逆ギレは寝不足のせい

with you 第3話

「あーあ、見事に寝不足な顔してぇ」

 香穂子が自分の教室に足を踏み入れると、香穂子の顔を見た直は、開口一番にそう言い放った。
 結局昨日はあのまま帰宅することになった。月森蓮という青年の言葉を思い返しては、香穂子に有無を言わせなかった彼の頑なさに、腹が立って、ムカついて、もどかしくて……そして、ぐるぐると考えた挙句に最終的に落ち着く場所は。
(それもそうだなあ……)
 月森の言っていたことは、他の誰でもない香穂子自身が、理事長の申し出を受け入れた場合に厄介になると考えてた事柄だ。
 おそらく、音楽科の生徒たちは皆月森と同じように考えるに違いない。普通科で、選択教科すら音楽に携わっていない人間が、何故学院代表として選抜されるのか。どうしてもそういう人物を選抜すると言うのなら、その人物には選ばれなかった他の音楽科の生徒たちを納得させるだけの特出した実力があるのか……香穂子の思いに関係なく、必要以上の成果を求められ、批判に晒される……分かりきっている。
 例え、この申し出を断ったとしても、内申等には何も影響がないと理事長は言っていた。ならば、どう考えたところで香穂子が選ぶべき最善の答えは、この選抜を断ることなのだ。
 結論は明らかなのに、香穂子は昨日の放課後以上に今自分が出すべき答えに迷っている。
 ……脳裏に焼き付いたのは、遠慮のない辛辣な言葉だけじゃない。
 香穂子の体に染み込んだみたいに、目を閉じたらぐるぐると体中を巡る……音。
(だって、もしあの申し出を受け入れたなら、あの音と一緒に弾けるってことでしょう?)
 とても綺麗で繊細で。そして恐ろしいくらいに正確な。
 『アヴェ・マリア』の音色。
 昨日、屋上で耳にした月森蓮のヴァイオリンが、香穂子の決断をまた一つ困難にしていた。
 ……当然、昨日の夜はよく眠れなかった。
「まあ、心配しなさんな。……香穂がどんな選択したって、私と……多分美緒は、香穂の味方だからさ」
「……直」
 香穂子の前の席に腰かけて、体を反転させながら直は笑顔でそう言う。その笑顔のまま、直は続けた。
「昨日のケーキセットに、更にお土産用にシュークリーム6個セット付けてくれれば、私たちとアンタの友情は間違いなし!」
「高っ!……いや、安っ!? シュークリーム6個で私たちの友情は買えるのか!?」


 直との馬鹿馬鹿しいやり取りで幾分気がまぎれたものの、問題は根本的な解決に至らない。結局香穂子は鬱々と午前中の授業をやり過ごし、そしてとうとう問題の昼休みがやって来る。昼食を終え、昨日理事長室に呼ばれた時刻になると、香穂子は渋々ながらも席を立った。このままこの問題を放置しようにも、どうせまた校内放送で呼び出しをかけられるのだろう。未だ結論は出ないままだったけれど、理事長室に向かわないわけにはいかなかった。
「あれ、香穂ちゃんどこ行くの?」
 まだ事情をよく知らない美緒が、突然席を立った香穂子に声を掛ける。どう言おうか迷っていると、直が頬杖をついたまま美緒の制服の袖を引いた。
「それよりもアンタ。次の授業の数学、当たるんじゃなかった? ちゃんと予習してきてんの?」
「あ!そうだった。昨夜テキスト開いてたけど、結局よく分かんなかったんだった……。直ちゃん、お願い、ノート見せてえ……」
 数学の苦手な美緒が、得意な直に泣きつく。今のうちに行って来い、と直が視線で促した。
 心の中で頭を下げつつ、香穂子は足早に教室を後にする。後ろ手に教室のドアを閉め、香穂子は大きく息をついた。
 ここから理事長室にたどり着くまでに、香穂子は香穂子なりの結論を出さなければならない。
 答えは二つに一つ。卒業演奏会の代表というプラチナチケットを受け取るか否か。
 そして、認めざるを得ない。
 このプラチナチケットは、受け取るには代償が大きすぎる。
 ……だが、香穂子にとってそれでも受け取ってしまいたいと思うほどに、魅力的なものだ。


