臨海公園、海が一望出来る、二人がお気に入りの場所。少しヴァイオリンを練習した後、お昼でも食べに行こうかと話していたから、昼前に設定した待ち合わせの時間にはわずかばかりの余裕がある。
だからその日、月森は珍しく、香穂子に逢う前に寄り道をした。
香穂子が待ち合わせ場所に到着すると、すでに馴染みのベンチには月森の姿が在った。
余程の事情がない限り、香穂子が月森より先に待ち合わせ場所に辿り着くことはない。いつか月森より先に待ち合わせ場所に着いて、彼をびっくりさせるんだと意気込んでいた頃もあったが、なかなかそれが叶わない現実を知ると、いつの間にかそんな意地を張ることも馬鹿らしくなった。……それでも、いつか月森を待つ立場になりたいと願っているのは、相変わらずなのだけれど。
しかし、今日の香穂子にはそういう些細な意地よりも、自分の頭を埋め尽くしている案件があって。
待ち合わせ場所に近付いて、そこに座っている月森の背中を見つけた途端、思わず香穂子はバッグの中に忍ばせたものに触れ、ぎゅっと握りしめる。
バッグの内ポケットの中に、小さく折り畳んで忍ばせたものは、パステルピンクの古いリボン。
香穂子が昨日、押し入れの奥から見つけ出した、淡い初恋の想い出。
この大本になるコサージュを手渡したのが、月森だったのかどうかは、どれだけ記憶の中にあるイメージと状況が月森を指し示していたとしても、まだまだ半信半疑だった。それでも、香穂子一人の勝手な想い出にしても構わないから、確認してみたかった。
だから、今日はこれを月森に見せて、そして聞いてみるのだ。
このリボンに見覚えがないか、と。
……もちろん、あの男の子が月森ではなかったり、万が一月森であったとしても、あの出来事を覚えていなかったりしたら、多分、香穂子は哀しい。
哀しがったり、気を落としたりする方が間違っているのだと知っていても、がっかりせずにはいられないだろう。それを知っていても、香穂子は月森に尋ねてみたかったのだ。
だが、もし、月森が知らないと答えたり、悩む素振りを見せるようなら、無理矢理に思い出させたり、誘導尋問的に強引に月森の中に想い出を捏造する気はなかった。
その時には、もうこの話はここで終わらせてしまっていい。
過去に自分達が逢っていようがそうでなかろうが、今、ここにいる自分達の何かが変わるわけではない。
彼への想いの、何が目減りするわけじゃない。
そういう根本的なことを、香穂子は見失ってはいなかった。
たくさんの不安と、ほんの少しの期待。
そんな感情で意識を満たしたまま、香穂子は月森の背中に向かって、彼の名を呼ぶ。
座ったまま肩越しに振り返った月森は、香穂子の姿を認めて、いつものように、ふわりと柔らかな笑顔で迎えてくれた。
小一時間程、楽譜を睨みつつ、二人でああでもないこうでもないと試行錯誤を繰返し、お互いの意見を吟味しながら、練習を積み重ねていく。香穂子と月森では目指す音楽が全く違うから、逆に曲の解釈を見せ合ってみると、面白いことになる。そんな化学変化みたいな音楽を十二分に楽しんでいる香穂子に、どこか呆れたような口調で月森は、「君にはそういう音楽の作り方が合っているのかもしれないな」と言う。
「君の音は、うまく他人の音を繋ぎ合わせてまとめる協調性と包容力がある。……アンサンブルや、カルテットなどをやってみると面白いかもしれない」
「そっか、一概にヴァイオリンって言ってもいろんな演奏の仕方があるんだもんね。……月森くんはどう考えてもソリスト向きなんだけど」
「……俺は、あまり協調性がないからな。もちろん合わせることが出来ないわけじゃないが。……だが、ソリストを目指すと言っても、全く他の音が混ざらないということはない。そこはまだ、俺の課題ということだ」
昼食を食べに行くために、ヴァイオリンを片付けながら、月森が苦笑混じりにそう答えた。
そうじゃなくて、月森くんの音は一番前にいないと勿体無いってことなんだけどなあ、と心の中で呟きつつ、月森がそういうことをさらりと言い切ってしまうことも悪くはない傾向だと思えたので、香穂子のその意見は心の中で呟くに留めた。
(……あ)
月森と同じように自分の荷物を片付けながら、香穂子はバッグの中のあのリボンのことを思い出す。
尋ねてみるには最良のタイミングと思えた。もし月森にこのリボンの存在の意味が分からなかった場合、冗談で流すためには、面と向かって尋ねるよりも何かのついでに尋ねる方が誤魔化しやすいと思えたから。
