部屋が広がれば手っ取り早いが、物理的には不可能な希望でしかなく、現実的に物事を押し進めるためには、一番簡単な解決法として、ひたすらに片付けるしかない。
いらないものは破棄し、いるものだけを整理整頓する。
単純だが、一番効果が上がるはずの方法だ。
だが、片付けには様々な誘惑が付き物でもある。押し入れの奥の方に仕舞っていた昔の写真や古い漫画や雑誌等。目に止めては手を伸ばさずにいられないから、土曜の半日を費やしてみても、部屋は片付くどころか逆に被害を広げているような気さえする。せめて寝る場所くらいは確保しなければと、ようやく片付けが本格化したのは、もう夕飯が済んだ後だった。
押し入れの中の物を掻き出し、いるものといらないものを分別して、いるものだけを元の位置へ戻す。言葉にしてみればたった3つの動作で出来た単純作業だが、基本動作の回数とそれを繰返す回数は決してイコールではないのだ。
押し入れのスペースを半分くらい埋めた頃、香穂子はふと『それ』に気付いた。
掻き出したがらくたを片付けるうちに姿を表した箱型のオルゴール。中は空洞になっていて、小物入れになっているものだ。幼稚園か、小学校の低学年か。父親に誕生日プレゼントでもらったものだ。その頃の自分の年齢と比較して、大人びていたデザインがお気に入りで、当時の宝物を大事に大事に収めていた記憶がある。
何気なく、香穂子はその箱を手に取った。目線の高さに持ち上げて、しげしげと眺める。ゆっくりと開けてみたオルゴールはさすがにもうネジが切れていて、音を奏ではしなかったけれど。
中身は、ひどく微笑ましいものだった。綺麗な色のビー玉や、変わった形をした消しゴムや。今になってみれば、取るに足らないものだけれど、当時の自分が何よりも大切にしていた宝物。こんなささやかなものなのに、友達と喧嘩なんかもしたんだっけと幼かった自分を懐かしく思った。
(……あれ?)
小物の一つ一つを手にとって、思い出を辿るうち、香穂子は小物の下の方に隠されていたものに気付く。それは、色褪せたパステルピンクのリボン。途中途中に妙なくびれが出来ているから、一度なりとも結んだことのあるはずのもの。だが、初め香穂子は、そのリボンが何故こんなところに大切に仕舞われているのかが、全く思い出せなかった。
指先にリボンを取り、長く伸ばしてみる。大きく瞬きをしてそのリボンを眺めていると、ふと記憶の狭間に隠れていた声が蘇る。
(じゃあ……これはきみのかみに)
見た目には、自分の周りにいた同年の男の子達と変わらないのに。
正装のせいか、やけに気品のある雰囲気と、少しだけ大人びた口調が。
……何だか、とても新鮮だったのだ。
その日、香穂子は母と一緒に近くの小さなホールへ赴いた。
ピアノを習っている友達の発表会だった。そんなふうに周りが皆、習い事を始める頃だったので、香穂子もやってみたいと両親にせがんだこともあったのだが、「あんたには向いてないわよ」の一言で却下された。……今になると、楽器などという習い事をさせるには、3人姉弟を抱える日野家の財政事情は甘くはなかったのだと納得もするのだけれど。
それでも、その日の香穂子は拗ねていた。友達は皆、綺麗な衣装を着てステージに上がるのに、香穂子だけが暗い客席でそれを見ていなければならない。発表会が近付くにつれ、友達との会話もそれ一色になっていたから、話の輪に入れないという点でも、幼いながらに孤独感を感じていたのだ。
母もそんな香穂子を多少は哀れんだのか、いつもは面倒がって結んではくれない香穂子のくせっ毛を、朝から格闘してツインテールにまとめてくれた。
「帰るまで、絶対に崩しちゃダメよ。特に、発表会前にそれをやらかしたら、怒るからね!」
と、釘も刺されたけれど。……要するに、大人しくしていろという母の命令なのだが。
母は、近くの花屋で香穂子が見たこともない綺麗な花束を幾つか買った。小さな花束二つは、ステージに上がる香穂子の友達に贈るため。もう一つは、母曰く「凄く有名な人」に渡したい、ということだった。