 香穂子が昨日訪れた理事長室の前にたどり着くと、またそこには先客がいた。
 正にドアをノックしようと片手を上げていた人物が、香穂子に気が付いて視線を向ける。少し驚いたように目を見開いたのは、月森だった。
「……君か」
 どこか冷たい声で、月森が呟く。別に萎縮する必要はないのだが、香穂子は少しだけ身を縮め、軽く会釈した。
「そうか、君も昨日の返事を理事長に告げに来たのか」
 一人納得し、ならば、と月森が遠慮なく理事長室のドアをノックする。
 あ、ちょ、心の準備が!と心の中で香穂子は月森を止めたが、当然のことながら心の中の訴えは月森に届かなかった。
「月森です、失礼します」
 月森が遠慮なく理事長室のドアを開く、一歩踏み入った月森に視線で促され、香穂子は渋々ながら彼の後について、理事長室に入った。
「おや、お二人さん、御揃いで。仲のいいこった~」
 からかうように言ったのは、金澤だった。昨日と同じように目の前の豪奢な机には理事長が座り、その傍らに金澤が立っている。
「偶然、ドアの前で行き会っただけです」
 律儀に答えた月森に、「そんなに即答せんでも」と金澤が苦笑いした。
「さて、無駄なやり取りは好きではない。早速本題に入ろう」
 落ち着いた声で、理事長が言う。目の前に立つ月森と香穂子を交互に見渡し、尋ねた。
「卒業演奏会の代表、引き受けてもらえるかね?」
「勿論です。微力ながら、学院代表として恥ずかしくないよう、そして卒業生の心に残る演奏会になるよう、完成された演奏を観客に披露したいと思っています」
「結構」
 月森が、迷う様子もなく答え、理事長が軽く頷く。
 そして、理事長は香穂子へと視線を向けた。
「日野くん、君は?」
「わ、たし……」
 私は、と呟いて、香穂子は次の言葉が出てこない。
 お断りします、と言うべきだ。分かりきっている。それなのに。
 しん、と理事長室が静まり返る。ここだけ時間が止まってるみたいだ。
 そして、その静寂を。……香穂子の隣から発せられる、小さな溜息が揺るがした。
「……日野さん」
 硬く、冷たい月森の声。香穂子がそっと隣を見上げると、呆れたような表情の月森が香穂子の方を見ていた。
「……昨日、言ったはずだ。中途半端な気持ちなら、引き受けない方がいい。それが君のためだと思うし、そもそも興味本位でこの申し出を受けるつもりなら、一緒に行動する俺が迷惑をする。……そんなに迷うくらいなら、はっきりと断ってくれないか。どうせ一緒に演奏を作っていかなければならないのならば、俺は、もっと向上心を持っている人間と演奏がしたい」
 香穂子は、月森の言葉に目を見開く。
 あまりにもはっきりと迷いを指摘されたことに驚いたこともあり……そして、一方的な言い分に腹が立ったこともある。
(月森くんが、私の迷ってる理由の何を知ってるって言うの?)
 音楽科に進学して、好きなだけヴァイオリンが弾けて……月森はきっと知らないに違いない。
 弾きたくても弾くことが出来ない人間の苦悩など。
 どんなに音楽が好きでも、どんなに演奏がしたくても、弾くことを許されない人間のジレンマなど。
「日野くん、……断るかね?」
 感情のゲージが一気に上昇していくのが自分でもわかった。それが臨界点に到達した瞬間、背後から理事長が畳み掛けるように尋ねてくる。
 香穂子は、思わず脊髄反射で、その問いに答えた。

「やるわよ! やればいいんでしょ!!」

 香穂子の叫びに、そこにいた全員が一様に目を丸くする。
 あ、しまった。タメ口だった。と、まず反省した。
 だが香穂子はその後、自分の発言の内容の方の重大性に、みるみるうちに青ざめる。
「ああああああっ!」
 別の意味で絶叫し、香穂子はその場に頭を抱えてうずくまる。
 失礼なことに、またもや金澤が理事長の隣で爆笑していた。
「お前さん、ほんっとに反射で物言う奴だなあ!」
「……放っておいてください……」
 実は、自分でもそうだと思っているので、香穂子は落ち込んだまま沈んだ声で呟く。
「それで、日野くん。本当にこの申し出を受けると思っていいのかね? ……売り言葉に買い言葉で言ったのなら、辞退しても構わないよ。こう言っては何だが、月森くんの言うように、遊び半分、勢い半分で受けられて、演奏会を台無しにされても困るからね」
 自分が代表にと推しておきながら、理事長も言う事が辛辣だ。
 香穂子は、床の一点を見つめて、しばし黙り込む。
 両目を閉じて、……そして、開く。
 ゆっくりと、その場から立ち上がった。
「……いえ。受けます、この話」