何気なく尋ねてみるつもりでも、どうしても不安と期待がごちゃまぜになった複雑な心境は、言葉尻を震えさせそうだったけれど。意を決して、香穂子はバッグの中で片手にリボンを握り締め、顔を上げた。
「月森くん」
「香穂子」
呼びかけたのは、同時だった。呼ばれると思っていなかった香穂子がぱちりと瞬きをして月森を仰ぎ、こちらも香穂子からの呼びかけを予想していなかったらしい月森が驚いたように香穂子を見下ろした。
「あ……な、何?」
「あ、いや……大した話ではないから、後でいい。……君は?」
「私も別に、大した話じゃないんだけど……」
言いながら、香穂子は遠慮して堂々巡りを続けていると、余計に切り出しづらくなるということを悟る。いつも他愛無い話は躊躇わずに話す香穂子だから、躊躇った方が逆に不自然に思えるのだ。
「あの、……あのね!」
口籠りながらも、香穂子はさっと月森の前に片手を突き出す。掌を上向けて、指先を開いて。その上に乗せた古いリボンを月森に示した。
「このリボン……見覚えないかな?」
……月森の表情は、変わらなかった。少なくとも、香穂子にはそう見えた。
黙ったまま、月森は香穂子の掌の上にあるものを、じっと見つめている。怪訝そうな表情をされないことは救いだったが、特に驚愕する様子もないことが、ほんの少しだけ……やはり、寂しかった。
(まあ、そんなにうまい話があるわけないんだよね……)
過去の、幼い淡い初恋の相手が。
今、香穂子が恋し続ける、目の前のこの人だなんて。
そんな運命的な、夢みたいな奇跡。
落胆しつつも、自分の乙女思考に苦笑しながら、香穂子はもう一度、そのリボンを握りしめる。
「見覚えないなら別にいいんだ。変なこと聞いてごめ……」
「香穂子」
リボンをしまおうとした香穂子の手を、慌てた様子で月森が掴んで止めた。驚いて月森を見ると、月森は少しだけ笑って、香穂子の手を掴んだまま、もう片方の空いている手で自分の荷物の中を探る。
「それは、『返して』くれ」
「……え?」
月森の言葉の意味が分からなくて、香穂子が尋ね返す。香穂子に向き直った月森は、荷物の中から取り出した『何か』を、香穂子の目の前に差し出した。
「それは、本当は、全部君が俺にくれたものだっただろう?」
差し出された月森の掌の上に。
小さな小さな、白いバラ。造花のコサージュ。
両側に飾られているはずの、パステルピンクのリボンの片方が解かれて。
不完全なままの。
「……っ!」
声にならない声を上げて、香穂子はかすかに震える片手の指先で、造花の花に触れる。
もう記憶には残っていないはずの、遠い昔のコサージュの感触を、この指が覚えている気がする。
あの時、目の前の男の子に差し出した、懐かしいコサージュの感触を。
そして、同じように。
突然差し出した偽物の花を、呆気に取られたように受け取って。
……優しいヴァイオリンを奏でて、香穂子の涙を止めてくれて。
解けた髪を、結んでくれた。
あの、優しい指先の感触は。
今、香穂子に触れているその指先が持つものと。
同じ、密やかな温もりを持っていたような気がした。
「やはり……君、だったんだな」
溜息を付くように。
吐息混じりの優しい声を、月森は吐いた。
突然目の前に現れて。
月森の全てを自分のペースに巻き込んで。
拙い音色を、心の底から喜んでくれた。
……花を。
そして、月森の心に温もりを。
与えてくれた、あの想い出の中に生きていた少女。
朧げだった懐かしく好ましいあの輪郭は、目の前の人物の上に重なって。
そうして、溶け込んで一つの物になる。
お互いの意識が、『愛おしい』と認識する。
目の前の、存在になる。
「俺の意識が、勝手に君を造り上げているのかもしれないと思っていた。……あの時の君が、君であって欲しいと俺が願うから、こんなにも君と重なりあう部分が多いのではないかと……」
あの時の少女の癖っ毛は、本当に同じ色をしていただろうか。
あの時の少女は、本当に自分のことを「かほ」と呼んだだろうか。
遠い記憶が造り出す、今の月森が振り返る想い出は、自分の願いが勝手にあの時の少女と香穂子とを、結び付けている虚像なのではないかと、ずっと疑っていた。
「だが俺は、俺が『好ましい』と思える存在を分別する力を、どうやら信用していいらしい」
どこか自嘲するように笑って、月森は腕を伸ばす。まだ驚きで、呆然としたままの香穂子を、柔らかく、腕の中に抱いた。
すっぽりと包まれた温もりに、何かが溶けていく感じがした。