「やっぱり、演奏が終わったら『ブラボー!』とか言うべきなのかしらね」
頬に指で触れ、少しだけ困ったように母が言った。
「なーに?」
「演奏が素敵だったら、そう言って誉めて花束を渡すのよ。『貴方の演奏は、とても素晴らしかったです』って」
……今思い直してみると、何ていい加減で適当な知識だったんだろうと思うのだが、当時の香穂子にそれが分かるはずもなく、そうなんだ、と神妙に頷いた。
ロビーに知り合い何人かで落ち合って、母達は明るく世間話を始めた。
香穂子はつまらない。友達は皆ステージに上がるため、周りには大人しかいないからだ。一旦話が始まると、母は自分には目もくれないし、周りを見渡してみても、香穂子の興味を引くものは何もない。
しばらく、所在なげにうろうろ、と母親を含んだ集団の周りをうろついてみて、香穂子はふと、ロビーを探検するために母親達の輪を離れる。同じような年齢の子供達もロビーを走り回ったりしていたが、知り合いはいない。だから、きょろきょろと高い天井や壁にかけられた絵を眺めながら、一人でてくてくと歩く。ひどく高い目線の位置にある小さな絵に描かれているものがなんだろうと、空を仰ぎ、ぽかんと口を開けたまま突っ立っていると、観客なのだろうか、数十人の人の固まりが香穂子の背後を談笑しながら通り過ぎていく。綺麗な一列ではないその広がった人間の集団は、なす術もなく香穂子の小さな身体を呑み込んでしまった。
(え……あ、あれ?)
目の前を、スーツ姿のおじさんが歩いていった、と思ったら、香穂子は人に押されるようにして、どんどんと人波の中心へと押されていく。何度かごめんね、気を付けて、と声をかけてもらったけれど、やがてその人波の渦から抜け出る頃には、香穂子は元いた場所から随分と離れたところに立っていた。母達の輪が、かなり遠い位置にある。
慌てて母の元に帰ろうと足を踏み出しかけて、香穂子はふとその踏み出しかけた足をとめる。肩に落ちてくる髪の、到着する位置が、両側でそれぞれ違う。さあっと青ざめて、両手で髪の結び目の位置に触れてみた。
同じ位置にあるはずの結び目の。
片方が、綺麗さっぱりなくなっていた。
(おこられる……)
どこをどう歩いたのかは分からないが、香穂子は狭く人気のない別のロビーへと辿り着き、そこにあった黒革の一人掛けのソファに、よいしょ、とよじ登る。ツインテールの片方が解けた拍子に、髪を結んでいたリボンの方もどこかへ消えていた。きっと、あの人波に攫われてしまったのだろう。
リボンがなければ、自分で結び直してみることもできない。ソファに座り込んで、香穂子は途方に暮れた。
ツインテールにしてもらうのが香穂子は好きだったが、母は香穂子の髪質を結い上げるにはバランスが難しいからと言って、あまり結んでくれない。今日も、無難にまとめやすい髪型にしなさいと言われたのを、せっかくお洒落をするのだからと無理に結い上げてもらったのだ。
……何か一つ、嬉しいと思えることがないと、自分がみじめだったから。
(バチがあたったんだ)
人を羨んだりしたから。
こんな演奏会、つまらないなんて思ったりしたから。
かみさまはちゃんと見ている。
いつも、おかあさんがそう言う。
かほは悪い子だ。だから、かみさまがおこったんだ。
そう思い込んでしまうと、涙が溢れてきた。
自分が、情けなくて、悔しくて。
人がいないのをいいことに、香穂子は盛大に声を上げて泣き出した。
……どれくらい、泣き続けていただろう。いつしか泣き疲れて、しゃくりあげることしか出来なくなった。そうして我に返り、香穂子はふと、一つの視線に気付いた。何気なくそちらを見てみると、物陰から同じ年齢くらいの一人の男の子が、困った表情で香穂子を見ていた。彼の突然の登場に、香穂子はぱちりと大きく瞬きをする。まだ止まらない涙は、瞬きで一つ粒を落としたことで、また新しく生まれてくる。
「……ど、どうか、した……?」
男の子が、恐る恐る香穂子に声をかけてくれる。
その声が、思いがけず優しくて。