 ずっと、迷っていたのは。
 どうしても、この申し出を即断できなかったのは。
 心の奥底で、香穂子がこの申し出を受けたいと切望していたからだ。
 ……脊髄反射で出てきたものだからこそ。
 このプラチナチケットを受け取ることが、香穂子自身の望みなのだ。

「でも、一つだけ条件を付けさせてください」
 真っ直ぐに理事長を見つめ、香穂子は言う。
「飲める条件ならね。……聞こう」
 軽く頷き、理事長が促す。香穂子はゆっくりと口を開いた。
「……私が卒業演奏会に参加することが、絶対家に知られることがないよう、協力してください」
 隣で、月森が微かに息を呑む気配がする。……彼には、きっと意味が分からない申し出だろう。理事長はじっと香穂子の顔を見つめ、それからふと唇をゆがめるようにして笑った。
「……月森くん」
「はい」
「今、携帯を持っているかね」
「……はい」
 頷いて、月森がジャケットのポケットから自分の携帯電話を取り出す。理事長は香穂子にも携帯を出すように促し、それから金澤に言った。
「月森くんと日野くん、それから金澤先生の携帯番号、メールアドレスをそれぞれお互いに登録しておきたまえ。演奏会のことで何か突発的な連絡事項がある場合、極力学院内で連絡をするようにするが、どんな状況で連絡をしなければならないか分からないからね。……携帯に連絡することに問題はないかね?」
 理事長の問いに、香穂子は頷く。
 面倒がる金澤と、何故か自分の携帯なのに操作方法に疎い月森、そして自分の携帯の三つ分を何故か一人で操作することになった香穂子が、全員の連絡先を登録し終えると、徐に理事長が香穂子と月森を見渡し、告げた。
「それではこれから約1年間、君たちには卒業演奏会成功のために尽力してもらうことになる。……それと、代表に決まったからと言って、君たちの代表が確定しているというわけではない。……金澤先生」
 視線で促され、へいへい、と面倒そうに答えた金澤が、月森と香穂子にそれぞれ大きな封筒を手渡した。封のされていない角2封筒を覗くと、厚みのある書類が入っている。
「卒業演奏会開催までの間、君たちには校内で開かれる4回の公式の演奏会に参加してもらう。ソロ、デュエット、カルテット、アンサンブル、オーケストラ……どの形態でも構わないし、だれをメンバーに選んでも構わないが、必ず君たち二人は演奏に参加すること。そこで私たち教師陣、学院生、OB・OG……一般聴衆が参加できるものであるならば、一般聴衆に到るまで。それらの全ての人間が、君たちの演奏を評価する。その評価次第では、もちろん君たちを代表から降ろす可能性もある」
「つまり、俺たちの演奏の評価が低ければ、別の代表を立てるということですか」
「そういうことだ。……君たちはあくまで現時点で、私が代表にと選んでいるだけなのだからね。君たちがふがいない演奏をして、皆が代表としてふさわしくないと判断すれば、ふさわしい者を代表に変更するのは当然だろう」
 月森は、封筒から引き出した書類に目を通している。やがて、静かな声で呟いた。
「……最初の演奏会まで、1ヶ月もないんですね」
 え、と慌てて香穂子が書類を見る。最初の演奏会は「新入生歓迎演奏会」。5月のゴールデンウィークに入る前に開催されるものだった。新年度が始まったばかりの今からなら、確かに3週間程度しか時間がない。
「……怖気づいたのなら、断っても構わないよ」
「いえ。逆にやりがいがあります」
 からかうような理事長の言葉に、月森がきっぱりと答える。君は?と視線を向けられ、香穂子も悲壮な表情ながら、しっかりと頷いた。
 ……演奏の出来次第で代表から外されるのであれば、願ったりだ。コネや運で代表になったと思われるより、きちんと実力で評価してもらえるということなのだから。……当然、現在の香穂子ではその実力そのものに不安があることは承知の上だが。
「詳細は、また後日連絡する。とにかく君たちは渡したレジュメ通り、まず「新入生歓迎演奏会」までに、2曲準備すること。……いいね」
 再度、月森と香穂子が頷く。
 理事長は満足そうに頷き返した。
「結構。……では二人とも、行きたまえ」
 失礼しました、と二人が丁寧に頭を下げ、理事長室を後にする。
 しばしその閉じられたドアを眺め、金澤が小さく息をついた。
「……いや、しかし、びっくりだな」
「何がです?」
 不思議そうに吉羅が首を傾げる。
「何がって、お前さん。……日野が、あんなにあっさりと引き受けるなんてびっくりだろ。昨日の様子から、絶対断ってくると思ってたのに」
「そうですか? 私は逆に、昨日の様子なら彼女は引き受けると思ってましたよ。昨日も言いましたが、本当に嫌ならばその場で断ればいいことです。……おそらく、彼女は弾きたくて仕方がないはずですよ」
「そうそう。俺はそれが前々から疑問だったんだよ」
 ぽん、と両手を打ち、金澤が言った。
「吉羅、もしかしてお前、日野が表舞台から消えた理由、知ってんのか?」
 かつて、神童と呼ばれた幼いヴァイオリニスト。
 将来を期待されたその新星は、ある日突然表舞台から消えた。
 金澤は、その詳細を知らなかった。
 神童の存在すら、吉羅から聞かされたおとぎ話のようなものだ。
「そうですね。知っていると言えば知っているような……私にとっても、あくまで噂の範疇です。だから、あえて貴方にも何も言いませんよ」
 ……吹聴するような楽しい話でもないですしね。
 吉羅は、金澤に聞こえない声で、そう小さく呟いた。


