ふわりとほんの少しの時間をかけて舞い降りたものに、月森は視線を向ける。それは、コサージュだった。小さな、造花の。
「……俺のものではないようだが」
ぽつりと呟き、月森は手を伸ばして床に落ちたそれを片手に拾い上げた。色褪せたリボンはパステルピンク。昔から発表会だの演奏会だのによく出席していたので、花や飾りを身につけることは確かに珍しいことではなかったが、幾らなんでもこの色を身につけた経験はない。
小さな花のコサージュ。ピンクのリボン。……これはおそらく、女性が身につけるものだ。しかも、デザインから考えてみると、適する年齢はかなり低い。
何故こんなものが自分の部屋の戸棚の中に入っていたのだろう。しかも、昔の楽譜を大事にしまっていた場所に。
片付けてくれるのは家事の一切を担ってくれるハウスキーパーだが、片付けるものの分別くらいは自分でやる。このコサージュも、自分が選りすぐって、ここにしまうべきものだと判断して、片付けていたはずなのに。
手の中のコサージュを、月森はまじまじと見つめる。よく見てみると、何となく正面から見た時のバランスが悪い。手の中でそれをひっくり返し、本来はもう1本飾ってあるべきリボンが抜けていることに月森は気付いた。
(じゃあ……これはきみのかみに)
ふと、幼い頃の自分の声が脳裏に響いた。
飾られたリボンを抜き取り、長い髪が跳ねる目の前の人物に、差出した記憶。
(……そう、リボンの片方は、彼女に渡したんだ)
かみがいつもうまくまとまらないの。
舌足らずな声で、そう、あの子が言ったから。
あまり、緊張はしていなかったように思う。
それは、いつものコンクールや発表会のステージではなかったから。
本当に小さな会場だった。見慣れた正装の大人達ではなく、少しだけお洒落をした親子連れが元気にロビーを走り回るような。
原因は、母だった気がする。何かのチャリティコンサートだったか、楽器を趣味にしている婦人会か何かが主催の小規模な演奏会で、校区内ということで母親にも声がかかった。世界的なピアニストの名目を持ちながらも、実際の母は意外に気さくな人なので、ちょうどスケジュールが空いていたその日、頼まれたゲスト演奏を快く引き受けたのだ。
どういう話の流れだったのか、鉾先は月森にも向いた。母と一緒に1曲披露することになった。……その時は、家族の偉大さはまだ漠然としか捉えていなかったから、単純に母と一緒に演奏出来ることを喜んでいたように思う。
「出番は最後だからね。少し周りを探検してきていいわよ」
手作りの演奏会に相応しく、母もいろいろな準備に借り出されていた。本当はゲストという立場から、楽屋で待機していてもよかったのかもしれないが、滅多にない『母親』として参加出来る演奏会を、母は母なりに楽しもうとしていたのかもしれないと、今なら思える。
そういう意味でも月森に普通の同年代の子供達のように遊んで欲しくて、母はそう言って月森を控え室から追い出したのかもしれないが、ヴァイオリン以外を知らない自分は突然廊下に放り出され、途方に暮れてしまった。片手にはちゃんとヴァイオリンケースを握っていたから、場所を変えて今日演奏する曲を練習していようかと思い立った。控え室の側で練習していては、逆に音を聴きつけた母に「遊んでらっしゃい」とたしなめられそうで、とりあえず、練習ができる場所を探して移動することにした。
同じようなドアが並ぶ廊下を、練習ができる場所を探して歩く。時折鍵がかかっていないドアを開けて室内を覗いてみるが、全て今日の演奏会の演奏者が控え室として使っているのだろう。談笑している大人がいたり、綺麗に着飾った子供達が走り回っていたりで落ち着かない。
これでは、本当に母の言った通りの『探検』で終わってしまうかもしれない。そう思って、子供には似つかわしくない溜息をついた時、それは耳に届いた。
しゃくりあげる声。高いトーンの。