気のゆるんだ香穂子に、また新しい涙が浮かんでくる。
「ひ、人がいっぱい、いてぇ……ぐしゃぐしゃ、ってなってたら、リボン、取れたぁ……おかあさん、くずしたらダメってい、いってたのにぃ……」
言ってもどうしようもないと分かっているのに、堰を切ったように言葉が溢れてきた。自分で経緯を説明しながら、また哀しいような、悔しいような気持ちになって、香穂子は大声で泣き出した。
男の子が困惑する気配が伝わる。だけど、一度吐き出した気持ちは止めようがなくて。わんわんと泣きじゃくる香穂子の見えない場所で、しばらく立ちすくんでいた男の子が、意を決して何かを始めた。かたん、かたん、と何かを開いたり閉じたりする音。
やがて。
狭いロビーに優しい音が流れ出す。ゆっくり、ゆっくり。一音を辿るように紡ぎだされる音。香穂子はふと涙を止めて、男の子の方を見る。肩に楽器を挟んで、弓を引く男の子が、一瞬気遣わしげな視線を香穂子に向けた。
男の子が繋いでいく音の形に気付いて、香穂子は涙目のまま、ふわりと笑顔になった。
「……キラキラ星だあ……!」
明るくて、可愛くて。
香穂子が大好きな曲だった。
友達のえみちゃんや、ゆきちゃんと、同じようにピアノ教室に通って。
弾いてみたいと思っていた曲だった。
嬉しくて。
本当に嬉しくて。
香穂子は思わず、辿々しい声で、男の子の音を追いかけながら、キラキラ星を歌う。
それに気付いた男の子は香穂子の歌に合わせて、同じ旋律を何度か繰り返して弾いてくれた。
「すごいね!がっき、じょうずだね!」
尊敬の眼差で香穂子がそう話しかけると、男の子は喜ぶでも照れるでもなく、逆に困ったような表情で楽器を下ろし、視線を反らした。香穂子は構わずに話を続ける。
「かほもね。がっきやってみたいんだよ。でもおかあさん、ならいごとはお金かかるからダメって言うの。近所のえみちゃんも、ゆきちゃんもピアノならってるのに、かほだけなんにもやってないんだよ」
ふーっと溜息をつきながら、香穂子はふと、友達の事に関連して、母が言っていた言葉を思い出す。
(そうだ、お花をわたさなきゃ)
あんなに、すてきな演奏だったのだから。
そう思って、自分の周りを見渡してみても、当然ながら花束なんてない。だが香穂子は、自分が一つだけ花を持っていることに気がついた。
男の子が何事かと見守っている中で、わたわたと慌てて自分の胸にあったコサージュを、不器用な仕草で外す。白いバラの造花を、目の前の男の子に笑って差し出した。
「はい、これ」
「……え?」
男の子は、訳が分からないというような怪訝な表情で、香穂子とコサージュを見比べる。香穂子は母から聞いた話を男の子に説明する。……説明の過程で、さすがに母が自分を探しているかもしれないという現実が蘇ってきた。
戸惑う男の子にコサージュを押し付けて、おかあさんのところに行くね、とソファを降りて駆け出そうとすると、男の子が冷静に香穂子を呼び止めた。
「……かみのけ、いいの?」
「あっ!」
そもそもの原因を思い出し、香穂子は解けた髪を片手で押さえる。
男の子の演奏で、気持ちは浮上したけれど、何一つ、事態は解決していないのだ。
「……いつも、かみがうまくまとまらないの。かほ、くせっけだから。だけど、せっかくきれいなお洋服きるんだからって思って、おかあさんに無理ゆって、ふたつむすびしてもらったんだよ。でもリボンもなくしちゃったの。……おこられる……」
言っても仕方がないのだが、言わずにはいられない。……そうして、自分で言葉にするうちに、また泣きたくなってきた。
男の子が困る。……困らせると分かっていても、香穂子にはどうしようもない。
だが男の子は、ふと思い付いたように香穂子の目の前で、香穂子が渡したコサージュのリボンを、するりと指先で解いて抜いた。
「じゃあ。……これはきみのかみに」
衣装とコサージュに合わせた髪に飾ったリボンは、今男の子が引き抜いたのと同じ、パステルピンク。少しだけリボンの肌触りは変わるけれど、見た目にそう大きな違いはない。