「……日野さん」
 教室に戻るまでの間、香穂子は月森と肩を並べて歩いていた。沈黙のまま音楽科校舎と普通科校舎の分岐点であるエントランスまでたどり着くと、不意に月森が香穂子を呼ぶ。香穂子が振り返ると、月森は静かに告げた。
「……君に本気で参加の意志があるというのなら、俺はもう何も言わない。後は如何に俺達の演奏を良いものにしていくか……それだけだと思う」
「……うん」
 こくり、と香穂子が頷く。どこか沈んでいる香穂子を怪訝そうに月森が見つめたが、それ以上の追及を、彼はしなかった。
「とりあえず、俺たちは一度音を合わせてみた方がいいと思う。君の都合が良ければ、今日の放課後にでも……」
「あ、ちょっと待って」
 月森の申し出を、香穂子は片手を上げて遮った。
「……ごめん、一緒に練習するの、一週間待って」
「一週間?……本番まで時間もなく、まだ演奏曲も決まっていないのにか?」
 どこか責めるような月森の口調に、香穂子は小さく……だがはっきりと頷いた。
「月森くんの言いたいこと、よく分かる。だけど、ごめん。……多分、最低でも一週間は私が自分の練習をちゃんとしておかないと、月森くんにはついていけないから」
 ……おそらく、本当は一週間でも足りはしないだろう
 昨日の彼の演奏を聴く限りでは、あまりにも月森の実力と香穂子の実力差があり過ぎる。
 だからこそ、現状で彼と合わせることは無意味だ。ある程度香穂子の力を引き上げてからでなければ、未熟な演奏のままでは逆に月森の足を引っ張りかねない。
「一週間でどこまで取り戻せるか分からないけど、月森くんの足を引っ張らない程度には仕上げてくる。だから、少し待ってて」
 きっぱりとした口調で香穂子は言った。
 ……月森は、そんな彼女の態度に少なからず驚いていた。
 知り合って、まだ二日目だ。彼女の本質など、月森は知りようがない。
 そもそも、それほどまでに他人の感情に機微な方ではないのだし。
 だが、それでも日野香穂子の確かな変化は、月森に伝わっていた。昨日、理事長室の前で初めて会った時。放課後、屋上で少し会話を交わした時。そして、今日再び理事長室で顔を合わせた時。月森が彼女に抱いた印象は、どちらかと言えば決断力の弱そうな、流されやすく、頼りないものだった。
 だが、演奏会の代表を引き受けると宣言した瞬間から、それまでの彼女とはどこかが変わったように思える。
 何か、一本揺るぎない芯が通ったような。
「……分かった」
 深く追求する気はなかった。
 月森は、他人の背景にはあまり興味がない。一緒に演奏をする人間として、相手がどれだけ真摯に音楽に、そして楽器に向かっているかだ。そこに欺瞞がないのならばそれでいい。
 願わくば、相手に月森の足を引っ張らない、むしろ月森を向上させてくれるようなプラスアルファがあれば、申し分ない。
「一週間後、練習室を押さえておく。普通科の君が予約を取るより、俺が取る方が効率がいいだろう。時間と部屋番号は改めてメールする。……それじゃ」
「あ、月森くん!」
 要点だけを告げ、踵を返した月森の背に、香穂子が慌てて声を掛ける。
 肩越しに、月森が香穂子を振り返った。
「あの……やると決めた以上、ちゃんと頑張るから」
 真っ直ぐに月森を見つめる、彼女の眼差しは深く澄んでいた。
「月森くんの迷惑にならないよう、努力するから。……よろしくお願いします」
 ぺこん、と香穂子が頭を下げる。
 香穂子が顔を上げると、何故か月森は、ひどく渋い表情をしていた。
「月森くん……?」
 何か気に障ったのだろうかと、恐る恐る呼びかけてみると、月森ははっと我に返ったように小さく瞬きをした。そして、そのまま香穂子に背を向ける。
「……分かった。とにかく、また一週間後に」
 足早に去っていく後姿を、香穂子は無言で見送った。
(……やっぱり、気が進まないのかな)
 普通科で、音楽歴もよく分からない人間と共に学院の代表として演奏をすることは、月森にとってあまり喜ばしくない事態なのかもしれないと香穂子は思う。
(せめて、一緒に演奏をする人とは上手くやっていきたいんだけどな)
 方々からの風当たりは、ひどく強いものになるだろうと分かっているからこそ。