それは、月森がいる場所の突き当たりから聴こえて来る。
練習場所は見つからないし、他にやることもないしで、月森はふとその声に導かれるように突き当たりへと向かう。通路沿いに曲がってみると、少し広い空間が開けて、そこはロビーになっていた。
泣き声の主はあっさりと見つかった。ロビーの大きな黒革のソファに両足を投げ出すようにして座っている女の子。ツインテール(……という結び方の名前は、月森は知らなかったが)の片方が解けて、肩に跳ねる毛先が落ちていた。
年の頃は同じくらいだ。それでも、その頃の月森はもうあまり人前で大っぴらに泣ける子供ではなかったので、堂々と泣いているその子がとても不思議な生き物のように見えた。
(……どうしよう)
泣いている子を目の前にして、どうしていいか分からず、ソファの陰から見つめていると、その子の方が月森の存在に気付く。ぱちりと大きく瞬きをした目尻に、また大きな涙の粒が浮かんだ。
「……ど、……どうか、した……?」
恐る恐る尋ねると、少女はく、と息を呑んで、またくしゃりと顔を歪めた。咄嗟に月森は後ずさる。
「ひ、人がいっぱい、いてぇ……ぐしゃぐしゃ、ってなってたら、リボン、取れたぁ……おかあさん、くずしたらダメってい、いってたのにぃ……」
おこられるぅ、と情けない声で呟き、少女はまた盛大に泣き始める。……顔の状態から見て、月森がここに辿り着く前にも相当泣いていたのだろう。
(……ど、どうしよう)
顔の表情は変わらなくとも、月森は焦る。あまり同年代の子達と頻繁に接する機会がなかった月森は、そういう些細なことでも、咄嗟にどう対応していいのかが分からなかったのだ。
そう……分かるのは、ヴァイオリンの事だけ。
月森は、自分のヴァイオリンケースの鍵を開け、ステージ用に一通り調整していたヴァイオリンを取り出す。構えながら、頭の中で必死に選曲をする。
(蓮がちゃんと弾けるのは知っているわ。だけど、あまり難しいものを選んではダメよ)
(今回は、蓮くらいのヴァイオリンを知らない子達に、楽しんでもらわなきゃいけないんだから)
今回の演奏会用の曲を決めるのに、母が月森に言い聞かせていた言葉を思い出す。少しだけ、寂しそうな顔をして。
(……蓮が知っていても、皆は分からない……そういうことがあるのよ。……貴方が、皆が知っていて当たり前の事で、知らないことがあるように)
だから。
(だれにでも、分かる曲……)
演奏会には、別の曲を選んだけれど。
最初に母にこれはどうかと尋ねた時、それはいいわね、と母が微笑ってくれたのだ。
月森は、ゆっくりと弦に弓を滑らす。丁寧に丁寧に、なぞる一音に、ふと少女の泣き声が止まった。弓を動かす手はそのままに、ちらりと視線を向けると、涙目のままの少女の表情が、一瞬のうちに笑顔になった。
「……キラキラ星だあ……!」
今泣いたカラスがなんとやら。
両手を握りしめ、食い入るように月森の姿を見る少女の瞳が、きらきらと輝く。
しばらくの後、舌足らずな声が、月森の奏でるヴァイオリンを辿って歌いだした。
とても、上手とは言えないけれど。
優しくて、暖かい。明るい歌声だった。
「すごいね!がっき、じょうずだね!」
尊敬の眼差しで自分を見つめる少女に、月森はどう返答していいのか分からない。黙ったまま突っ立っていると、少女は自分勝手に語り出す。
「かほもね。がっきやってみたいんだよ。でもおかあさん、ならいごとはお金かかるからダメって言うの。近所のえみちゃんも、ゆきちゃんもピアノならってるのに、かほだけなんにもやってないんだよ」
ふーっと大きな息をついたと思ったら、少女はふと何かに気付いたようにきょろきょろと辺りを見回す。何事かと月森が見守っていると、ふと自分の胸元に手を当てた少女は、そこに飾ってあったコサージュを不器用な手付きで外す。
「はい、これ」
「……え?」