そっと月森の背中に両腕を回して、縋り付きながら、香穂子は涙声で呟いた。
「……初恋、だったんだよ。だから、後からすごく後悔したの。名前も学校も聞けなかった。あの後お母さんにめちゃくちゃ叱られて、演奏も聞けなくて……パンフとかも残ってなくて」
今だったら、調べる方法は幾らでもあっただろう。
だが、幼い香穂子には、母から何も聞きだせなければ、そこで終わってしまう出会いだったのだ。
「そうか、やっぱり怒られたのか」
香穂子の頭上で、月森が笑った。
その言葉そのものが、二人の過去が繋がっていた確かな証明のように思えて、香穂子は泣きたくなった。
あの時確かに途切れてしまったものが、今こうして、長い長い年月を経て、また新しく繋がり直そうとしているのだから。
「俺にとっても……初恋と呼べるのは、あの時の君だけだったと思う」
ヴァイオリンだけを糧に、香穂子に出逢うまでの年月を過ごしてきた月森にとって、好ましいと思えた存在は、あの時の、あの少女だけだったから。
ゆっくりと、月森が身を起こす。
涙目の香穂子の顔を至近距離で覗き込んで。
ふと、その目尻に甘い笑みを滲ませた。
「……俺が恋をするのは、どんな時でも、君だけしかいないんだな」
低い囁きが終わるのと同時に、柔らかな吐息と共に、月森の唇が香穂子の唇に触れる。啄むような口付けを受けながら、香穂子はあの初恋の意義を噛み締めるように、そっと目を閉じた。
過去のあの日に、自分ではない異性の誰かを愛おしいと思った気持ちは、年を重ねるごとにその形を少しずつ変えて、そうして今に辿り着く。
きっと、あの過去がなかったとしても、今の二人の想いが変わることなどないのだけれど。
積み重ねられたことによって深まった何かは、きっとあるはずだから。
月森の膝の上で、丁寧に十数年解かれたままだったリボンが元の位置に結び直される。
横から身を乗り出すようにして月森の作業を覗き込んでいた香穂子が、感心したように溜息を付いた。
「月森くんって、ホントに、意外に器用だよね」
「意外は余計だ」
顔をしかめた月森が、完成したコサージュを自分の荷物の中に戻す。想い出に貰い受けておきたい気持ちは香穂子にもあったのだが、「だから、元々君が俺にくれたものだと言っている」と、珍しく折れない月森に、返す言葉がなかった。
ちょっとだけ拗ねて、そっぽを向いたまま両足をぶらぶらと揺らす香穂子に、苦笑した月森が言った。
「……代わりに、これをあげるから」
「え?」
振り返った香穂子の前髪を、月森の綺麗な指先がかき上げた。長い前髪を横の方で押さえて、香穂子の目の前にもう片方の手に持っていたものを示す。
それは、小さなバレッタだった。
青と白のクローバーのモチーフが付いている。
香穂子の耳元で、月森の指先が髪の間に差し込んだバレッタが留まる、軽い音がした。
「……これ?」
「ここに来る前に買ってきたんだ。……もし君があのコサージュを覚えていたら、リボンを返してもらおうと思っていたから」
髪をまとめるのに代わりがいるだろう?と。
珍しく冗談めかした月森が笑った。
あの少女が、香穂子だったという保証はない。
例え香穂子であったとしても、それを香穂子が覚えている保証もない。
それでも、万が一同じ想い出を共有していたのならば。
不完全に残されている、月森の中にある想い出を。
完全な形にして、きちんと仕舞っておくために。
「……ホントに、私達って似たものナントカ……」
照れ隠しのためなのか、また涙目になりながらも、月森の手で留められたバレッタに指先で触れ、茶化すように香穂子が言った。
そんな香穂子の頬を指先で撫でて、月森はふと微笑んだ。
「……だが、それも悪くはない」
そして、どちらからともなく触れ合って。
飽きることなく、優しいキスを繰返す。
あの頃よりも大人になった自分達の感情は、思考が複雑になった分、綺麗で純粋な感情ばかりではないだろうけれど。
そんな意識を重ねながら、この想いは。
多分、もっと、ずっと。
深い愛情に育っていく。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:06.12.9】
どうやら甘々~に飢えてた頃らしいです。書いてて非常に楽しかった覚えが(笑)
余談ですが、私的に月森は手先はド器用そうだと思ってます。ヴァイオリンのあれこれはできるわけだしね。生き方は不器用だと思うけど(笑)
前の話→014.記憶の狭間に(香穂子視点)/083.君は誰?(月森視点)