(……調子が狂う)
 月森は、自分の教室までの道のりを早足で辿りながら、先ほどの日野香穂子の言葉を脳内で繰り返していた。
 昨日も今日も、自分の態度は彼女にとって、決して優しいものではなかったはずだ。
 月森は彼女のことを知らない。そして、普通科であるか音楽科であるか、そういうカテゴリにも興味はない。理事長が選出するのならば、選ばれるに足る理由が彼女にはあるのだろうし、それを詮索する気は毛頭ない。
 それでも、代表に選出されたからと言って、代表になることの重さを理解しないまま、舞い上がって軽い気持ちで引き受けるのならば、月森と肩を並べてステージに上がって欲しくはないと思った。だからこそ、きつい言い方だと自覚していながらも、あえて厳しい言葉を彼女にぶつけたのだ。
 当然、彼女が代表を引き受けるにしろ断るにしろ、月森のことを快く思わないであろうことは覚悟していた。
 ……だが。
(あんなふうに素直な反応をされてしまうと、どう返したらいいのか分からない)
 月森が自分に課し、そして他人に求める厳しさは、なかなか周りからは理解されない。
 故に月森は、あれだけ自分に厳しい言葉を浴びせられながら、それでも月森の足を引っ張らないように頑張ると告げた香穂子の素直さに、ただただ困惑していたのである。



 教室に戻り、直に卒業演奏会の代表を引き受けた旨を告げると、「やっぱりね」と苦笑いで納得された。
 それでも、協力を惜しまないと言ってくれたので(もちろん、約束のケーキセットとシュークリームは感謝の気持ちを持って提供するのだが)、香穂子は安堵する。
 美緒にも、近いうちに打ち明けるつもりだ。
 彼女の反応はまだ分からないが、それでも一人でも味方がいてくれるというのは、香穂子の心に少しだけ余裕を与えてくれる。
 もちろん、香穂子が代表になることを、学院内のすべての人間が批判するわけではないと分かっている。
 だが、誰もが歓迎をしてくれるわけではないことも、香穂子はよく知っている。
 ……過去にほんの一時だけ、その世界に足を踏み込んでいた時期があるからだ。
「さて、と」
 とにもかくにも、引き受けた以上、香穂子も腹をくくる。
 月森との練習を開始するまでに、香穂子は香穂子の準備を整えておかなければならないのだ。
 放課後、校門を出たところで香穂子は携帯を取り出し、電話帳のデータを表示する。「た」行の一覧にある、「ちーちゃん」という名前の番号をダイヤルした。
 目を閉じ、香穂子は呼び出し音の回数をのんびりと数える。1回や2回では出ないと分かっている。10回で出れば御の字だ。最低でも、30回は鳴らさないと。
(練習してたら、日を改めないと駄目だろうしなあ……)
 そう考えた27回目の呼び出し音で、相手が受話器を取った。
「……あ、ごめん。久しぶり。香穂だけど」
 回線の向こうで、相手が息を呑む気配。
 久しぶり、どうした?とぼそぼそと低い声で相手が呟く。
「あのね。今からそっちに行きたいんだけど。今日は家にいる?」
 しばしの沈黙と共に、大丈夫、と答える。突然の申し出に、困惑しているのだろう。
 どうかしたのか?と、もう一度相手が尋ねてくる。
「うん……」
 周りには誰もいなかったが、無意識のうちに香穂子は内緒話をするように、小さく声を潜めた。

「あのね、『ちーちゃん』を引き取りに行きたいの」




あとがきという名の言い訳 【執筆日:2013.4.6】

連載のため、連載終了後に!

Page Top