差し出されたそのコサージュの意味が分からず、月森が戸惑う。
少女はにっこりと笑い、月森の片手の中にコサージュを押し込んだ。
「がっきがじょうずだったら、『ぶらぼー』っていって、お花あげるんだよ。おかあさん、えみちゃんにあげるんだって、お花買ってたもん。……かほもね、今のきみのがっきにお花あげたいんだけど、もってないから。代わりにあげる」
じゃあ、おかあさんとこに行くね。と少女はソファからよいしょ、と降りる。どうでもいいことなのだが、気にかかって、月森はそのまま脇目も振らずに走って行きそうな彼女に、思わず声をかけた。
「……かみのけ、いいの?」
「あっ!」
忘れていたことを思い出した素振りで、少女は片手をあげて落ちた髪を押さえる。せっかく笑っていた声が、くしゃりと泣き声に崩れる。
「……いつも、かみがうまくまとまらないの。かほ、くせっけだから。だけど、せっかくきれいなお洋服きるんだからって思って、おかあさんに無理ゆって、ふたつむすびしてもらったんだよ。でもリボンもなくしちゃったの。……おこられる……」
月森を振り返って、また泣き顔になる。
ああ、と月森が焦る。せっかく、笑ってくれたのに。
自分のヴァイオリンで。まだまだつたない音色を、嬉しそうに聴いてくれたのに。
「じゃあ。……これはきみのかみに」
ふと、手の中に押し込まれたコサージュに気付いて、月森は飾り付けられていたリボンを解く。パステルピンクのそのリボンは、少女の今日の服装にきちんと合わせられていたのか、頭の片方に残ったリボンと、同じ色をしていた。
「おれが、結んでみるから」
「……うん!」
母の衣装や、髪飾りを直した経験があるから、月森は慣れていた。簡単に手櫛を通してみると、確かに跳ねはすごいが、意外にすんなりと指先を通す。
同じ高さに髪を結んでやると、少女は両手で髪の位置を確認し、嬉しそうに笑った。
「すごい、じょうず!ありがとう!」
片手をひらりと振って少女は唐突に走り出して行く。
ぱたぱたと軽い足音が遠ざかって、最後には月森とヴァイオリンだけが残された。
……そして。
(……あたたかい)
手の中に小さなコサージュ。
飾りの片方のリボンをなくした、不格好な。
それでも、あの子の存在と同じ温もりが、それには宿っているような気がする。
月森は、大事に大事に、そのコサージュを片手の中に握り締めた。
(……初めて、だったんだ)
父の事も母の事も関係なく。
難しい曲を、弾きこなしたわけでもないのに。
あんなふうに、嘘偽りのない笑顔で。
……自分のヴァイオリンを、褒めてもらったのは。
(だから、あの時からこれが俺の宝物だったんだ)
家族のプレッシャーに、幼いながらに潰されそうになる時、励ましてくれたのはこの造りものの花だった。いつの間にか、目先の向上にしか目が行かなくなってしまって、存在すら、月森の心からなくなりかけていたものだったのだけれど。
「……君は、誰?」
手の中の花に。
ひいては、あの時のあの少女に、小さく月森は語りかける。
……そんな馬鹿な。
そんな偶然は有り得ない。
そう、何度も心の中で言い聞かせて、打ち消そうとするのに。
どうしても、思ってしまう。
あの時の少女から受け取った暖かさが、彼女の持つものとあまりにも似通っているから。
記憶の奥底の、朧げな姿さえ、彼女の姿を真似てしまう。
どうしても、……どうしても。
願い、そして、……祈る。
あの時のあの少女が。
香穂子であって欲しいと。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:07.11.25】
連作なので、あえて詳しいことは書きません(笑)
完結編をどうしようかと思いつつ、結局書きました。「019.重複する意識」へどうぞ!
「014.記憶の狭間に」(香穂子視点)/「019.重複する意識」(完結編)