「おれが、結んでみるから。……おかあさんの、てつだったことがあるから、たぶん、できると思う」
「……うん!」
香穂子が大きく頷く。ソファに腰掛けると、立ったままの男の子が、香穂子の解けた髪をゆっくりゆっくり手櫛で梳いてくれた。小さな手で、意外に器用に男の子は香穂子の髪を結い上げてくれる。……おかあさんよりじょうずかも、という感想は、心の奥底に仕舞っておいた。
香穂子は、両手で結び目の位置を確かめる。同じ高さ、同じ側面に、きちんとリボンの感触があった。
「すごい、じょうず!ありがとう!」
にっこりと笑って、今度こそ迷いなく香穂子は母の元へ走り出す。早く行かないと、別の意味で母に叱られてしまうと思ったからだ。
幾つかの曲り角を曲がって、何とか元いたロビーに辿り着くと、香穂子を探していた母に、やはりこっぴどく叱られた。ついでにコサージュをなくしていたことにも、大きな雷が落ちた。
だけど、不思議と香穂子は落ち込まなかった。耳の奥に、友達のピアノなんて比較にならないくらいの、あの『キラキラ星』が焼き付いていて。
香穂子を、励ましてくれていたから。
「そういえば、結局あの日最後まで演奏会見なかったんだよなあ……」
男の子は正装だった。ならばステージで見れるかもしれないと期待していたのに、香穂子の勝手な行動に怒り心頭だった母は、香穂子の友人の出番が終わった途端、席を立って家に香穂子を連れ帰ってしまったからだ。
(せっかく、有名なピアニストの演奏が生で聴けるチャンスだったのに!)
そう言って、帰りの道筋で延々と説教をされたことを思い出した。
「あ、余計な事思い出した……」
思わず顔をしかめて頭を抱えながら、ふと香穂子はその母の言葉を脳裏で繰返す。
(……有名な、ピアニスト……?)
あれは、近所で楽器を学んでいる人達が主催した、地域ぐるみの発表会だった。
香穂子の通う星奏学院、その音楽科は、確かに過去に有名な人物をたくさん世に送りだしたのだという。だが、そういう実力のある人間ほど、いつまでもこんな場所で燻ることはない。もっと都会か、それとも外国かへ行ってしまうものだろう。
だから、香穂子の生活空間の中で、『有名なピアニスト』と呼べる人物を、香穂子はたった一人しか知らない。
……浜井美沙。
月森の、母親だ。
「……そ、んな……」
愕然と香穂子は呟く。
……そんな偶然が、あるわけがない。
それは香穂子に都合のいい、おとぎ話だ。
香穂子の中の常識は。
そんなふうに、有り得ない奇跡を否定しているのに。
あの、ヴァイオリンが。
……そう、ヴァイオリンだ。
あの男の子が弾いていた、当時の香穂子ではあまりよく名前を知らなかった楽器。
あれは、間違いなくヴァイオリンだ。
そして、一音で香穂子を魅了したあの音色。
「……月森、くん……?」
あの男の子の名前を。
学校がどこかとか、住んでいる家はどの辺りとか、彼自身を特定する、詳しい情報を。
あの時ちゃんと聞かなかったことを、香穂子はあの後、とても、とても後悔した。
優しい音楽を奏で。
泣きわめく香穂子の側にいてくれて。
解けた髪を、結び直してくれた。
年相応ではない、妙に丁寧な口調で。
タキシードを違和感なく着こなしていた、あの男の子は。
香穂子にとって、小さい頃絵本で見て憧れていた、王子様みたいな存在だったのに。
香穂子の記憶の狭間に、こっそりと息づいていた、あの綺麗な男の子が。
香穂子にとっての、初恋だったのに。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:07.6.8】
はっきりと書くと決めていたのはここまででした。
お互いに「どうだろう?」と疑いつつ言い出せないのもアリかと思ったんですが(笑)リクエストが多かったので、答え合わせ編も書かせていただきました。
子供月森の口調が一番頭を悩まされました(笑)こういうシリーズも、書くと楽しいです。
続き→083.君は誰?(月森視点)/019.重複する意識(完結編)


