月森の頬がほんのりと染まって、緩んで。
その綺麗な澄んだ目が、少しだけ潤んでいるように見えたのは、香穂子の涙のせいかもしれなかったけれど。
それでも、その幸せそうな微笑みだけは、嘘ではないのだと香穂子にも分かる。
「今まで生きてきた中で、一番嬉しい誕生日プレゼントかもしれない。……ありがとう、日野」
月森が、そんな暖かな言葉をくれるから。
香穂子の涙は、もっともっと止まらなくなってしまうのだ。
「あのね、月森くん。私、月森くんの携帯の番号知らないんだけど」
ひとしきり泣いて、落ち着くのを待ってもらって。ず、と鼻をすすりながら香穂子が告げたのは、そんな言葉だった。
「ああ、そう言えば教えていなかったな」
ジーンズの後ろポケットから携帯電話を取り出し、月森はしばし動きを止める。その困惑するような気配に、香穂子は思わず吹き出してしまった。
「貸して。赤外線使って、登録したげるよ」
「あ、ああ。どうもありがとう」
香穂子も自分の携帯電話を取り出して、月森から預かったものと両方を操作する。そして無事にお互いの携帯電話の中に連絡先を登録することが出来た。
「……何か、どうでもいいこととか、ついつい連絡しちゃいそう……」
両手で握り締めた、手の中の携帯を見つめ、香穂子が困ったように呟く。返却された携帯をまたジーンズのポケットに押し込みながら、月森が小さく笑った。
「……楽しみにしている」
思わず、香穂子は目を見開いて顔を上げる。
そうして。
花が綻ぶように、ふわりと笑った。
どうでもいい出来事も。
些細な情報も、これからは遠慮なんかしないで、お互いに伝え合って。
そうして自分たちは知らなかったお互いのことを、少しずつ知っていく。
たとえ遠く離れた場所に生きていたとしたって。
もう不安になって、弱音を吐くことがないように。
茜色に染まった帰り道。
人気のなくなった下り坂を、どちらからともなく指先を絡め、手を繋いで。
香穂子と月森は肩を並べて、ゆっくりゆっくりと降りていく。
麓にたどり着いて、何となく顔を見合わせて笑い合う二人は。
これから二人で紡いでいく幸せな未来の、最初の1ページに記すべく。
生まれて初めての、とても不器用なキスをした。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:11.5.5】
ここまで読んでくださってありがとうございます。お疲れ様でした。
こちらは、漫画版を最終回まで読んで、どうしても物足りなかった部分を勝手に渡瀬が補完するために書いた創作でした。渡瀬のように納得いかなかった人もいれば、充分満足だった人も、それぞれいらっしゃるとは思うんですが、こういうまとめ方もあってよかったんじゃないかなあという意見の一端として眺めてもらえれば幸せです。
この話の流れで、あと1作「真夜中の電話」という補完創作を書いております。よろしければタイトルから飛んで、続けてお読みくださいませ。


